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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[一] 怪物の島と南の国 
7/110

07 死んだ魚の魔法

 ジジジジ、とランプの灯の芯の燃える音がして、ルビーは目を開けた。

 ルビーは籐の揺り椅子の上に座らされていた。いつの間にか眠ってしまったらしかった。


 そこは、みんなと夕食を食べていた部屋よりは小さい部屋だった。高い天井にある天窓には青っぽい色ガラスがはめられている。そこからぼんやりとした薄明かりがさしてきていて、まるで深い海の底にいるようだった。

 目の前にはテーブルがあって、取っ手のついた銀色の丸い蓋が、皿らしきものの上にかぶせられた状態で並んでいた。でも、ルビーにはそれが何なのかがわかった。さっきルビーが手をつけることができなかった皿だ。


 ルビーは身を起こし、テーブルの向こうの人影に気付いてぎくりとした。

 黒いベールで顔を覆った貴婦人がルビーと向かい合うように座っていて、じっとこちらを見ていた。


「みんなは?」

 きょろきょろとあたりを見回して、ルビーは聞いた。

「みんなは先に帰ったわ」

 貴婦人はそう口を開いた。物静かな口調だった。

「あなたが目を覚ますのを待っていたのよ。料理は冷めてしまったけど、それでもおいしいと思うわ」

 彼女はテーブルに歩み寄ると、黒い手袋をした手で、皿の蓋を取った。

「さあ、おあがりなさいな」


 ルビーはかぶりを振った。

 食卓の上を指して、貴婦人が言った。

「うちの料理人が港でこれを見つけて来たの。人魚に会いたくて、この魚はここまでやってきたんだわ。食べておあげなさい」

 ルビーは椅子の上で身を引いて、もう一度大きくかぶりを振った。


 黒いベールの向こうで、貴婦人の目はずっとルビーを見ている。ベール越しの視線に、やっぱりルビーは強い強い既視感(デジャビュ)のようなものを覚えた。


「強い魔法がこの魚にはかけられているの」

 そしてその声。歌うような、独特の韻律を持った古い音楽のような深い声。その声は、ひょっとして人魚の長老の声に似てはいないか? でも、似ているような気もするし、そうでないような気もする。

 ルビーはベールに包まれたその顔をじっと見た。


「ルビー」

 人間の女性である貴婦人の声に、もう一つの別の声が重なって聞こえてきた。さっきまで一つの声として聞いていたものを、ルビーの耳は注意深く聞きわけた。

「あなたが魔法を受け取ることを拒んだら、この魔法は宙に浮いてしまって、この国の風にまぎれていつまでもぐるぐると地上を回り続けるしかなくなるわ。そうなってしまったら、いつかこれは呪いのようなよくないものに変化してしまう。お願いよ。アシュレイを食べてあげて。魚の最期の願いを叶えてあげて。そして魔法を終わらせるの」


「アシュレイはお友達よ」

 泣きそうな声になって、ルビーは答えた。

「お友達を食べることはできないわ」

「アシュレイはもういないの」

 深い、物憂げな声が言った。

「そこにあるのはあなたのために用意された、魚の願いを叶えるための、たった一つの供物なのよ」

 ルビーはもう一度、激しくかぶりを振った。


 けれどもルビーにはもうわかっていた。

 これはルビーのために用意されてもので、食べることを拒んでも、アシュレイはもう戻ってこないのだ。

 ルビーは身を起こし、食卓に添えられたナイフとフォークに手を伸ばした。

 貴婦人は微笑んで立ち上がり、水差しを取って、ルビーのグラスに水をそそいだ。


 このまま時間が止まってしまえばいい。そう思いながらも、ナイフで切り分けた魚のひと口目を、ルビーはゆっくりと口に運んだ。

 ゆっくりと噛んで、それから飲み込んだ。味などまるでわからなかったが、無理にでもおいしいと思おうとした。噛むのは苦痛だったが、さりとて嫌いな食べ物を避けるときみたいに丸ごと飲み下すのにも抵抗があった。けれども結局喉に詰まり、グラスの水の助けを借りて、やっと飲み込んだ。


 不意に、魚の記憶が、溢れ出すようにルビーの心の中に流れ込んできた。




 青い、青い海のおもてを何度も行ったり来たりしながら、人魚の少女の姿を、魚は懸命に探し続けていた。


 あの日アシュレイは小さな人魚の少女と約束をした。日が暮れる頃、南の島の沖合いで待っていて、北の海に少女を連れて帰ると。

 アシュレイは少女が心配だったから、約束の時間よりもずいぶん前の、まだ太陽が空高く照り輝いている時間からずっと、海の表面近くをうろうろしていた。

 そうしたら、船がたくさんやってきて、そのうちの1艘に見つかった。

 船の上から少女は飛び込んできた。透き通る水がきらめき、少女の影が躍る。

 一つの言葉がアシュレイを突き動かす。


──逃げなさい。アシュレイ。深く潜るの。

 少女の言葉にアシュレイは逆らえない。なぜならアシュレイに名前をつけたのは、ほかならぬ人魚の少女だったからだ。

 本当は少女のところまで泳いで行って、少女を連れて、一緒に逃げるつもりだったのに。

 人魚の放つ言葉の魔力に突き動かされるままに、アシュレイは深く深く、海の底に潜った。


 約束の時間にアシュレイは戻って来て、宵闇の中、浜辺に向かって押し寄せていく波のすぐ下で、いつまでもいつまでも少女を待っていた。けれども月が沈み、東の空が白み始める頃になっても、人魚の少女は戻ってこなかった。




 知らなかった。

 アシュレイに、そんなに心配をかけていたなんて。

 そんなことは、知らなかった。

 あのあと彼は、ルビーのことなど忘れて、すぐさまどこかの遠い海に行ってしまったとばかり思っていた。

 能天気に世界中の海を泳ぎ回っているのだとばかり思っていた。

 第一アシュレイが自分の言葉に逆らえないことすら、ルビーにはわかっていなかったのだ。


 ……だったらルビーが外の世界に連れて行ってと頼んだときも、本当は困っていたけど逆らえなかったんだろうか?


 沸いた疑問の答えはすぐに、自分の内側からやってきた。

 記憶の中のアシュレイは、小さな人魚とのささやかな冒険を楽しみにしてくれていた。だからよく自分から北の海にやってきては、誘うように人魚の周りを泳ぎ回っていたのだ。


 一口食べるごとに、アシュレイの記憶はルビーの内側で広がっていった。


 涙がルビーの目から溢れ出し、静かに頬を伝って落ちた。

 涙はあとからあとから、とめどなく溢れてきた。心が痛い。心臓が痛い。全身が痛い。キリキリと痛んだ。どこが痛いのかももうわからない。痛くて辛くて苦しくて、一口一口をかみしめながら、ただルビーは泣き続けた。


 あれからアシュレイは何度も何度も、何日も何日も、南の海に消えたルビーを探してくれたのだ。

 水夫の銛に狙われた自分を逃がして、代わりにルビーが捕えられたことを、アシュレイは悟っていた。

 自分のせいで人魚が捕まったのだと思った。

 だから助けようと思った。でも、どうすればいいかわからず、ルビーが消えた島の周囲を泳ぎ回ることしかできなかった。

 海面すれすれを泳ぎ続けて、小さな人魚の影を捜し続けて、そうしてしまいには、見つかって捕まって、殺されてしまったのだ。


 漁師の銛が命中し、南の海が大きな魚の血で真っ赤に染まる瞬間を、殺された魚の目を通してルビーは見た。

 アシュレイは海から引き揚げられ、甲板に横たえられ、内臓を抜かれて、大きなのこぎりで切り分けられた。内臓は海に捨てられ、浮袋に、もつれながら広がる長いはらわたに、沈んでいく心臓に、大小のたくさんの魚が群がった。船の上に残る骨と肉が削ぎ分けられ、肉をさらに切り分けられ、バラバラにされて氷を入れた樽に詰められて陸に運ばれた。


 自分の命が消える、最期の最期にアシュレイは願ったのだ。

 もしも叶うなら、自分の命と引き換えに、人間に捕われた小さな人魚を救い出せたらと。

 その日の明け方、海の波はさざめきながら、魚の願いを、遠い遠い北の海まで運んでいったのだった。



 深海に降りつづける死んだプランクトンの雪のように、心には悲しみが降り積もっていくのに、ルビーの身体には今、静かなエネルギーが満ちてきていた。

 ルビーは椅子の足元の、鮮やかな赤い色をした自分の尻尾に目をやった。

 尾びれの付け根のくびれの部分に、つなぎ目のないつるんとした輪っかがはめられている。象牙のような白い色をしたアンクレットが、徐々にその色を変え始めていた。

 桜貝のような淡いピンクに、さらに宝石のルビーのような鮮やかな赤に。


死んだアシュレイの血の色だわ。


 アンクレットの色の変化と、そこに宿る新しい力を感じながらも、ルビーの心は深い悲しみに、涸れることのない涙をこぼし続けた。

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