06 悲しい再会
夏の間、見世物小屋は大盛況だった。
カルナーナは今の統治者になってからおよそ13年になるという。首相は辣腕で、5年ある任期は既に3期目だった。港はにぎわい、あらゆる商売は栄えていた。
さまざまなエンターテイメントを提供する見世物小屋もまた、その恩恵に与っていた。
もうすぐ夏が終わる。秋が来て過ごしやすい気候になったら、一座はこの町を出て巡業の旅を始めるのだと、座長は言った。彼はそのための準備を着々と進めていた。
冬が来る頃に町に帰ってくる予定だったから、町の有力者や後援者に対する地固めも欠かせない。
ある日一座は、以前からの後援者の一人である貴婦人の夕食会に招かれた。呼ばれたのは座長のほかは、優男のブランコ乗り、逞しいナイフ投げ、妖艶な舞姫、それに可憐な人魚の娘の4人だけだった。
腹の出た火焔吹きも、毛むくじゃらの怪力男も、ギョロ目の大玉乗りも、達者な芸が披露できるにもかかわらず、こぶ男ロクサムやトサカ頭の鳥女や衣装係や道具係などの他の座員とともに留守番となった。
用意された水槽の中を泳ぐ他にとりたてて何も芸を持たないルビーが、他のメンバーとともに夕食会に選ばれたのは変だ。だから辞退したいといったルビーの申し出に対し、座長はこう説明した。貴婦人は以前より見目かたちのよいものだけをひいきにしているのだと。特にルビーは今回貴婦人から名指しで招待されているから断れないとも言われた。
胸元だけをわずかに覆う普段の衣装の代わりに、さらさらと尻尾にまとわりつく長さの、繊細な絹の布でできたドレスを、衣装係が用意してくれた。けれどもルビーはそんな服も嫌いだった。第一そんなものを着ると、邪魔になってほんの少しでも自分の力で移動できなくなる。そうでなくとも尻尾を脚の代わりに使って移動するのは骨が折れるのに。
六頭立ての豪華な馬車が迎えに来て、ルビーはみんなとともにそれに乗せられた。
したり顔でブランコ乗りがルビーを抱き上げて運んだのが気に入らなかったが、ナイフ投げとは全然口を利いたこともなかったので、仕方がなかった。
馬車の中で隣に座った舞姫が、緊張気味のルビーにそっとささやいた。
「大丈夫だよ、人魚。あたしたちは気楽にしてたらいいの。人魚とあたしはただの賑やかしなんだから。奥さまはいつも、夕食のあとは男どものどちらかを残して、あたしたちのことはさっさと帰してしまわれるんだ。だからご飯を食べて帰ってくるだけ。お屋敷で出される食事はすごいおいしいんだよ。楽しみにしててごらん」
夕食の前に、ナイフ投げはナイフ回しの技を、ブランコ乗りはバク宙などの曲芸を、舞姫は華麗なダンスを、貴婦人の前で披露した。ルビーはすることがなかったので、座長と貴婦人の間に座ってそれらを眺めていた。
貴婦人は何年か前に夫を亡くしたということで、黒い服を身にまとっていた。ベールのついた黒い帽子をかぶっていたので顔はよく見えなかったが、ベール越しにそのぼんやりした白い輪郭を覗き込んだ瞬間からルビーは、なぜかそれに見おぼえがあるような気がして仕方がなくなった。
テーブルに案内され、食事が運ばれてきた。
貴婦人はベールを少しだけ上げて顔を隠したまま、口元だけを見せて食事をした。紅い紅を差したようなその口元を、ルビーはやはり見おぼえがあるように感じたが、それがだれなのかはよく分からなかった。
見世物小屋でみんなが食べる、いつものパンとスープと肉、のようなひと皿料理ではなく、オードブルから始まるコース料理だった。
メインディッシュに料理が進み、運ばれてきた皿をひと目見たとき、ルビーは青くなった。
ルビー、ルビー……。
皿の中から、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえてきたのだった。
ルビーは素早く周囲を見回した。
隣の舞姫も、向かいのブランコ乗りとナイフ投げも、左右に向かい合わせに座っている座長と貴婦人も、だれ一人としてその声に気づいている様子はなかった。
ブランコ乗りは横を向いて、貴婦人にしきりに話しかけていた。ナイフ投げは無言で、旺盛な食欲を見せて、給仕にパンのお代わりをもらっていた。舞姫と座長は、ブランコ乗りの言葉の合間に、さりげなく貴婦人に話しかけようと待ち構えている様子だった。
だれもルビーに気をとめるものはいない。
ルビーは再び皿に目を移した。
色とりどりの野菜や食用の花に彩られ、ワインカラーのとろりとしたソースのかかった大きなステーキが乗っていた。色は白っぽくて綺麗な焦げ目がついていた。声はそこから聞こえてきたのだった。
「これ、とてもおいしいですね」
会話が途切れたのを見計らって、舞姫が貴婦人に話しかけた。
「何の肉なんですか? 鳥の一種ですか? あたし、初めて食べます」
「鳥じゃないわ。これは魚なの」
おっとりとした口調で貴婦人はそう答えた。
「魚? だって魚の形をしていないのに?」
「大きな魚なのですって。けさ漁港に水揚げされたばかりのものを買ったのよ。とても新鮮なの。うちの料理長が、この魚に合うソースを調合してくれたのよ。おいしいって言っていただけて嬉しいわ。他の皆さんもいかがかしら? お口に合うといいのだけど……」
言いながら、貴婦人はぐるりと一同を見回した。
ルビーは目の前が暗くなった。
貴婦人は、目の前の皿を、魚だと言った。
皿の中からルビーを呼ぶのは、ルビーがよく知っているものの声だった。
アシュレイ──。
──どうして?
あのときアシュレイは、完全に逃げたはずだった。そうして、広い広い大きな海を、どこにでも、どこまでも行けるはずだった。どうしてこんな港町の見知らぬ屋敷の食卓の皿の上に、どうしてこんな風に切り刻まれてソースをかけられて、どうしてこんな変わり果てた姿で乗っかっているんだろう……。
ルビー、ルビー聞こえる?
魚の切り身が話しかけてきた。
座長が、いぶかしげにルビーを呼んだ。
「何をぼんやりしているんだ人魚。料理が冷めないうちに、はやくいただいてしまいなさい」
「人魚は魚は嫌いなのかしら」
貴婦人がそう聞いてきた。
ルビーは目を瞠って大きくかぶりを振った。
ルビーだって魚は食べる。でもこれは食べられない。
アシュレイは友達だ。
友達を食べることはできない。
ルビー、ルビー、返事をして。
綺麗に調理された魚のステーキから、また声が聞こえた。
周囲の人たちは、出された皿のステーキをぱくぱくと食べていく。
アシュレイ──。
また目の前が暗くなった。ルビーは目を閉じ、椅子の背にもたれた。
「食事中に行儀が悪いぞ、人魚。ちゃんといただきなさい」
座長の怒った声が聞こえて、ルビーは無理に目を開けた。
貴婦人が、椅子から立ちあがってルビーのそばに歩いてきた。
「どうしたの? 真っ青な顔をして」
心配そうな声で、彼女はルビーの肩に手を置いた。
「こちらにいらっしゃい。気分が悪いのなら隣の部屋で、少し休んでいるといいから」
ベール越しにルビーを覗き込んでくるまなざしを、ルビーは暗い淵のように感じた。
ルビーは貴婦人に手をひかれるまま、ふらふらと立ちあがった。