67 奇跡の少女
「お父さまの御霊らしき怨霊が出現したの」
彼女がそう漏らしたのは、数日前のこと。ハマースタイン邸の使用人たちが領地への出立に備えて慌ただしく動き回っていた日々の間でのことだった。
女主人が発したその言葉だけで、何のために首相が彼女に召集をかけたのかが、ロメオにはわかってしまった。
その言葉に込められた意味が理解できるのは、警備兵の中ではロメオ一人だけだ。
屋敷の使用人の中では、執事ならわかるだろう。執事は女主人がハマースタイン大佐のもとへ嫁いでくるよりも以前からの使用人だ。
ロメオが警備兵として雇われたのは大佐が存命中のハマースタイン家だったが、そもそもロメオの実家はブリュー侯爵家の配下にあった。ロメオの父は侯爵に仕える武人だったのだ。
ブリュー侯爵城は、もともとそういう場所だ。もやったような何かの気配を透かして太陽の光さえどこかぼんやりとしている。よく晴れて空気の澄んだ日でさえ。
雨の降る日はなおのことだ。陰鬱な空気が城を中心に空を覆い、ほの暗いその気配は力を増すのだ。
ブリュー侯爵は、かつてアズラールという小王国を治めていた王の末裔だと言われている。カルナーナが王国としてのアズラールを制圧した戦いは、伝承では人と人の戦いではなく精霊同士のものであったのだという。カルナーナがアズラールを呑み込んだとき、王国を守護していた精霊は海に逃がれていったのだと伝えられている。
けれども実際にそこにある残り香は、伝承に記されたものよりももっと禍々しく淀んだ何かだ。残り香ともいえない意思や意識を持ったものとして。城の奥の、家臣たちの出入りの許されていない秘された場所に、それは確かに存在していた。そして、城をとりまく人々の意識に底の方でつながっていて、暗がりを恐れる心や孤独を忌む心に忍び寄り、浸食していく。
ブリュー侯爵領の領民らが侯爵家に対して抱いているのは、忠誠心というよりも、むしろ畏怖といった類の感情だ。恐らく他の貴族らの領地においても似たようなものであろうが、自らの領主に対して人々が持つのは、逆らうことのできない絶対的な支配者としてのイメージだ。一方で、カルナーナ王家そのものに対して彼らが抱いている感情は、もっと無邪気な憧憬のようなものに思われる。ある意味それは信仰といった類のものにも近いのかもしれない。
都で革命が起こり、生きた王家の血統が途絶えていても、領民たちにはまるで関係がないことのようだった。王家のものらは現の身を捨てて精霊の立場に戻ったとしてもなお、平安を願う人々を守護しつづけているのだと信じられていたからだ。
家臣であったロメオの父親も侯爵家へは絶対服従であったが、それとは関わりなく、昔からカルナーナ王家には傾倒していた。その気持ちは国民としての誇りやアイデンティティに直結している類のものとしても見てとれた。
領民たちがそうであったのはひょっとすると、心の切れ端に触れてくる何かの禍々しい気配を無意識のうちに感じ取り、それから逃れるために、心にすがるものが必要だからだったのかもしれない。
侯爵城には常に、城全体を押し包む何かの気配が満ちていたのだ。
多少感覚の鋭敏なものならば、その"声を"聞くこともできたのだという。
怨霊、という言葉に乗せてジゼルさまが示唆したのは、亡き侯爵がついに、侯爵城に満ちるその禍々しいものの仲間入りを果たしたという事実にほかならない。ブリュー侯爵家の人間は魔力を保有する一族だ。彼らはあるいはその禍々しいものの姿を、もっとはっきり目の当たりにすることができるのかもしれない。
ロメオはブリュー家に歴代仕えてきた武人の家の出だったが、十代の半ばごろ、両親が相次いで亡くなり兄があとを継いだことをきっかけに、生家を飛び出した。あの土地全体にしみついた、なんとも形容のしがたい陰鬱な空気が苦手だったのだ。
都に出てからは、さまざまな職を転々と渡り歩いた。ぬきんでた体格と鍛えられた武術を糧に、用心棒や荒事師や自警団などに次々と籍を置いた。北方の湖沼地帯に移り住み、国境沿いの傭兵部隊にいたこともある。
傭兵部隊にいたころ、隣国からのスパイによって隊員らの食事に毒を盛られたことがあった。ロメオは並はずれた体力でもって一命を取り留めた。が、それが原因で、体毛が全部抜け落ちた。
無毛になったことで、彼の人並み外れた容貌は、さらに恐ろしげな様相を呈した。
遍歴ののち南部に帰還し、人づてに紹介されてハマースタインの私邸の警備兵になったときは、貴婦人は変わり果てた彼のことなど気づかないだろうと思っていた。が、夫人はロメオをひと目見て言ったのだ。
「護衛なら、場合によっては侯爵領に同行してもらう必要があるのだけれど、大丈夫なの? あなたはあの土地へは帰りたくないのでしょう?」
記憶にある限りでは、ブリュー侯爵令嬢というのは人の顔も名前もろくに覚えない女だった。領民たちが密かにささやく噂の中には、頭が弱いのだ、というものすらあった。ロメオ自身も内心そう思っていた。頭が弱いというほどではなくとも、ネジが何本か緩んでいるに違いないと。
なぜという疑問が表情に出ていたのだろう。ロメオを見て彼女はころころと笑った。
「あなたのことはよく覚えているわ、ロメオ。だってあのころ、わたくしの誘惑をこともなげに退けたのは、あなたぐらいだったのですもの」
誘惑された記憶など、ついぞなかった。
貴婦人の記憶間違いではないかといぶかしむロメオに、当時は言葉による誘惑ではなく、直接意識に触れることをしていたのだと、彼女は説明をした。
魔力の顕現をそうやって確認し、自分の力を測っていたのだと。
どうやってだか、当時の彼女には人の心の内をかいま見ることができていたのだと。見るだけではない。そっと触れることもできた。他人の心のひだに密かに触れ、相手に気づかれぬままに操るのだという。働きかけて、ほんの少しだけ、その均衡を崩す。それでけでよい。呼応する劣情を自らの身の内に抱えた者であれば、彼女が仕掛けた無言の誘惑に抗えなかったのだと。
彼女はただ、無力な被害者の顔をしていればよかったのだ。
魔が差した──。
令嬢の魔の手に絡められた彼らは、我に返ったあと一様にうなだれて、そう口走ったのだという。
その者たちが我に返った直後の、心に響いてくる恐怖や恐慌や苦渋や悔恨や自己嫌悪や言い訳や自己正当化が、それらが混ざりあった複雑なおののきが、あのころの自分にとってなにより甘美な"供物"だったのだと告白する貴婦人は、どこか物憂げに見えた。
「でも、あなたはまったく動かなかったわ。ロメオ。まるで岩に働きかけているみたいだった」
無視していたわけではない。ただ、気づかなかったのだ。
侯爵城を覆う禍々しいものの気配なら、そのロメオですら感じ取ることはできた。だが、元来目に見えない力を感じ取る能力にも操る能力にも縁がなかった。むしろ、他人より鈍いぐらいなのかもしれない。その影響を受けないという意味において。
「どうなのかしら」
ロメオの返答に対し、貴婦人は腑に落ちないといった顔で小首を傾げた。
「だって、力の存在にまったく気づかない相手でも操ることはできたのよ。あなたは侯爵城がどんな場所だったのかを感覚で理解していたみたいだし、鈍いのではなくて純粋なだけかもしれないわ。だってわたくしをまったくそういう目で見てなかったということですものね」
確かに侯爵の娘を異性として意識して見たことは、まったくなかった。主君の娘だからという理由などではない。自分にはまともな忠誠心というものは昔からなかった。単に、頭のネジの緩んだ女に──当時そうだと信じていただけだったのだが──興味がなかっただけだ。
そのことを歯に衣着せず告げると、夫人は再び楽しそうにころころと笑った。
「でもね、ロメオ。そのころのわたくしには、ある意味必要なことだったの。だってあの城には、命ある人の意識よりももっと制御しがたい御霊が溢れていたわ。それらに常に触れて、荒れ狂わないようになだめ続けていなければならなかったのですもの。でなければきっと、知らずそれらと響き合い、同化してしまっていた。いまのお父さまのように。あるいは、もっと強く、魔力をふるう絶対的な存在として」
夫には話していないわ。隠しているわけではないのよ。言葉が見つからないの。きっと空を飛んでいたという告白と同じぐらい突拍子もないものとしか感じられないでしょうから。
夫が知っているのは、わたくしが彼に出会う前にはかなり遊んでいて、さまざまな相手と浮名を流していたということだけよ。それでいいの。
話したのは、あなたが同郷のものだったから。
認めてほしいとか、肯定してほしいとか言うつもりは毛頭ないの。あなたは職務を果たしてくれればそれでいいわ。ただ、そう、わたくしは他愛のない昔話をしているだけなのよ。
そんな意味のことを言って、貴婦人は再び微笑んだ。
いま思い起こせば、ハマースタイン大佐が生きていた半年ほどの間は、夫が留守がちであったにせよ、夫人はかつてなかったほど活き活きとしていて、幸せそうでもあった。
いまのように屋敷にこもりきるということもなく、夫の赴任先を追って、ひんぱんに国境沿いまで見送りに行っていた。
あのとき彼女は、魔力と霊力、という言葉を使ってはいなかっただろうか?
一度はそう思い起こしながら、すぐにロメオは頭の中でそれを否定する。
いや、違う──。
貴婦人は"霊力"という言葉は一度も使ったことがなかったはずだ。彼女自身は魔力に関して知識を得たり細かく分類したりすることにあまり熱心ではなかった。
──魔力は世の理に働きかけて変えてしまう力。霊力は世の理の外側にある力。人はみな、魔力はなくとも霊力を持つ存在なのだ。動かせない、ゆるがせにできない核となるものとして生まれつき持ち合わせている。人は魔力があろうがなかろうが、等しく"霊的な存在"である。
──だが、人として魔力をコントロールするためには、内側に溜め込む魔力に見合うだけの霊力がなければならない。強大な力を持つものは、その霊力を外側から補うために、生贄を必要とすることがある。
それを言ったのはだれだったのだろう。あのとき思いがけなく始まった夫人の昔語りを、脇に控えていて終始無言で聞いていた老執事だっただろうか? あるいは、きょう訪ねていった魔具を売っている婆だっただろうか? それとも別のだれかだったか。
そういえば──と、馬車に揺られながら、ロメオはまったく関係のないことをふと思い出した。あのとき夫人には、ロメオの女性の好みについてあげつらわれてからかわれたのだった。
「ロメオ、あなたは思慮深い、聡明な女性が好みなのね」
好みの女性のタイプがどうかなど、そもそもまったく考えてみたことなどなかった。
ただ、傭兵時代のかつての同僚に、恐ろしく選り好みが激しいと評されたことはある。
世の中の女の大多数が見た目のよい男を好む一方で、強い男に惹きつけられる女も一定数いる。だから子どもが泣き出しそうな強面のロメオにしても、これまでまったく女にもてなかったわけではない。
けれどもロメオは自分の上腕二頭筋を無遠慮にぺたぺた触ってくるようなタイプの女は嫌いだった。化粧臭い派手な外見の女も苦手だったし、"男を立てる"とやらでやたらこっちを持ち上げてくるような相手も、その言動が鼻について駄目だった。
男勝りな傭兵仲間の女は嫌いではなかったが、はなから異性として見ていなかったように思う。向こうは多分、こちら以上にそうで、同性の仲間に対するのと同じようにざっくばらんなつきあいでしかなかった。
「あんたが年齢イコール彼女いない歴なのは、断じて怪物じみた見た目のせいではないな。あんたの方が相手を振り落としちまってるんだ」
かつて同僚の男は呆れ顔でそう指摘したのだった。
別に自分は女嫌いではない。だが、大抵の女に心を動かされないことも確かだった。
ロメオが赤毛の娘の巡業中の一座への送り届けを貴婦人から依頼されたのは、つきあいが長いせいもあるが、彼のそういった"固さ"に寄せる信頼感もあってのことだ。
万一間違いが起こったら──。
男女が2人きりで何日も行動をともにすることについてのありきたりの疑問を、それでも一応口にしてみたロメオに、鷹揚に笑って貴婦人は言ったのだ。
「間違いが起こるのは、あなたがロビンを好きになって、ロビンの方もあなたのことを好きになるときだけ。それって全然間違いでもなんでもないのではなくて?」
走る馬車の中の暗がりをすかして、ロメオは赤毛の少女の隣で窓枠にもたれて眠る、もう一人の少女を横目で見た。
髪は後ろにひとまとめにしてひっつめたまま。ふっくらとした頬に落ちかかるおくれ毛はありふれた茶色で、出かけるときに着替えた外出着も至って地味な色だ。
17歳だという年齢の割に小柄で、見た目は幼い。数日前港から見世物小屋まで馬車で送り届けることになったカナリーの方が、一見年上に見えるほどだ。けれどもその言動はひどく大人びていて、ある意味アンバランスにも思える。2歳違いの弟と、たった2人きりの家族なのだと言っていた。ずっと保護者としての意識でいたのだろうと見てとれた。
魔具商人の婆に手渡された守護石を受け取るとき、支払いを持ってもらうことに最後まで不満そうにしていて、意思の強さをうかがわせた。
間違いが起こる、という表現は曖昧だ。
いま、どうしてだか自分は何かを間違ってしまったのだ。ロメオはそう思う。
突然、一方的に、自分の心の中でだけ、なんらかの手違いが起こってしまった。理由も何もなく、気がつけばこの可憐な少女の力になりたいと、強く願っていたのだ。
少女はアートのファンだといって頬を染め、恥じらいのためか俯いた。彼女もまた、強い男よりも綺麗な男を好む側に属する9割の女のうちの一人なのだと思った。そのあたりまえの事実がロメオを意気消沈させたが、そのことと自分の行動は関係ない。
見返りを望むのはよそう。力になれればそれでいい。
勢いに任せて連れ出してしまったが、弟のジョヴァンニ少年の行方について、確たるあてがあるわけではなかった。
ただ、ジョヴァンニの失踪には恐らく、ハマースタインの奥方をつけ狙う男の存在が絡んできている。だから自分にとってもこれは無関係な事件ではない。
ロビンのきょうだい弟子の行方を突き止めたあとは、自分の自由にできる時間はすべて使って、あの少年と姉のために奔走しようとロメオは腹をくくっていた。
近衛兵の宿舎から連れ出すにあたって、同行者としてロビンの名前を出したことが思わぬ有効な手札となった。
現政府に親和的なハマースタイン夫人のお気に入りの召し使いで、王家の末裔の男の言霊の魔術を退けた、奇跡の少女。
噂というのは起こったこととは無関係に、えてして一人歩きをするものだ。近衛兵隊長は、ロビンが人魚であったことも見世物小屋にいたことも知らないようだった。
あるいは噂を流した張本人は、案外あの場に駆けつけたカルロ・セルヴィーニ首相であったのかもしれない。そんなことを、ロメオはちらりと思う。
なぜロビンが夫人に同行しなかったのかを問われたが、こちらで用があって残ったのだと適当に答えておいた。
近衛隊長に対して嘘はついていないが、手の内をすべて明かしたわけでもない。
王家の末裔の術を破る魔術を操ったという少女の声はいまは失われているが、そのこともロメオはあえて告げていない。
かつてジゼルさまが、少女の歌の中に強力な魔力の流れを感じることがある、と言っていたことを、ロメオは覚えている。貴婦人は今回の首相の召集に応じるに当たって、自らの力を整えるための糧としてこの赤毛の少女を選び、犠牲にしたのだといっていい。
無邪気に貴婦人を慕っているらしい少女がそれを知ったとき、裏切られたと考えてショックを受けるのではと思っていたが、そんなそぶりはなかった。ロメオがそれを告げたときも、赤毛の少女は冷静で、ただ静かに考えをめぐらせていたようだった。




