71 精霊の傷
夜が更けていく。
あてがわれた部屋のベッドの中で、カナリーはまんじりともせずに過ごしていた。
同室の女たちはそっぽを向いて横になっていた。まだ寝息は聞こえてこなかったから起きてはいるのだろうと思う。
でもうるさいからそれ以上しゃべるなと、つっけんどんに言われてしまった。
最初親切そうに見えた年かさの女は、カナリーが自分の境遇を一生懸命説明しているうちに、なぜかだんだん不機嫌になっていった。
もう一人は最初からこちらを見下していて、口を利いてくれない。
見世物小屋の副座長にだまされたことや、女将に脅されて契約書にサインしたことなどを涙ながらに話すカナリーに、女はそっけない声でこう答えたのだった。
「結局あんた、自分から署名しちゃったんじゃないの。あんたの意思で決めたことでしょ」
だって──。
「見世物小屋にいたことがあるんだったら、そういう化け物っていうのが、大体つくりものだってわかってたんじゃないの? いるわけないじゃん。トカゲの頭の人間なんて」
思い出して、カナリーは身震いした。
断じてあれは、つくりものなんかじゃない。
竜頭と呼ばれていた奇怪な化け物は、あのとあと眠り込んでしまったまま、ずっと起きなかった。女将が新しく切り落としていった尻尾の傷口からは、青っぽい体液がじくじくと沁み出して床を濡らしていた。
女将が来て部屋から出される前に、濡れた床に滑って転んでしまった。転んだはずみに、こともあろうに化け物の傷に両手が触れた。さらに床の汚れにひざをつけてしまい、最悪に気持ちが悪かった。
やっと地下から出してもらえた。そう思ってほっとしていたら、女将がカナリーに言ったのだ。
やはり、今度は若い女の肉を食べさせてみようかねえ。本人もその気だったし、案外元気が出るかもしれないからね。もう相当弱っているようなんだが、なるべく長く生かして飼うようにって、改めて上からお達しがあってねえ……。
嫌だ嫌だ。こんなところで死んでしまうなんて。それも、あんな気持ちの悪いものに食べられて終わるなんて、絶対に絶対に嫌だ。
おとなしくしていれば餌にはしないと言われたばかりなのに。そんなの話が違うとカナリーは必死で訴えた。
すると女将は、提案があるんだよと持ちかけてきた。
あすの午後にもう一人、女が来る予定になっている。女からはとある娼館に紹介してくれと言われている。あんたがその女の代わりにそこの娼館と契約をする気があるのなら、その女を代わりに竜頭の餌にまわそうかと思うんだ。
娼館なんて、絶対に嫌だとカナリーは撥ね退けた。
そうしたら女将は、そうかい、まあそうだろうねと言って笑った。そしてその場で、傍らに控えている男に命じたのだ。カナリーに、例の焼き印を押すようにと。
真っ赤に熱された焼きゴテが、カナリーの目の前で火から取り上げられた──。
「だからねー、ここに来る方が死ぬよりマシだと思っちゃったわけでしょ、あんた。自分で選んどいて、こんなはずじゃなかったって言ってること自体が、あたしには理解できないんだわ」
だって、だって。
好きな人がいるのだ。
その人のことだけを想って、その人にも想われて過ごす時間を夢見ていたのに。
自分は違うのだ、こんなところに来るような女じゃないんだと必死で訴えたら、相手はムッとした声になった。
「なあに、あんた、あたしらを馬鹿にしてんの?」
「姐さん、もう相手にすんのよしなって」
若い方の女が、カナリーからは視線を外したまま、聞こえよがしに年かさの女に話しかける。
「あーあ、まったく面倒くさいのに当たっちまったねえ。だからあたしは新人の教育だなんて割に合わない役を引き受けるのはやめとけっていったのに。手当だってスズメの涙だっていうのにさ。ああ、でも隣の部屋に入った子は利発そうで、飲み込みが早そうだったな。あたしらがあの子に当たってたらラッキーだったのにな」
だって、だって。そんなのひどいわ。
カナリーは涙目になって、自分を無視しつづける意地悪な女を見た。
カナリーがどれだけ理不尽な目にあっのかをどんなに言葉を尽くして説明しても、女たちは同情してくれそうにもなかった。
しまいには、安眠妨害だからもう黙れと、遮られてしまった。
「あんたら新人は最初の客は厳選されるから明日はまだひまかもしれないけど、あたしらは毎日しっかり仕事があるんだからね。これ以上ごちゃごちゃわめいてうるさくしたら、許さないわよ」
「姐さんはそろそろお肌の曲がり角だもんね」
カナリーとは口を利いてくれない方が、茶化すように言った。
「悪かったわね、お肌の曲がり角で。でもあんただってそうよ。若くたって寝不足は美肌の敵なんだからね」
女たちは、そそくさとめいめいのベッドにもぐりこんでしまった。
とたんにあたりを静けさが押し包む。
部屋の隅に一つだけ、明かり取りのための燭台の火が残されていて、ゆらゆらと部屋のなかを照らし出していた。
夜更けというよりも、明け方に近い時間で、見世物小屋では下働きの人間がそろそろ起き出している時刻だ。
しかし、静かだと思ったのはつかの間だった。
パタン。パタパタパタ。
ドアを開閉する音に続いて廊下を小走りに移動する足音が近づいてきて、入口のドアがノックされた。
コンコン、コンコン。
「こんな時間にだれなの?」
年かさの女の方がそう問いかけると、少女の声が返ってきた。
「わたし、きょうからとなりの部屋に入った者です……」
「ああ、隣室のもう一人の新人さんね。新人さんがこんな夜中になんの用?」
「あの……わたし、怖くて眠れなくなっちゃって……となりの部屋のリーダーの方が……その、余興だといって怪談をたくさん話して聞かせてくれて……。聞きたくなかったんですけど……大サービスだとかいってたくさん……」
か細い声で、ドアの向こうから少女は訴えた。
「お人形の首の話なんか特に怖くて。怖くて怖くて情景が頭に浮かんで離れなくて。でも同じ部屋の人たちは、話すだけ話してさっさと眠ってしまって……わたし一人が取り残されて、眠れなくて、怖くて……。さっきまでこちらのお部屋から話し声が聞こえてたから、もしかしたらまだだれか起きているかもしれないと思って……。お願いです。きょう一晩だけでいいので、こちらに寄せてもらえませんか?」
女たちは顔を見合わせた。こちらはこちらで疲れる新人の相手をしていたから隣室の様子にまでは気が回らなかった。そういえば、隣は隣で騒がしかったような気がする。
「そういや、隣室のあいつって無類の怪談好きだっけ?」
「この間も客からとびきりの怖いネタを仕入れたとかいってはしゃいでたね。けど何も新しい子相手に初日に披露しなくても……」
「あんた、災難だったね」
年かさの女が歩いて行って、ドアを開けた。
「いや、あたしらももう寝ようとしてたとこなんだけどね」
廊下に立つ少女に声をかけながら、年かさの女はカナリーを振り返った。
「こっちにも一人話し足りないみたいなのがいるからちょうどいいや。よかったら、あたしらの代わりに話し相手になってやってよ。自分の身の上が不満みたいなのよ。ここに来る子なんて皆、似たり寄ったりなのに、自分だけが特別だと思ってるみたいなの。うっとうしいからあたしらはもう聞く気になれないけど。だれでもいいから話し相手がほしいと思ってるみたいだから、あんたでもいいと思うんだ。ただし、話は小さな声でお願いね」
その言葉には答えず、廊下の少女はするりとドアをくぐって部屋の中に入ってきた。
「待って!」
若い方の女が驚きの声を上げた。
「姐さん。その子だれ?」
薄暗い燭台の灯に照らされた少女の姿は、確かにカナリーにも見覚えのないものだった。恐らく一度見たら忘れられないぐらい印象的な少女だ。暗い色の──恐らく漆黒の──腰までも伸びた真っ直ぐな髪。白くて透き通った面差し。くっきりとした形のよい大きな目。つややかに形のよい唇。すべてのパーツが整い過ぎていて、冷たい印象を与えるほどの美貌の持ち主。
秋の夜は冷え込むというのに、薄手の黒いワンピースを1枚身にまとっているだけだ。しかも裸足だった。
「あんただれ?、隣りの子じゃないね? どこから入ってきたの?」
少女は女たちの制止をまったく意に介さず、カナリーに歩み寄る。
「カナリーね? あなたに、聞きたいことがあるの」
半身を起こしたカナリーは、目をしばたたかせる。
少女が突然、床の上から10センチばかり浮き上がったように見えたからだ。
「あたし……?」
「暗くてはっきり見えないわね」
少女は軽く両手をかざすと、その手の中央に光の球が出現した。それは少女の手を離れて、まるで月がのぼるように中空に浮かび上がり、天井近くでぶわりと輝きを増した。
部屋全体が昼間のように明るくなる。
明るくなった部屋の中央で、さっきまで宙に浮かんでいた真っ白な足は、汚れた床に静かに着地した。闇色の髪を揺らしながら、少女は微笑んだ。
「あなたの両手に聖痕」
「聖痕?」
カナリーはなんのことかわからずに手元に視線を落とし、驚いて声を上げた。
「えっ? えええっ? なにっ? なによこれ? どうして?」
自分の両の掌が燐光にも似た青白い光を放っている。光の影響か、皮膚が半ば透き通り、皮膚の下の細かい血管が浮き上がって見える。
「精霊の傷に触れたのね。影響を受けてるの。それが消えないうちなら、居場所を辿ることができるわ。教えて! その精霊はいまどこにいるの?」




