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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[四] 一座の巡業と貴婦人の旅立ち
58/110

58 いなくなったカナリー

 火焔吹きは目をカッと見開いた苦悶の表情のまま、寝台に横たえられていた。

 間もなく死亡を確認するためにやってきた役人の見守る中で、老医師はきびきびと処置をほどこした。

 泣き続けるカナリーの横で、ルビーは老医師に命ぜられるまま、水を汲んできて布を切り、濡らして老医師に渡した。

 老医師はやや苦労して火焔吹きの瞼を閉じさせ、石鹸を泡立てて亡骸の髭を丁寧に剃った。身体を綺麗に拭き清めて清潔な服に着替えさせ、そのあとで役人の持参した書類に死因を記入した。

 肺に水が溜まったことによる呼吸不全が、直接の死因だということだった。


 火焔吹きが息を引き取ったのは朝のうちで、推定だったが、カナリーが見世物小屋をあとにして間もなくだった。つまり乗り継ぎのターミナル駅でもしカナリーが迷わなかったとしても、あるいはカナリーがアートを頼って港に寄り道などせずどこかの病院の門を直接たたいていたとしても、朝の段階でもう、間に合わなかったということだ。

 ゆうべ遅くにでも呼びにきてくれていれば、処置できていたのに。水さえ抜いていれば普通に息ができていただろうに。老医師はぶつぶつとそう呟いていた。


 それよりも、副座長の呼んだ医師が、一体何をしていたのかと、ルビーは問いたかった。薬を処方されただけだとカナリーは言っていたから、ちゃんとした処置をしてもらっていなかったのは明らかだ。


 きのう老医師とともに火焔吹きのところをルビーが追い出されたときの、おろおろと副座長に抗議するカナリーの声が、嫌な感じで耳に残っていた。


──このままじゃ、おじさんが死んでしまうわ。


 あのあとやってきたお医者さまに、火焔吹きは治療してもらったのだと思っていたのに……。

 医者と呼ばれる人たちを、人間の世界にやってきてからルビーは何度か目にしていたが、みんなが同じ病状には同じ判断を下すものだと、なんとなく思っていた。

 でも、そうではなかったということだ。

 レイラのいうように、まともな治療をしない医師というのは、本当に存在するのだ。


 副座長はしれっと言った。

「ゆうべ夜中に医者を呼ばなければならないほど調子が悪くなっていたのだったら、そのときすぐに言ってもらわなきゃわからないじゃないか。きのうは昼の間に医者に診てもらっていたんだからな。すくなくともその時点では、そこまで急を要する事態ではなかったんだぞ」

 まるで、カナリーの対応がまずかった、と言わんばかりだった。


 カナリーは真っ赤な目で、ぐずぐずと泣きながら言った。

「だっ、だって……お……おじさんが、先生は呼ぶなって……時間外に来てもらうのは……先生も大変だからって……夜になって……おじさん、あんまり苦しそうだったから、あたし……本当は来てもらいたかったんだけど……朝になってからでいいって……おっ、おじさんが……」

 

 不安な夜をまんじりともせずに過ごし、夜が明けるのを待って、待って、皆が起き出して来るのを待ち続けて、やっと彼女は副座長に医師の手配を頼んだのだ。


「朝になったらすぐに呼んでもらえると思ったのに……先生は忙しいって……きょうの往診は午後になるって……そっ、そんなに待てないと思ったから、あたし……」


 カナリーは言葉を詰まらせ、小さな子どものようにわあわあ泣きだした。


「朝の時点で、かかりつけではない別の医師を手配しようとは考えなかったんですか?」

 場違いなぐらい冷静な声で副座長に問い掛けたのは、死亡確認のためにお役所から来た、戸籍係の人だった。

「普通、そんな緊急事態だと思うか?」

 副座長は呆れたように言い返した。

「病気で寝込むことなんか、誰にでもある。緊急事態ならそうだと言ってもらわんとわからんじゃないか。きちんと説明もせずに、火焔吹きにつき添うことすらせず、勝手にどこかに出かけてきおって」


「そんな言い方はないんじゃない?」

 ルビーはまた、間に割って入った。

「副座長。あなたがちゃんとカナリーのいうことを聞いてくれなかったからじゃない。だから、カナリーは別のお医者さまを探して連れてこなきゃならなくなったんじゃないの。結局間に合わなかったけど。もし間に合っていたら、カナリーの行動は無駄ではなかったってことなのよ。第一、かかりつけのお医者さまだって、忙しいって返事をされたまま、まだいらしてないんでしょう?」


 ルビーの胸の内で、やりきれない気持ちが膨れ上がって、いまにも噴き出してきそうな心地だった。

 きのう、老医師を追い出そうとした副座長に、もっと本気で食ってかかればよかった。肺の水を抜かなければならないと老医師の言った言葉を、火焔吹き本人か、せめてカナリーに伝えればよかった。

 見世物小屋をあとにするまえに、あの恰幅のいい医者が、老医師のいったような水抜き処置を施したかどうかを確認すればよかった。


 ところが、カナリーは今度はルビーをキッと睨みつけた。

 

「どうせっ、どうせ、あたしは間に合わなかったわよ。ま、間に合わなくて悪かったわね。どうせ、全部無駄な行動だったわよ。なっ、なによ、あんたなんか。横からのこのこやってきて、関係ないのに首を突っ込んで」


 いきなり攻撃の矛先を向けられて、戸惑う顔のルビーに、堰を切ったようにカナリーは怒鳴り始める。


「ゆうべのうちに行動しなかった、あたしのせいだって言うんでしょ。全部あたしが悪かったんでしょ。もう、いいわよ。もう。おじさんは死んでしまったからどうにもならない。だれのせいでも、だれが悪くたって、もう、どうにもならないんだから。帰ってよ。もう帰って。用は済んだでしょ。いつまでここにいるのよ」


 今度はルビーがおろおろする番だった。

「カナリー、落ち着いて」

「落ち着けですって? おじさんが死んだのに? 落ち着けって、何さまのつもりなの? いつもいつもえらそうに。いつもいい子ちゃん面で。自分は何も悪くないって顔で。いつも自分の方が正しいって顔して。ちょっと自分の方が早く練習始めてちょっと軽業できるからって、いつも上から目線で。本当にむかつくのよ。あんたほんとに何さまよ」

「そんなつもりじゃないわ。そうじゃなくて、カナリー、火焔吹きの容体が急変したのは、きのうのお医者さまの誤診が原因なんじゃないの? だってこちらのお医者さまがおっしゃるには──」

「だからもう、そんなことどうだっていい」

 ルビーの言葉を遮るように、カナリーは大声を上げた。

「だったらどうだっていうの? それがわかればおじさんは生き返るとでもいうの? あんたの顔を見てると頭が痛くなるのよ。帰ってよ。帰って。あたしの前にいないでよ。どっかいっちゃってよ。どっか行けっていってるのがわからないの? もたもたしないで、とっとと出てってよ。どれだけあたしをイライラさせたら気が済むのよ! ロビン、あたし、あんたが大っ嫌いなのよ!」


 噴き出すような憎しみを叩きつけられて、ルビーは返す言葉を失った。

 カナリーの剣幕にその場のみんながあっけにとられている横で、お役人が書類をパタンと閉じて、立ち上がった。

「では、手続きが終わりましたので、わたくしはこれで。次に向かう場所がございますので」

 やはり、場違いなぐらい落ち着き払った事務的な声だった。まるで、愁嘆場には慣れて、飽き飽きしているとでも言いたげな様子だった。


「でも……だって……」

 案内係とともに廊下を遠ざかっていく役人の足音を聞きながら、ルビーは途方に暮れた気持ちで副座長を見た。

「しょ……処置しなきゃ助からないって──でも、処置すれば助かるって、きのうお医者さまは言ってたのに、火焔吹きは薬をもらっただけで、何もしてもらえなかったんでしょ? だったら、もし──」

「馬鹿も休み休み言え」

 なおも言い募ろうとしたルビーの言葉を遮って、副座長はルビーを睨みつけた。

「医者がみんな同じ診断をくだすわけじゃないぞ。それぞれの経験にもとづくきちんとした所見があるんだ。そこの貧乏じじいの診断の方が正しかったってのは一体だれが決めるんだ? おまえか? ええ? おまえが決めるのか? おまえはそんなに偉いのか?

 そいつに見せてたらロクな薬ももらえずに、野蛮に切り刻まれてかえって悪化させてたかもしれんのだぞ? そうしたら、火焔吹きはきのうまでしか持たなかったかもしれんじゃないか。そんなことも想像できずに勝手なことばかり言うんじゃない。そういうのはな、心ない中傷っていうんだ。いいか? おまえの言ってるのは中傷だ! 人をそんな風に悪しざまに言うのは、心がねじくれているからだ。根性のねじ曲がった卑しいやつめ! 恥を知れ! 恥を! この根性曲がりめ!」


 副座長は、唾を飛ばしながらルビーをののしった。

 医者はルビーに加勢してはくれず、ただ、やれやれというように頭を振っただけだった。


 それまで黙ってその場につき従っていた警備兵のロメオが、ルビーの肩を、軽くトンと叩いた。

「もう出ようぜ」

 老医師が、こほんと一つ咳払いをした。

「すまんが、帰りも馬車で送っていってもらえるかな?」


 明日は親方が稽古をつけてくれる最初の日のはずだったが、帰り際、出入り口のところの伝言係が告げてきた。明日は葬儀と埋葬をとりおこなうので、稽古は中止にしてもらえとの副座長からの指示があったということだった。親方にはもう連絡は入れてあるという話だった。


 部屋を出るときに、ルビーは振り返ってカナリーの様子を見た。

 少女は、寝台に横たえられたまま冷たくなっている火焔吹きの脇で、背中を丸めて椅子に座っていた。


 けれどもそのときですらまだ、ルビーには副座長の悪意の本当の意味がわかっていなかったのだ。

 やっとそれが理解できたのは、火焔吹きが埋葬された日から2日後のことだった。改めて親方に教えを乞うために、ルビーが見世物小屋に足を運んだ日、カナリーはすでに見世物小屋からいなくなっていた。


 最後にカナリーを見かけたのは、火焔吹きが葬儀のあと墓地に埋葬された日に、貴婦人に連れられてルビーが見世物小屋を訪ねたときだった。話はしていない。その場を仕切る副座長の隣で、少女は悲しげな顔で、終始うつむいていた。

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