62 餌なのか
音の近づいてくる方向を、カナリーは凝視した。
海から引き揚げられた魚のような、どこか生臭い臭いがぶわりと鼻をかすめる。
廊下へと続く柱の陰から姿を現したのは、世にも奇怪な姿の生き物だった。
生き物というのだろうか、これは──。
人間の形をした肩と首の上に、爬虫類を巨大にしたような形の頭が乗っている。平べったい頭部はごつごつとした硬そうな鱗に覆われている。その頭部にとってさえ不釣り合いなぐらい大きな幅広の口は、耳の後ろの方まで裂けていながらも、まるで鳥のくちばしほどにも前に突き出している。鋭いのこぎりのような大きな歯がびっしりと生えているのが、めくれ上がった口元から見えていた。
トカゲに少し似ているけれども、トカゲよりも遥かに凶悪な顔つきだ。
頭を支えているのは人間の首で、その下には人の形をした肩と腕、胸と腹が続いている。甲冑のような金属の胸当てから覗くのは、ひきしまって筋肉質な男性の身体だった。がっしりとした肩から伸びるほどよく筋肉のついた腕も、人間の形をしている。
そして、腰から下は再び、巨大な爬虫類の姿だった。堅い鱗に覆われ、外側に折れ曲がった脚の後ろには太くて重そうな尻尾を引きずっている。
ぺたん、ずるり。ぺたん、ずるり。
"それ"が歩くたびに音を立てるのは、引きずっている尻尾だった。
尻尾はその半ば程でぷっつりと切り取られていて、切り口からはまだ新しい、体液とおぼしき透明な液体が流れ、それが歩いた後にぬるついた筋を残していた。
「ひっ……」
どうにか悲鳴は噛み殺したが、爬虫類人間は、カナリーに気づいたらしかった。
平べったい頭部から飛び出した目がぎろり、ぎろりと動いてカナリーを凝視したまま動きを止めた。
次の瞬間、凶悪な形の大きな口から洩れたのは、まごうことなき人間の言葉だった。
「あんた、女将に連れてこられたのか? いつからここにいる?」
ところが、口が利けるのだと少しほっとしたのもつかの間、爬虫類人間はとんでもない台詞を口にした。
「なあ、あんたはおいらの餌なのか?」
「え、餌?」
「餌なんだろう? 違うのか?」
「ちっ、違うわっ!」
カナリーはやっとそう返すと、じりじりと後ずさった。けれども後ろは地下室の冷たい壁だったから、すぐに行き止まりになってしまう。
爬虫類人間はずい、とカナリーに近寄り、大きく裂けた口をぐぐっとカナリーに近づけてきた。
「餌じゃないなら、女将からその証拠をもらってきているはずだ。見せてみろ」
そんなものはない。女将はただ地下に閉じ込めておけと言っただけだ。
カナリーはガタガタ震えながら、ただ首を振った。
「ちっ、違う。あ、あたし、餌じゃない」
「女将から証拠をもらってきているはずだ。餌じゃないんだろう? 早く見せるんだ。早く。さっさと見せないと、食っちまうぞ」
大きな口が、ガッと開かれカナリーに迫ってきた。
「嫌っ!」
壁沿いに、横に向かって逃げながら、カナリーは大声で助けを呼んだ。
「助けてっ! だれか! だれか来てっ! だれかあっ! 嫌っ! 食べられるのは嫌ああああああああ!」
だれか! 助けて! だれか! お父さん! お母さん! アート! アート! おじさん! おじさん!
不意に爬虫類人間は近づくのをやめた。身を起こして首を傾げる。
「なんだ、違うのか……」
彼はそうつぶやくと、がっくりしたように肩を落とした。
「ないのか。そうか、本当にないのか……」
餌ではないことを証明する何かを見せろとカナリーに言ったくせに、何も持たないカナリーを前に、彼は失望した様子だった。
「あんたは餌じゃない。だったらおいらは、あんたを食えない。残念だ」
腰の抜けたカナリーは、ずるずると壁によりかかったまま床に尻もちをついた。
爬虫類人間はカナリーを食べる気を、急になくしたらしかった。それとも最初から脅かすことだけが目的だったのだろうか?
危機が去ったとわかっても、恐怖は去らなかった。
カチカチと歯の根が合わず、ガタガタと身体が震える。両目から新たな涙が溢れ出した。
どうして?
怖い。怖い。こんな気味の悪いものと一緒に閉じ込められるなんて。
どうしてあたしが、こんな目に遭わなきゃいけないの?
ところが爬虫類人間はへたり込んでいるカナリーに再び近づいてきて、あろうことか、隣に並んで腰を下ろした。
「早く女将が餌を連れてきてくれないかな。腹が減ってしょうがない」
ぎょっとしたカナリーに向かい、彼は唇をめくり上げ、歯を剥き出して見せた。どうやら笑ったらしい。笑顔もこの上なく不気味だった。
彼は聞かれてもいないのに、さっきの質問がなんだったかの説明を始めた。
「あんたは女将の焼印を当てられてないんだからしょうがないよ。おいらの餌としてここに連れてこられる人間には、焼印が当てられているんだ。餌の印なんだよ、それが。
おいらは女将との契約に縛られている。だから女将の許可の出た人間しか、餌にできないんだ」
カナリーは無言のまま、じりじりと傍らの爬虫類人間から遠ざかろうとした。
この化け物はいま、人間を食べると言わなかったか? 女将の許可さえあれば食べられるのだと。女将の許可がなかったから、カナリーを食べなかったのだと。
「なんでさっき、証拠を見せろって言ったか教えてやろうか? 焼印が餌の印だなんて話したら、正直に言わないだろ? だから女将との取り決めで、餌じゃないことを証明する印だって説明することにしてるのさ。そうしたら、ここにやってきた人間はみんなすぐに、焼印をおいらに見せてくれるってわけだ。そうしたら手こずらされずにおいしくいただける。うまくできてるだろう?」
爬虫類人間がカナリーを見たので、カナリーは動くことができなくなった。ガタガタ震えながらも、黙って爬虫類人間の話を聞いているほかにどうしようもない。
嫌だ嫌だ。そんな話は聞きたくない。人を食べるのだみたいな話をあたしに聞かせないでほしい。あたしが餌じゃないからかまわないと思っているの?
なんで友だちのような顔をして、当たり前のように隣に座っているの?
そんな風に言い募りたくても、怖くて口には出せない。
せめて耳をふさぎたいが、彼の機嫌を損ねてしまったら、どんな目に遭わされるかわからないと思ったら耳をふさぐこともできない。
「こすっからい人間だよな、あの女は。おいらをこんなところに閉じ込めて、尻尾をちぎって持って行きやがった。見てくれよ、傷がふさがらないんだ。治らないのは、十分な食事がとれないせいだよ。なあ、あんた、食事は量じゃないんだぜ。どれだけの力がそこに込められているかにもよるんだ」
とめどもなく涙が流れて頬を濡らし続けていたが、彼はそんなカナリーにまるでかまわずしゃべり続けている。
「本人が嫌がっていたら、丸ごと一体人間を飲み込んでも、大した力にはならないんだ。むろんないよりはましだけどさ。それよりも望んでささげられる供物ならば、腕の一本、脚の一本でも十分過ぎるほどに足りるんだ。そういう餌が食いてえなあ。ここに閉じ込められてから、まずいやつしか口にしてないんだ……」
人間を食べるとか、それがうまいとかまずいとか、世話話のように口にする爬虫類男が、さっきからカナリーは怖くて気持ちが悪くて仕方がない。
しかもなんだかしゃべり方が、あの気持ち悪いこぶ男に似ているような気がする。醜い容姿のものは、しゃべり方まで似てしまうのだろうか?
しかし彼はそんなカナリーの様子などまったく意に介さず、もう一度ずい、と顔を近づけてきた。
「なあ……」
悲鳴はかろうじて飲み込んだ。だが、身体は無意識に後ずさる。
「おいらさあ、本当に腹が減っているんだ。おいら基本的には女将の許可がないものは食べられないんだけど、もしもあんたが好意で分けてくれるっていうのなら……」
好意で分ける? 何を?
「その……片方の耳たぶか、でなければ手の指の1本でもいいから……。ほんのちょっとだけだったら、あんたも死ぬことはないだろ? どうかなあ? 親指や人差し指でなくたっていい。一番小さいやつで、片方の小指だけでいいから。本当に腹が減ってるんだ。駄目かなあ?」
駄目っ!
駄目だってば! 来ないで! 寄らないでよ!
叫びたかったが声が出ない。凍りついたまま、カナリーはただガタガタ震え続けるしかなかった。
爬虫類人間はカナリーににじり寄りながら、なおも話しかけてくる。
「もちろん、くれるって言ったもの以外は絶対取らない。約束するよ。指1本だけだと幾らおいらだって腹の足しになるって量じゃないけどさ。1本だと決めたら、2本取ったりしない。人間の約束と違って、おいらの約束は神聖なんだぜ」
無理。無理。無理。絶対無理っ!
声は出なかったが、カナリーは目を閉じ、必死の形相でかぶりを振った。
指の一本だとか、こともなげに口にする化け物が恐ろしすぎる。
「それにな。供物をちゃんともらって力が戻ったら、おいら、人間の姿に変身できるんだぜ。人間の姿のおいらは、なかなかの男前なんだ。どうだい? 見てみたいと思わないかい?」
「え?」
──力が戻ったら、人の姿に。
何かが頭をかすめた気がした。
思わず顔を上げたカナリーに、爬虫類人間はさっきと同じ気持ちの悪い顔でにたりと笑う。
まさか……。
カナリーは傍らの化け物の大きくて重そうな尻尾に目をやる。ぷっつりと切られた先から、じわじわとにじみ出てくる体液は、色はよくわからないが透き通っていて人の血液とは全く別のものだ。
同じものを、カナリーは見た気がする。
最初、見世物小屋にやってきたとき、人魚のロビンは怪我をしていたのではなかったか?
大きな刃物で裂いたようなグロテスクな傷口を、カナリーは思い出した。
あれほどの傷だったというのに、赤い血が流れていなかったのは、傷が治りかけていたからではなかった。青い透き通る液体が傷口から溢れ、水槽の水に溶けてまぎれたのを、あのときカナリーは見た気がする。
そこまで考えたとき、カナリーは恐ろしい考えに思い至り、身を震わせた。
ロビンは、あの人魚の娘は、後援者の貴婦人のところで人の姿を得て戻ってきたのだ。
どうやって?
もしかしたら、それは──。
でも、まさか。
まさか。まさか。
可憐な人間の姿をしたあの少女は、本当はカナリーの目の前にいる化け物と同じ、恐ろしい魔物なのかもしれない。
爬虫類人間は、カナリーが反応を見せたことで、勘違いしたようだった。
「なっ? 見てみたいだろ? おいら本当にいい男なんだぜ。けど、小指だけだと変身能力が戻るのは無理かもしれない。手首んとこまで食わせてくれたら、絶対人の姿になれるんだ。それに、事情はわからないけどあんただって、閉じ込められてるんだろ? おいらに力が戻ったら、一緒に逃げられるかもしれない。──逃げられないかもしれないけど。まあ、そこまでは約束できないけどさ」
ずい、ともう半身分、爬虫類人間はにじり寄る。
何を──この化け物は、何をいま言ったの?
手首のところまでって?
手首ですって?
「嫌あああああああっ!」
恐怖に駆られ、今度こそカナリーは絶叫した。




