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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[五] 竜頭の精霊と色宿街
63/110

63 生贄

 そのあとカナリーの目の前で起こったのは、とてつもなく恐ろしい出来事だった。カナリーはただ這いずって部屋の隅まで逃げて、縮こまってガタガタ震えているほかなかった。


 突然、入口の重い鉄の扉が開き、男が一人、地下室に投げ込まれたのだ。

 乱暴に投げ込まれた男は、よろけて入口の踊り場を踏みはずし、そのまま数段ある石段を転げ落ちてきた。そして腰と肩を石の床にしたたかぶつけ、痛そうに低く呻いた。


 カナリーの隣に座りこんでいた爬虫類人間は、それを見ると、すっくと立ち上がった。


 ずるり、ぺたん。ずるり、ぺたん。

 先ほどと同じ、不気味で嫌な音を立てながら、爬虫類人間は近づいていく。そして、やっと半身を起したばかりの男に聞く。

「あんたはおいらの餌か?」

 男は驚きに目を瞠り、爬虫類人間を見上げた。

「違う。餌じゃない」

 しかしすぐさま彼はそう首を振り、シャツの袖をたくしあげ、爬虫類人間に片方の肩を見せる。カナリーからはよく見えなかった。でもそこには恐らく焼き印が刻まれていたのだろう。


 次の瞬間、爬虫類人間は目にもとまらぬ早業で男に襲いかかり、べろりと頭から丸呑みしてしまったのだ。蛇が卵を丸呑みにするその何倍もの素早さだった。

 爬虫類人間の首の部分の皮が不自然に伸びて大きく膨れ上がる。膨れは勢いよく胸部に下っていき、肋骨が割れるようなバキバキという音を立てながら、首の下の人の姿だった胸の部分が波打った。胸部が波打つにつれ、金属の胸当てもガチャガチャとにぎやかな音を立てる。

 次に腹部が大きく膨れ、中で人がもがいているかのようにボコボコと形を変えた。


「あ……あ……」

 カナリーはへたり込んだまま壁伝いに後ずさった。恐怖でちゃんとした声が出なかった。

 入口のドアはまだ開いたままで、その向こうに人影が二つ見える。明るい廊下を背景に、その姿形は黒っぽく沈み込んでいて、輪郭以外はよくわからない。

 あちらに向かえばこの恐ろしい場所から出られるのだという思いが、意識をかすめた。


 だが、どうしても足はそちらへ向かわない。

 だって、たったいま人を丸呑みしたばかりの爬虫類人間が、間に立ちはだかっているのだ。


「おや」

 ドアの向こうに立っている人影の、小柄な方が、声を上げた。

竜頭りゅうあたま、おまえちょうどタイミングよく目を覚ましてたのかい。珍しいね」

 女将の声だった。


「お、お、女将さん……」

 大きな餌を丸呑みしたばかりの爬虫類人間は、なぜか苦しげなくぐもった声で返事をした。

「おいらに餌をくれ、女将さん。おいら、腹が減って仕方がないんだ」

「何をばかなことを。餌ならたったいま、頭から丸呑みしたばかりだろう。そんな醜い膨れ上がった腹をして、よく言うよ」

「こんなのまともな餌じゃない。ひもじいんだ。飢えが治まらないんだ。お願いだ、餌をくれ。でなきゃ、いつまでたっても切られた尻尾が再生しやしない」

「傷が治んないのかい、そりゃ、大変だねえ。あとで薬を届けさせるよ」

「足りないのは薬じゃない。食事なんだ。あんただってわかってるだろう。必要なのはこんなのじゃない、ちゃんとした生き餌なんだ。なあ、この女の子を食っちゃ駄目かなあ。もちろん、彼女が食っていいと言ったらだけどさ」

 言いながら、爬虫類人間──竜頭と女将に呼ばれていた男──は振り返ってカナリーを見た。上に飛び出した不気味な目が、ギロギロと動く。

「柔らかそうで、旨そうだよなあ」

「ひ……」

 カナリーは部屋の隅に縮こまったまま、一層竦み上がった。


「どうしようかね……」

 女将が首を傾げたのが、黒いシルエットの動きからわかった。

「この娘には、大きな元手がかかっているからねえ。まあ、あんまり聞き分けがないようだったらおまえの餌にするっていうのも一つの手だとは思うが、どうだろうねえ……」


 竦み上がったままカナリーは半ば無意識に、首を横に振り続けた。この化け物に丸呑みにされるなんて、恐ろし過ぎる。おぞまし過ぎる。


「だがね、竜頭、この娘をおまえが餌にしたいなら、それ相応の対価を支払ってもらうよ」


 女将は扉のこちら側に入ってくると、軽く振り返って、もう一人の人物に合図を送る。

 ギギギギ──。

 重い鉄錆びた音を響かせ、女将を残したまま扉が閉まった。

 彼女はカツカツとヒールの音を響かせながら、石の階段を下りてくる。


「たとえばね、竜頭。あんたが他にもう少し、身体の部位を分けてくれるなら、考えないでもないよ。尻尾の残りの部分を根元からばっさり切って寄こすか、その足を片方、付け根のところからでどうだい?」


「そんなことしたら、おいら歩けなくなってしまう……」

 苦しそうなくぐもった声で、竜頭はその巨大な爬虫類の形の頭を抱えた。

「食うのは別に、この女の子でなくたっていいんだ。力になる材料だったら。なあ女将、おいら不思議なんだ。なんで印のついたおいらの餌は、揃いも揃って全部まずいんだ? まるで食った気がしないんだ。飲み込んだあと、なんでかいつも腹の底から冷えてくるんだ。お願いだよう。もう少しまともな餌を連れてきてくれよ。お願いだよう……」


 ぶつぶつとそう言いながら、竜頭はぺったんぺったん音を立てて、しきりに歩き回り始めた。


「ああ、なんだか気分が悪くなってきたぞ。ううう……吐きそうだ」

 同じ場所をぐるぐると歩き回りながら、竜頭は身体をのけぞらせたり、前かがみになったりして、苦しんでいるような声を上げた。その顔は、苦しげに歪んでいるばかりではなく、なぜか全体の輪郭が白っぽくぼやけて見えている。

 さっきまでは確かに人の姿をしていたはずの部分が、なぜだかぐねぐねとうねっていて、全然人の皮膚と質感の違うものと化していた。形もおかしければ、バランスもおかしい。


 伸びたり縮んだり。

 膨れたりねじれたり。

 硬い鱗に覆われた爬虫類の姿の部分も、人の姿であった部分も、ぶよぶよと異様な形に崩れ始めていた。


「ううううっ、苦しい」

 竜頭はげえげえと嘔吐えずき始めた。だが、呑み込んだものは出てこない。彼は喉を掻き毟りながら、ひどくしゃがれてガサガサした声で、女将に訴えかけた。


「苦しい、苦しいよう。なんとかしてくれえ、水、水、水が欲しいよう……」


 彼がもがき苦しむにつれて、大きく膨れ上がった腹が、ぐにゃぐにゃと大きくうねり、さらに膨れ上がった。

 ところが──。

 突然、膨れ上がっていたはずの腹がバチンと音を立てて引っ込み、それとともに、さっきまでは崩れかけていた化け物の輪郭が急激に元の形に戻る。と思うと、七転八倒していた竜頭はその場にばったりと倒れ、動かなくなってしまった。


「やれやれ、やっと眠ったかい」

 石の床の上に昏倒してしまった竜頭を見降ろし、女将は溜息をついた。

 それから、今しがた閉じさせた扉に向かって声をかける。

「開けとくれ」

 再び扉が開いて入ってきたシルエットは、カナリーをここに引きずってきた男の姿を現した。

 大きなナイフを手にしている。


「切り落とすよ。いまならよく眠っているはずだからね。ナイフを寄こしな」

 男から刃渡りの大きなナイフを受け取ると、女将は昏睡している竜頭の化け物に近づいた。

 透き通った体液の滴る尻尾の先をつかみ、その切り口から2センチほどのところに刃を当てる。

 それから彼女は何か不思議な言葉を口の中で唱えた。


 カナリーの知らない変わった韻律を持つ古い言葉。その言葉が女将の口元からこぼれるとともに、女将の手にしたナイフの刃の部分が、白っぽい光を放ち始めた。

「普通のナイフで切れないところが面倒なんだよねえ」

 光るナイフを竜頭の尻尾に当てて静かに引きながら、愚痴をこぼすともなく、女将はそうつぶやいた。

「こんな固いもの煮ても焼いても食えないと思うんだけどねえ……まあ、金になるならあたしにゃ関係ないけどさ。あのお貴族さまが何を考えてらっしゃるのか、あたしにはとんとわかんないよ」

 尻尾の先を、さらに切り取られた竜頭は、深く眠っていてぴくりともしない。


「かなり重いよ。しっかり持ちな」

 無表情で傍らに控えている男に、女将は輪切りにされた尻尾のかけらを手渡した。それから、部屋の隅でガタガタ震えているカナリーを振り返る。


「あんた、いまあたしらが尻尾を切り取ったことをこいつに言うんじゃないよ。こいつが怒り狂って暴れたら、手がつけられないからね。餌の認証を受けてないあんたを、契約上こいつは飲み込むことはできないが、八つ当たりで手足を食いちぎられることぐらいは起こりかねないんだから」


 女将の言葉に、カナリーは真っ青になった。

「こ……ここを出して、女将さん。そ、外に出して。お願い。こんな化け物と一緒に閉じ込められるなんて、あたし嫌」

「そうかい? じゃ、聞くけど、あんたが嫌じゃないことってなんだね?」

 一瞬カナリーは鼻白んだ。だが、話を聞いてもらえるのはいましかないと思い、慌てて言い募る。


「そんなのわかんないわ。でも、こんなところで化け物と一緒だなんて絶対嫌。ここにいるのだけは嫌。嫌なの。お願いよ。外に出してよ」

「覚えておくがいい、カナリー。ほかのやつらがどうしても嫌で、やりたがらないことをやるのが奴隷なんだよ」

「あたし、奴隷じゃない。借金もなかったし、おじさんだってお金をためていたわ。副座長がおじさんのお金を勝手に取り上げて、あたしを売ったの。そんな権利もないのに。さ、裁判所に駆け込めば、あたしが奴隷じゃないってこと、きっとお役人に証明してもらえる」


「そうかい。もしそれが本当なら、そんなことをされちゃこっちは大損だから、ますます外に出すわけにはいかないね」

 女将のその言葉に、カナリーは自分の失言を悟った。


「あっ……あたしは、どうなるの?」

「さあね」

 女将は肩を竦める。

「おとなしく言うことをきくようになるまで、しばらくここに閉じ込めておくことになるね。そのあとは、お得意さんの貴族に買われるか、貴族に選ばれなければうちの知り合いの娼館で働くかってところだろう。ま、あんまり反抗的でさえなきゃその竜頭の餌にゃしやしないから、少なくともそれだけは安心してていいよ」

 女将の言葉には、おとなしくしていなければ餌にするかもしれないという脅しが含まれていた。

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