64 ジョヴァンニの失踪
ルビーとロメオは舞姫レイラからの手紙を携えて、近衛兵ジョヴァンニを訪ねた。ところが、家族持ち隊員向けの宿舎から出てきたのはジョヴァンニ本人ではなく、姉である秘書官のジュリアだった。
夕方だったからか、ジュリアは地味な色の簡素な部屋着に着替えていた。以前見世物小屋に来たときと同じように、茶色い髪はシンプルに頭のうしろで一つに結わえただけだ。
職場ではなく宿舎を直接訪ねて行ったのは、遅い時間になってしまったからだ。
その日の朝ルビーは、歌うことから解放されて昏倒したあと、午前中は深く眠り込んだままだった。だれも起こしてくれなかったので、結局ルビーは、奥さまの出発をお見送りをすることができなかった。
ルビーが目覚めたとき、お屋敷に残っていたのは、警備兵のロメオのほかには、通いで来ていた下働きの二人の女性だけだった。
ジゼルさまが使用人は全員連れてブリュー侯爵城に移ることに決めたため、ついていくことのできない通いの女たちは、暇をいただいたのだという。
最後の戸締りはロメオが確認した。どんよりとした曇り空の昼下がり、お屋敷の内門も外門も堅く念入りに施錠したあと、彼は辻馬車を呼んだ。予約していたホテルにロメオとともにルビーは移動した。
きのうまでロメオが御していた2頭立ての馬車の置き場所は、宿泊予定のホテルにはない。お屋敷にいた馬はすべて、奥さまとともに、ブリュー侯爵城に向け出発したのだと聞いた。これからは徒歩で移動できない場所は、その都度辻馬車を呼ぶか、馬を借りて乗って移動することになると聞いた。
ホテルに荷をおろしたあと、近衛兵の宿舎に向かうときも、同じようにして辻馬車を使った。
宿舎の正面入り口の大きな扉を開けて出てきたジュリアはひどく顔色が悪く、以前見たときよりもさらに一回り小さくなったように見えた。ルビーをひと目見るなり、彼女は苦しげな表情になって口を開いた。
「弟は失踪したんです。原因は、わかりません」
消え入りそうな、力のない声だった。
ルビーとロメオは顔を見合わせた。
「5日前から宿舎に戻ってこなくて……実はわたし、おとといアートさんに相談しようと思って、見世物小屋まで行ったんです。もしかしたら、何かご存じかもしれないって思ったから。そしたら、少し前に、一座は船で巡業に出発したばかりだって聞いて……」
彼女は、その場にしゃがみこんで、両手で顔を覆った。
「わたしたち、身寄りのない、たった二人の姉弟なんです。だから、ほかに相談する人もいなくて、アートさんにはご迷惑かと思ったんですけど……以前弟が憲兵隊から近衛隊に栄転が決まったときも、親身になって相談に乗っていただいたって聞いていたから……」
うずくまったまま小さな肩を震わせていた少女は、やがて、のろのろと立ち上がる。
「すみません。わたし、自分の話ばかり。ご用件はなんでしょう。弟の代わりに伺えることでしたら、どうぞおっしゃってください。ロビンさんはアートさんの空中ブランコのお弟子さんだってお伺いしていましたけど、巡業には同行されなかったんですか?」
ルビーは無言で頷いた。きょうは喉が潰れていて、一切の声を出すことができない。
目を覚ましてからずっと、喉の痛みで食事も一切とれなかった。水をひと口のんだだけで、悶絶するぐらい、ひどく沁みるのだ。
普通に歩いているときでさえ喉はずきずきと痛み続けていたが、カナリーの行方が特定できそうな大事なときに、いつまでも休んでもいられない。
午後になってルビーが目を覚ましたとき、ロメオが真っ先に告げたのだ。明け方近くに小さな馬車が女将の宿から一台出されたのだと。馬車には金髪の少女がひっそりと乗せられた。
宿に出入りしている人間を使って何度か探りを入れてなお、その所在がまったくつかめなかったカナリーだったが、やはり宿のどこかに隠されていたらしかった。馬車は隠し場所から連れ出された少女を乗せて、女将と密かに取り引きのある娼館の一つへと向かったということだった。
馬車の行く先をどうやって知ったのか不思議に思うルビーに、ロメオは説明をくれた。金を握らせて見張りを頼んだものに、合わせて頼んでおいたのだという。もしもカナリーがどこかに連れ出されることがあったら、できればあとをつけて、行く先を確認してほしいと。行く先を特定することができたら、謝礼を上乗せするとも伝えていた。
明け方に馬車を追いかけて街中を疾走したら目立ちそうな気がしたが、ルビーはその疑問は呑み込んだ。だれに見張りを頼んだのか、詳しいことは聞かなかった。
そのカナリーを助け出すための助力を仰ごうとして、二人は近衛兵の宿舎に訪ねてきたはずだった。
憔悴した様子の姉ジュリアを目の前にして声をかけることのできないルビーは、困って隣のロメオを見上げた。
ロメオは読唇術といったものができるらしい。声を出さずに唇を動かすだけで、ルビーの言いたいことをこれまで全部読み取ってくれている。けれどもその方法で目の前のこの少女と意思の疎通を図るのは難しいだろう。
ルビーはロメオに向かって、唇だけ動かして尋ねる。
ジョヴァンニの失踪が、以前のアントワーヌ・エルミラーレンによるハマースタイン邸襲撃の件と関係なかったのかどうか、確認できないのかしら、と。
もちろんその件とは全く関係のない突発的な別の事件に巻き込まれたいうこともあり得る。
けれども失踪と聞いて、真っ先にルビーの頭に思い浮かんだのは、あのときのジョヴァンニだった。
王家の末裔の男に操られて自我を失い、獰猛に歯をむき出しにしてアートの喉笛を食い千切ろうと飛びかかっていったジョヴァンニの姿は、強烈にルビーの記憶に焼きついている。
ひょっとしていま、あの男が街をうろついているのではないだろうか?
憲兵隊の副長にもう一度取りついて? あるいは別の人間の血の中に潜む、王家の血脈を辿って?
声の出せないルビーに代わって、ロメオが話を振った。悪夢のようなあの日の出来事について手短に確認をする。
憂鬱そうな青白い顔のまま、ジュリアは小さく頷いた。
「ええ。隊の中でも、あの男と再び遭遇して操られてしまっているかもしれないって話になりました。その可能性について、近衛兵隊長とも話し合ったんです。そうしたら、その可能性は十分あるから、とにかくわたしはもう外に出歩いてはいけないと、釘を刺されてしまって……。隊の方で捜索してるから大丈夫だって、言いくるめられて……。わた、わたし、いますぐにでもジョヴァンニを捜しに、街に出たいって言ったんです。じっとしているなんて耐えられない。だから隊の皆さんと一緒でなくてもいいから、わたしなりに、心当たりの場所を捜して町に出るつもりで……だって、きのうまでは自分一人でそうして捜していたのに……でも、もう出ては駄目だって……。わたしは……弟がこちら側に帰ってくるための切り札だから、動いては駄目だ、みたいに言われてしまって……」
目を伏せ、うつむいた少女はぽとり、ぽとりと静かに涙をこぼした。
「秘書官の仕事はお休みしてもいいから、とにかく宿舎のある敷地から出るなって言われました。きのうからずっとここで待っているしかなくて……。弟が、ジョヴァンニが心配で、いてもたってもいられないのに……なのに……」
「よくわかんねえな、お役人の考えるこたあ」
いきなりロメオが大きな声を出したので、ジュリアはびっくりして身を縮め、それから顔を上げた。ルビーも驚いて、ロメオを見上げた。
「切り札ってなんだよそりゃ一体?」
「もしジョヴァンニが操られているとして、もしもわたしが、あちら側につかまってしまうか、わたしまで操られてしまうか、万一殺されてしまったとしたら──ジョヴァンニを、弟を正気に戻す手段はなくなってしまうからって言われて。ジョヴァンニが見つかったとき、わたしがこちら側にいて、呼びかけるために必要だって……。でも……」
少女は大きな茶色い瞳で、訴えかけるように男を見上げ、やや強い口調になる。
「でも、見つからなきゃ、戻ってこなきゃ、わたしがここにいたってどうしようもないじゃないですか! だってそうでしょう? 弟はいま、どこにいるのかわからないのに!」
「お姉さん、あんたの言うとおりだとおれは思うぜ」
怪物じみた風体の若者は、恐ろしげな顔に皺をよせて、明快に言い放つ。
「お姉さんが、てめぇの弟をてめぇで捜しにいきたいって考えるのは、当たり前のことだろうが。お役所の連中も、なにわけわかんねえこといってるんだか。あんた、着替えて来なよ。いますぐここを出て、おれたちと一緒に行こうぜ」
しかし、ジュリアは力なく首を振った。
「ジョヴァンニは、弟は、きょうを含めてもう5日間も、隊を無断欠勤しています。わたしが隊の方針に従ってくれたら、それは一切不問にふすって言われてるんです」
「ますますわけわかんねえ」
ロメオは呆れたように言った。
「そういうことなら、お姉さん、あんたもわかんねえぜ。まずは、弟くんを捜そうぜ。安否を確かめるのが先だろう。隊を除名になったからって、一体それがなんだってんだ。職探しなんてあとからいくらでもすりゃいいじゃねえか。民間だって捨てたもんじゃないぜ。そりゃ、お役人ほどのステイタスも安定もないけどよ。でなくとも弟くんは若いんだ。こだわるな。一緒に行こう」
ルビーにはよくわからない理由で、ロメオはいきなり盛り上がってしまっている。ルビーはロメオの服のそでを、横からつんつんと引っ張った。
振り向いたロメオに、声には出さずに必死で訴える。
『ねえロメオ。あたしたち、いま、カナリーの行方を捜してるんじゃ……』
「一人捜すも、二人捜すも一緒じゃねえか」
『ジョヴァンニのお姉さんに、カナリーを捜すのを手伝わせる気じゃないでしょうね?』
「ん? お互いに知恵を出し合えればそれでいいんじゃねえか? 大体あんたいま、しゃべれねーじゃん。娼館に潜入するって計画だって、あんたが行ってもなんも聞き出せねえだろ?」
『駄目っ! それは駄目!』
危うく声を出しそうになり、激痛に、ルビーは喉を押さえた。
「ロビン、何を焦ってんだ? あんたが言い出した話だろうが」
『あたしが行くんじゃなきゃ、その計画は駄目だって。だって、ジョヴァンニのお姉さんは普通の女の子なのよ?』
「は? いや、お姉さんに代わりに潜入してもらうなんて考えちゃいねえよ。こんな可憐なちっこい女性に危ない真似をさせられるわけがねえ。大体あんたが潜入するって話だって、おれは反対だからな。お姉さんを普通っていうがな、あんた、いま、普通以下じゃねえか。しゃべれねーんだからよ」
黙って二人のやりとりを聞いていたジュリアが、おずおずと口をはさむ。
「ロビンさんは、声が出せないんですか? ロビンさんたちも、人探しをされているんですか?」
やはり黙って頷くほかないルビーの代わりに、ロメオが口を開く。
「こっちの人探しは、おおよその目星はついてんだ。ただ、調べたい場所についての、情報提供を弟くんに頼みたかったんだけどな」
「あの、弟はいませんけど、ほかの近衛隊の方にでしたら、紹介できなくはないですが……」
やはりおずおずとそう切り出したジュリアに、ロメオは首を振る。
「いや、話ができねえかと思ったのは、中央お抱えのやつらじゃねえ。町警察の方の情報網を参考にさせてもらえねえかと思ってな。以前弟くんが所属していた憲兵隊の関係から、色宿街の取り締まりを管轄としてる担当者に紹介してもらえねえかと思ったんだ」
そのとき宿舎玄関のわきにある管理人室の窓がガラリと開いて、守衛の男が顔をのぞかせた。
「ジュリアさん、込み入った話かい? 長くなりそうだったら、ロビーまで入ってもらったらどうだ?」
「守衛さん、あの、わたし、この人たちとちょっと外出してきます」
少女の言葉に男は眉をひそめた。
「そりゃ、あんた、まずいんじゃないか?」
「友だちなんです」
ジュリアは振り返ってルビーに目をやりつつ、そう説明した。
守衛の男は眉をひそめたまま、ルビーとロメオを交互に見比べた。
声の出せないルビーは、黙って目礼をする。
「友だちでも……隊長から結界の外に出るなって言われてるんだろ?」
「急ぎの用なんです。すぐに戻ってきますから……」
何かあったらわたしが叱られるんだからね、などとぶつくさ言いながらも、守衛の男は辻馬車を呼びに出てくれた。ジュリアの行先が警察署だったことと、ロメオがハマースタイン家の警備兵だと知ったことで、多少安心したらしかった。




