61 閉じ込められて
半年前は、見世物小屋に引き取られるなんて、とんでもないことだと思っていた。
見世物小屋の連中なんて、社会の底辺で暮らす人々だ。自分自身の住処もない。財産もない。家族も持たない。
しかも、遠縁だと言い含められてカナリーに引き合わされた男は、毛むくじゃらで異様な太鼓腹の醜い風貌をしていて、いい年だというのに独身だった。
引き取るというのは名目だけで、いずれ結婚を迫られるか、でなくとも下女の代りにこき使うつもりなのだと思った。
だから絶対嫌だと言った。
なのに、連れてきた伯父夫婦は、そのままカナリーを置き去りにして、いつの間にか帰ってしまった。
父方の親戚も、母方の親戚も、カナリーを引き取ることを拒絶していた。自分たちが食べていくのに精いっぱいだから無理だと言われたのだ。祖父母はすでに他界していた。
最初は女子用の大部屋で雑魚寝だった。個室がもらえないと知ってショックを受けた。人間らしい生活は、ここでは望めないのだ。着替えだって入浴だって、だれかに見られながらでないとできないのだ。
部屋の隅で膝を抱えてめそめそ泣いていたら、引き取り手の火焔吹きに呼ばれて、自分の部屋を譲るからそちらに移っていいと言われた。
そのときは、火焔吹きがどうするのかは気にならなかった。別の部屋を用意してもらえるのだろうぐらいに思っていた。あとで、彼自身は男性用の大部屋に移ったことを知った。
カナリーのことを火焔吹きは他の座員らには、姪っ子だよ、と紹介した。
姪じゃないのに、とカナリーが言うと、「似たようなもんだ。おまえの祖母がおれの親父の妹だとか、そんな細かいことをいちいち説明しなくてもいいだろう」と返された。
火焔吹きにとってはカナリーは姪っ子のようなもので、要するに娘だと思われているらしい。本当に親代わりのつもりでいてくれることに気づいて、それからは気を許した。
火焔吹きは他の座員らに慕われていた。火焔吹きの血縁だということで、カナリーの言うことを何でも聞いてくれる人たちもいたし、取り巻きのようなものもできた。
最初は蔑んでいた見世物小屋での暮らしも、慣れればそうひどいものでもなかった。
カナリーにちょっかいをかけてくる男もいたが、火焔吹きは、「おれが認めた男でないと姪っ子とつきあうことはゆるさん」などと言って追い払ってくれた。
仕事を持つべきだ、と座長が言い、カナリーは舞台でナイフ投げの的になる役をあてがわれた。危険が大きいのではとおびえたが、ナイフ投げは信じられないぐらい腕がよく、すれすれにナイフを投げて、しかも絶対にかすりもしない。
ナイフ投げは結構年上だったけど、ハンサムで、しかも紳士だった。他の座員たちのように下品なことも言わないし、カナリーにちょっかいを出そうとして火焔吹きに牽制される、などということもない。いつも考え深げに黙っていて、声を荒げるということもめったになかった。
ナイフ投げは舞姫やブランコ乗りといった花形芸人らとも親しかった。ナイフ投げのおかげでカナリーは、憧れの2人とも親しく話をする機会を得られた。
ただ一つの欠点を除いて、ナイフ投げはその交友関係も含め完璧な人間だった。だが、一つだけある欠点というのが、とても大きなものだった。彼は奴隷だったのだ。
見世物小屋で働く人々の中には、かなりの数の奴隷が混ざっていた。
彼らはお給料をもらって働く座員たちとは明らかに扱われ方が違っていて、衣食住は一応保障されていたが、財産もなければ行動の自由もない。
外出だって、仕事のないときには自由に買い物などに出かけることのできるカナリーや火焔吹きとは違って、許可制だった。
ナイフ投げは個室も持っていたし、残飯を食べさせられてもなかったし、風呂だって優先的に入ることができるようだった。だから最初は奴隷だとは思わなかった。でもそれは、人気芸人ゆえの特別待遇に過ぎないと知った。彼は他の奴隷たちと同じく、給料をもらうことはできず、客から直接手渡されるチップだけがわずかな収入源だった。
これまでカナリーが育ってきた環境の中で、周囲の人たちはみな奴隷という言葉の響きを侮蔑を込めて唇に乗せていた。
彼らは誰かに所有され、金品と同じに扱われる存在だ。だから、自分たちよりも劣った人間だという風にしかカナリーには思えなかった。
働いてもその稼ぎは本人のものにはならず、すべてその所有者の収入となるのが奴隷だ。
ナイフ投げには、たとえば好きな女の子ができたとしても、その子にちょっと高価な宝石の贈り物をしたりすることはできないのだ。
彼はハンサムで優しかったけど、カナリーはナイフ投げには絶対気を許さないようにしようと心に決めた。
なのに、どうしてこんなことになったのだろう。
あろうことか、その自分が、いまは"奴隷である"という事実をつきつけられている──。
奴隷の身分に堕ちるなど、ついこの前まで人ごとだと思っていたのに……。
「あたしはあんたを買ったんだ。3000エキューでね」
女将の言葉を思い出すとともに、両目からまた、新たな涙があふれてこぼれた。
「嘘つき!」
副座長に売られて連れた来られたのだと知ったとき、カナリーは女将を大声で非難した。
「あたしのママになってくれるって話は嘘だったの?」
「そりゃ、本当のことを話したら、あんたは行かないって騒ぐだろうからね。見世物小屋から連れ出すのに、騒がれたら目立つだろ?」
女将はそう言って肩をすくめた。
「大体こんなに育っちまった娘を子どもに欲しい物好きがいるもんかね。まあ、いたとして、政略結婚のための養女を捜す貴族ぐらいだね。だとしても、あんたじゃなくて、もうちょっと品のいい女を捜すだろうね」
なんの遠慮もない女将の毒舌に、カナリーは傷つけられた。
「あたしをだましたのね。ひどいわ」
しかし、カナリーが睨みつけても、どんなにののしっても、泣きわめいても、女将はまったく応えた様子もなかった。ただ、うるさそうに首を振って、傍らにいた男に、連れて行って地下に閉じ込めておくように言っただけだった。
女将は綺麗な女だった。最初に引き合わされたとき、どこか舞姫に似ているとカナリーは思ったのだった。歳は舞姫よりはうんと年上だったけれども、血色のよい唇や、きりりとした目元や、さばさばとした話し方が共通していた。
だからひと目見て、この人のところにならもらわれていってもいいとカナリーは思ったのだ。だって、見世物小屋にいても火焔吹きはもういないのだから。
火焔吹きの死に向かい合ってしまったことが、たとえようもなくカナリーには恐ろしかったのだ。
葬儀の前日、火焔吹きの亡骸はカナリーのための個室に運び込まれ、一昼夜そこに置かれたままだった。青黒く硬直した死体が横たえられていた寝台に、自分が横たわる気にはなれなかった。思い出すとひたすら気が滅入った。
ブランコ乗りのアートが巡業から帰ってくるまで待つことに、耐えられる気がしなかった。
なによりロビンと一緒に空中ブランコを習うのが、アートではなくアートの師匠からというのがカナリーは嫌でたまらなかった。
ロビンと呼ばれる少女は、最初見世物小屋に来たときには人魚だった。
炎のような赤い髪で、腰から下は魚の形をしていた。鱗の色は赤魚をもっと赤くしたような毒々しい赤だった。
カナリーにしても、そんな珍妙な生き物は、生まれてこのかた一度も見たことはなかった。物珍しさもあって、他の座員たちとともに見に行ったが、人魚の少女はつんと澄まし返っていて、だれとも口を利くつもりがないようだった。
ところが、最初見たときはお高くとまっていたように見えたロビンは、いつの間にか舞姫やブランコ乗りに取り入って、彼らを味方につけてしまっていた。
しかも後援者の貴婦人だかなんだかの魔法で、いつのまにか彼女は人間の足を手に入れ、ブランコ乗りのアートに空中ブランコのパートナーにするとまで言わせてしまったのだ。
ロビンのせいでカナリーの大切な人たち、特にアートが変わってしまったことが、カナリーは何よりも悔しくて悲しかった。
見習いや群舞の若者を除けば、アートは芸人の中では一番若かったにもかかわらず、一番人気だった。彼はとても美しい青年だったけれども、優雅なその見た目とは裏腹に、かなり気安い性格をしていた。無口なナイフ投げと対照的に、カナリーの髪飾りだとか服だとかを挨拶代わりに褒めてきた。
それでも嫌な気がしなかったのは、彼のスマートな容姿のせいばかりではない。カナリーに興味を示してくる他の若者たちと違って、粘っこい熱だのギラついた視線だのを感じなかったからでもある。
彼はいつも人当たりが柔らかくて、楽屋裏まで追いかけてくる女性客に対してもむげにはできないようだったが、本気で恋人を捜しているようには見えなかった。
まだ彼は恋を知らないんだわ。
カナリーはそう考えた。
自分は彼の初めての本気の恋の相手になれるかもしれない。そう思うと、カナリーは胸がドキドキした。
一座には女性の座員も少なくなかったが、若くて器量のよい娘となると限られてくる。アートと釣り合うぐらい若くて決まった相手のいない女の子は、舞姫とカナリーを除くと、器量の悪い娘ばかりだ。頭にピンクのビラビラの生えた気味の悪い鳥女や、異様に細くて歩くときもぐにゃぐにゃしている箱女みたいなのしかいないのだ。
舞姫は申し分なく綺麗だけれども、アートよりも半年ほど年上だと聞いた。男の人は大体自分よりも少し年下の女の子を好む傾向にあるし、でなくとも気の強い舞姫は、人当たりの柔らかいアートとお似合いだとはいえないだろう。
そう思って安心していたら、あとからやってきた人魚のロビンに横からさらわれた。
たぶらかされたアートは、ロビンしか見えなくなってしまったらしかった。あれだけ人懐っこかったアートが、すっかり人が変わってしまった。座長に言われて空中ブランコを習い始めたカナリーに辛く当り、ロビンばかりを目で追っている。これまで見たこともなかった仏頂面をして、軽業の練習をしないといって居丈高に叱りつけてきた。
腹の立つことに、ロビンはアートをたぶらかしたことなど素知らぬ顔で、こぶ男などと仲良くしていた。よりによってあの背中の曲がった醜い若者を相手に、満面の笑顔で話をしていた。男ならだれでもいいらしい。信じられない。
こぶ男があまり気持ち悪かったので思わず突き飛ばしたら、ロビンはいきなり頬を叩いてきた。
あとで舞姫に、ロビンがどんなに凶暴だったのか必死で訴えたが、流された。あのときは、舞姫もロビンに丸め込まれてしまっている一人だということを忘れていたのだ。いま思い出しても腹の立つ出来事だった。
ロビンはアートばかりでなく、アートの師匠にも気に入られたようだった。
アートもロビンを時々えこひいきしたけれども、アートの師匠のやり方はもっと露骨だった。彼は顔合わせのあった日にはもう、ロビンのことは何をしても褒める一方で、カナリーのことはとことん無視した。しかもそれをちっとも悪いことだと思っていないようだった。
あの赤毛の娘は、どうにかしてアートやアートの師匠にたらし込んだに違いないのだ。そのくせ自分は何も悪いことはしていないとでもいいだけに、何食わぬ顔でカナリーに声をかけてくるのだ。
それでもアートは、ロビンに手玉にとられてカナリーをないがしろにしていたことに、途中で気づいてくれたらしかった。彼は反省してくれたのだろう。師匠のところに連れて行く馬車の中では、アートは以前のように優しかった。
船が出港する日、時間に間に合うように港についてさえいれば、アートはきっとカナリーを助けてくれていたはずだった。体調が悪かったとはいえ、アートがカナリーに見世物小屋に残るように言ったのは、火焔吹きという保護者がカナリーについていてくれたから、という安心感からだったはずだ。火焔吹きがこんなことになるとわかっていたら、きっとアートはカナリーを巡業に連れて行ってくれていたはずだ。
自分はなんて運が悪いんだろう。
3000エキューはカナリーにとっても途方もない大金だった。半年間ナイフ投げの的の仕事をしてもらったお給料だけでは、とても返せない額だ。火焔吹きのためていた稼ぎを足したとしても、多分無理な金額だ。
火焔吹きの稼ぎは葬儀の日に副座長に取り上げられてしまっていた。遺産は親族のものだとカナリーが抗議すると、医者代と葬式代にいくらかかったと思うんだ、と叱られた。
でも、カナリーを売った3000エキューを副座長は自分の懐に入れているはずだ。ここを逃げ出してあのお金を奪い返して警察に駆け込むことができたら。そうすれば、警察は女将に3000エキューを返して副座長の不正を暴き、カナリーを自由にしてくれるかもしれない。
そこまで考えてカナリーは、地下室の天井を見上げ、悲嘆にくれた。天井近くに小さな明かり取りがあって、そこからうすぼんやりとした光が降ってくるだけの暗がりだ。明かり取りはひどく小さく、しかも錆色の鉄格子がはめ込まれている。どうやってここを逃げ出せるというのだろう。
「アート、助けてよアート……。お願いだからあたしを助けに来て!」
声に出して呼んでみても、彼はいま遠い海の向こうだ。
カナリーは抱え込んだ膝に頭をうずめ、すすり泣いた。
ぽろぽろと涙が頬を伝い、冷たい石の床に落ちる。
これから自分はどうなってしまうのだろう。女将は自分をどうするつもりなのだろうか。何も聞かされていない。でも、自分からそれを問い質すのは怖かった。
そのときだった。
暗がりの向こうから、ずずっ、と何かの物音がした。
そのあと、ぺたん、ぺたんと引きずるような足音が聞こえてきた。
すすり泣いていたカナリーははっと顔を上げる。
四角い閉ざされた部屋だと思っていたそこは、よく見ると違っていた。向こうの壁の一角が切れていて、廊下のような暗がりがどこかに続いている。
足音のようなものは、その向こうから響いてきているのだった。
ゆっくりと近づいてくる。
ずるっ、ぺたん。
ずるっ、ぺたん。
聞いたことのないような、奇妙な音だった。




