66 魔力の代償
近衛兵宿舎にジュリアの荷物を取りにもどったあと、ロメオは御者に次の行き先を告げ、馬車は再び出発した。馬車はごとごとと揺れながら、昼間ルビーたちがチェックインした宿に向かっている。
ジュリアはいま、馬車のほろの窓枠にもたれてうとうとしている。何日もろくに眠れないでいたのだろう。疲れ切った横顔だった。
ジュリアを宿舎からこうして連れ出すにあたって、ロメオは近衛隊長に直接掛け合った末、どうやってだか同意を得てきたのだった。そのときルビーはジュリアとともに馬車の傍らで待っていたから、ロメオがどうやって交渉したのかは見ていない。
話が終わって馬車の待つ入口まで戻ってきたロメオは隊長を伴っていたが、隊長は特に反対するそぶりも見せず、念のためジュリアの意思を確かめにきただけだった。
眠っているジュリアの隣で、ルビーもぐったりと目を閉じていた。
近衛兵の家族向け宿舎、憲兵庁、まじない通り、そしてまた近衛兵宿舎と、行ったり来たりの移動はなかなかの強行軍だった。しかも一本裏通りに入ると道が整備されていないので、馬車の車輪が大きく跳ねる。乗っているだけで疲れるのだ。
いまは馬車は安定した走行を続けている。
闇夜だったが、カルナーナ南部都市の大通りには深夜まで燃え続ける街灯が灯されているため、あたりは十分な明るさを保っている。御者は危なげない動作で馬車を駆り、整備された馬車道のもたらす馬車の揺れは、規則的で心地よい。
目を閉じていても、ルビーが眠っているわけではないのが気配でわかったのだろう。不意に、ロメオが口を開いた。
「さっきのばばあが言ってた話だけどよ……町警察を出たところから、だれかがあとをつけてきてたってことだろう?」
ルビーは身を起こし、目を開けた。
「あの坊やのほかにも操られてる人間が、署の内部にいるんじゃねえかと思うんだが。さっき近衛隊長にも、そう進言してきた」
『操られるって、アントワーヌ・エルミラーレンに?』
即座にルビーは聞き返す。
すると、ロメオは苦笑を返してきた。
「ロビン、いまあんたが声が出せなくて助かったぜ。その名前を呼び捨てにされると、おれたちカルナーナの国民にはどうも心臓に悪いや」
やっぱりその心理はよくわからなくて、ルビーは首を傾げる。
「それはともかく、宿に戻ったらあんたも休んだ方がいいな」
『でも……』
とルビーはまた、首を傾げた。
『親方が夜、宿に顔を出すって言ってたわ』
「ああ」
ロメオは頷いた。
「1階の小料理屋で待っててくれって言ってある。あんたは休め。まだ喉が痛むんじゃねえのか?」
きのうからルビーが一晩じゅうお屋敷で歌を歌っていたことを、ロメオは知っている。
すっかり夜が明けて、皆が朝食を済ませ、出立の支度で使用人が走り回っていた時間にもまだルビーは、すっかりひび割れたひどい声で歌い続けていた。
「言いそびれてたが、あんたのこれまでの分の給料と、奴隷契約解除の証明書を、預かってきてるからな」
ルビーは驚いて隣のロメオを見上げた。
「きのうの歌で全部チャラにするってことだそうだぜ。バングルの鍵もおれが預かってる。好きなときに外していいそうだ。ただし、護身の意味合いもあるから、一座と合流するまではつけておいたほうがいいかもな。ああ、そういえばさっきのばばあも対の魔具になってるとかなんとか言ってたが、オリジナルの鍵はジゼルさまが持っていってしまった。いま渡せるのは複製の方だ。ま、複製でも、鍵が開きゃ、バングルは外れるからな」
ロメオの話は、ルビーには思いもよらないものだった。
それでは、約束とは違う。約束では全部で1000曲。ルビーがこれまで覚えた曲数は、せいぜいがところ700曲ほどだ。しかも、まだ聞いていただいていない歌もたくさんある。きのうどの歌を歌ってどの歌を歌わなかったのか、自分ではよくわからなかったが、知っているすべての歌を網羅したということは、さすがになかっただろうと思う。
「もともとおれはジゼルさまの故郷ブリュー侯爵領の出身だ」
ルビーが考え込んでいると、ロメオがまた不意に口を開く。
「実のおやじが侯爵家の家臣だったんだ。だからあの人とは、あの人がハマースタインの奥方になる前からの──屋敷にいる執事がブリュー侯爵城でジゼル令嬢づきの侍従長だったころからのつきあいになる。だからおれは、あんたやアートより、もう少しジゼルさまについて知っている。そして、あの男があの人をつけ狙う理由もな」
問い返す顔のルビーに、ロメオはにやりと笑って言い加える。
「あの男の名前はもう、反復しなくていいぜ」
隣で眠っているジュリアが、無意識にかどうか、身じろぎをした。
ロメオはまじめな顔にもどって、少し声のトーンを落とす。
「ジゼルさまのようなものは、貴族の間では昔から先祖返りと呼ばれている。人の身には制御できないほどの強力な魔力を保有していて、コントロールするためには生贄を必要とするんだ」
生贄という言葉は、ルビーには聞き覚えがある。
リナールにいたころレイラが聞いたという、アドレイア伯爵と息子のエルダーの会話の中の、わけのわからないやり取りの中に出てきたフレーズだ。
"贄"という言い方だっただろうか。
かつての求婚者としてのアントワーヌ・エルミラーレンは、エルダー・アドレイアの名前を借りてブリュー侯爵城を訪ねてきている。
アントワーヌ・エルミラーレンもまた、そうなのだろうか。いわゆる"先祖返り"と呼ばれる魔力保有者?
ロメオの言葉を聞きながらルビーの頭の中にその疑問がわいたが、たったいま心臓に悪いと言われたばかりなので、聞き返すのはやめた。
「これまでのあの人は、そいつとうまく折り合ってきていたように見えたんだがな。魔力をすべてコントロールするのではなく、余剰な魔力にはできるだけ不可触でいることで済ませてきた。ずっとそうやってバランスをとってきたんだ。だから、だれかをひどく傷つけるとか、多分、そういう極端なこともなくやってこられたんだ。だが、今回は無理だと──そうおっしゃってた。つまり──」
続く言葉を、ロメオはかすかに言い澱んだようだった。
いぶかしげに見返すルビーに、ロメオは低い声で告げる。
「あの人がおっしゃるには、あんたの声、もう元には戻んねえかもしれねえ」
言葉を放ったあと、彼は沈黙して、窺うようにルビーをじっと見た。
その言葉の意味をルビーが理解したかどうかを確かめるように。
朝の光の差し込む屋敷の広間に倒れ込み、意識が遠のいていく中で聞いていた奥さまの最後の言葉を、ルビーは思い出した。
ごめんなさい。そうジゼルさまは謝罪の言葉を口にしていたのではなかったか? 楽団の人たちとの約束を果たせなくしてしまって、ごめんなさいと。
ルビーは男を見上げて、ゆっくりと聞き返す。
『もう、声が出せないかもしれないってこと?』
それともこの喉の痛みがずっとなくならないままだということだろうか?
あるいは声は戻るけれども、歌はもう歌えないという意味だろうか?
まだなんの実感も持てないまま、ルビーは考えを巡らせた。
確かなことは、ロメオも知らないのだろう。
「わからん」
彼は短くそういらえると、首を振って低くうめいた。
「畜生、なんでおれがこんな役回りなんだ」
宣告を受けたルビーよりも、告げたロメオの方がなぜだか苦しげに見えた。




