57 悪意の理由
※57話~58話に人の死に関する描写があります。
正直なところ、ルビーはまだどこか、半信半疑だったのかもしれない。
だれかをわざと見殺しにするというような悪意の存在もその意味も、ルビーの想像をはるかに超えていたからだ。
きのうの老医師を追い出した副座長の剣幕について、ルビーが不自然に感じていなかったわけではない。それでも、副座長がそんなことをする理由がルビーにはわからなかった。
もしも火焔吹きの病状が悪化して、万一のことがあれば、見世物一座は貴重な人気芸人を一人失ってしまうことになる。そんなことをして、一体なんの得になるというのだろう。
とはいえ、たとえルビーが副座長の悪意について疑っていたとしても、きのうの町医者を訪ねて火焔吹きのところにつれていくことそのものについては、迷いや逡巡はなかった。
やむなく出港してしまう座員たちの代りに、ルビーは行動する。その役割をレイラに託され、まかせてと答えたのだ。そういう理由があったから、ルビーは自身の判断や結論は横において行動した。
警備兵ロメオの待つ馬車まで急いで戻り、事情を説明して、見世物小屋に向かう前に町医者のところに寄って乗せてくれるようにお願いをした。
ロメオは快く引き受けてくれた。見世物小屋についてからの診察の間も、老医師が副座長につまみだされなくて済むためのボディガードの役もやると約束してくれた。
取り乱したままのカナリーを半ば強引に馬車まで連れてきて、有無をいわさず後部座席に押し込み、出発した。説得は後回しだ。ロメオが馬車を走らせてくれている間にするつもりだった。
船は容赦なく港から遠ざかっていくばかりだったから、カナリーは諦めるほかなかったようだった。
きょうのカナリーは泣きはらした真っ赤な目をしていて、自慢の金髪に櫛を入れた様子もなく、いつもと比べるとどこかくすんで見えた。どうやって一人でここに来ることができたのかを不思議がるルビーに、駅馬車を使ったのだとカナリーは説明した。
グスグスと泣きながら、カナリーは言った。
「見世物小屋の近くの大通りに停留所があるから、そこから乗って……でも、その馬車は港へは行かなくて……お役所の近くのターミナルから乗り継いだの。でも……今度はどの馬車に乗ればいいのかよくわからなくて、迷って……見世物小屋を出たのはまだ朝のうちだったのに……船が出るまでに港に着けるはずだったのに……」
副座長の呼んだ医者は、火焔吹きを診察すると、薬を処方したのだという。それを飲んでしばらくは、彼の病状は落ち着いていたかのように見えた。
けれども夜半、火焔吹きはひどく苦しみだしたのだという。
明け方、カナリーは副座長をたたき起して、きのうの医者をもう一度呼んでもらうように頼んだ。
けれども医師からは伝言だけが戻ってきた。午前中はほかの急患の対応に追われているので足を延ばすことができない。午後まで待っていてほしいという返答だった。
苦しみ続ける火焔吹きを前に、カナリーは途方に暮れた。
「もう、あたし……どうしたらいいのかわからなくて。アート……アートならおじさんを助けてくれるんじゃないかって思って……でも、船が出てしまうなんてひどいわ。やっとここまでたどり着いたのに。港の人も、全然取り次いでくれなくて……ロビン、あんただけアートに会えたなんてひどい」
話の矛先がいきなり自分に向けられて、ルビーは戸惑った。
ルビーは別にアートに会いに行ったわけではない。しかし、ロクサムのことをカナリーに説明するのは、なぜだか気おくれがあった。
ロクサムはきのうはチェロ弾きが連れてきてくれた老医師にきちんと診察してもらえて、きょうは船に乗り合わせたデュメニア大臣直々に、痛み止めの術をかけてもらうこともできた。
運、不運と言ってしまえばそれまでだが、火焔吹きに対して何か後ろめたいような、申し訳ないような気持ちになってしまったのだ。
それでも。
そのときのルビーはまだ、希望的観測の中にいたのだ。
ひょっとしてレイラは大げさに考え過ぎているのではないかと。ルビーと一緒に外で待っていた老医師の診立ての方が間違っていて、立派な身なりをしたあのお医者は、結局は適切な処置をしていっただけなのではないかと。
きのうの老医師を訪ねて、レイラに指示された通り赤い宝石のついた指輪を渡してお願いしたときも、それが本当に必要なことだという確信は、全然持てずにいた。
「まったくやっかいじゃわい。きょうは診察日だから、午後の患者もわんさか待っているというのに」
最初、老医師はぶつくさこぼしたにもかかわらず、ルビーが指輪を見せた途端、ころりと態度を変えた。手に取り、光にかざしてまじまじと眺めたあと、そのままポケットにしまいこんで、にやりと笑ったのだ。
「ではお嬢さん、行こうかね」
その変わり身があまりにもあからさまだったので、ひょっとしたら副座長の方が正しくて、レイラの方がだまされているのではと一瞬考えてしまったルビーだった。
けれども、そんなルビーの楽観的な予想を打ち砕く残酷な現実が、老医師を連れて到着した見世物小屋で待ち受けていたのだった。
「おい、カナリー、おまえさん、一体どこに行っていたんだ」
正面の大きな門をくぐったところで馬車から下りるやいなや、怒ったような顔の副座長が建物から出て走り寄ってきた。
「最期まで火焔吹きは、おまえさんが戻ってくるのを待っていたんだぞ」
「そんな……おじさんは? おじさんはどこ?」
茫然自失の態でよろよろと倒れそうになるカナリーを横から支えて、ルビーは副座長を見た。
彼は怒ったような顔のままカナリーだけを見て、ルビーのことは無視した。
「息を引き取ったのは午前中だったが、まだ芸人部屋に寝かせてある。葬式と埋葬の手配はこちらでさせてもらったぞ。遅くなると明日中にできなくなるからな。だいぶ涼しくなったとはいえ、埋葬はなるべく早い方がいい。死体は長く置いておけないんだ」
「だって……きのう、お医者さまは薬を飲んだらよくなるっておっしゃってたのに……どうして?」
「病人っていうのは、容体が急変することだってあるんだ。そんなことも想像できなかったのか。本当に一体どこにいってたんだ、ん? だれを連れてきたんだ?」
と、副座長は馬車に乗り込んでいる老医師に目をとめた。彼は馬車の小窓から中を覗き込んで、怒鳴りつけた。
「いまごろ何をしに来た、インチキ医者め。帰れ! おまえが金をふんだくれるようなカモはもう、ここには転がっちゃいないぞ」
「レイラに頼まれたんです」
ルビーはそう言って間に割って入った。
「そのお医者さまを連れて、火焔吹きを診てもらうようにっていう伝言なの」
「カナリーは火焔吹きのことを芸人仲間に相談しに、港まで行ってたってわけか」
副座長はちっ、と舌打ちをした。
「とにかくそいつには帰ってもらう。座長の留守中の見世物小屋の采配はおれに一任されているんだ。おれの許可なく勝手に部外者を入れることは許さんぞ。それに、そいつの診ていた患者ももういないしな。こぶ男ならとっくに船に乗っているぞ」
「それは知っています」
ルビーは繰り返した。
「レイラに頼まれたんです。そこのお医者さまに、火焔吹きを診てもらってほしいって」
けれども副座長はけんもほろろだった。
「医者は用済みだ。もうじきお役所から死亡を確認するためのお役人が到着する。レイラにはそう伝えておくといい。いや、もう船は出港しているから、伝えようがないか。とにかく帰れ。帰ってもらえ。そうでなくともいま忙しいんだ。部外者にウロウロされるいわれはない」
「確かに患者が亡くなってしまっては、わしは用無しのようじゃな」
不意に、老医師が口を開いた。その場の緊迫した雰囲気など知らぬ気な、のんびりとした口調だった。
「しかし、舞姫どのには既に治療費を、前金で受け取っておるからな。何もしないで戻るのも気が引ける。せめて、死亡診断書でも書かせていただこうかね」
「なにをたわけたことを……」
「お嬢さん、カナリーとかいったかな。亡くなったのはあんたのおじさんなんだろう。肉親の許可があれば、わしは不法侵入者としてでなく招かれたものとして、堂々とおじさんを診ることができるんだが、どうかね? 許可はもらえないかね」
ルビーの横で、カナリーが小さな声で「お願い」とささやいたのと、副座長が鼻息荒く「そんな必要はない」と怒鳴ったのは、ほとんど同時だった。
「カナリー、こっちへ来い」
副座長は、ルビーからもぎ離すようにして、カナリーの腕を引っ張った。
「バカなことを言っているんじゃない。こんな老いぼれに亡くなった火焔吹きを見せて、いまさら一体なんになる。やつはもう死んじまってるんだぞ」
それから副座長は振り返って、きのうも医者をつまみだした屈強の男たちを呼んだ。
「かまわん。こいつらを、馬車ごと叩き出すんだ」
それまで黙って御者席に座ったままだったロメオが、無言で馬車を降りて、副座長の前に立ち、彼らを見下ろした。
いきなり姿を現した、スキンヘッドでいかつい顔つきの雲を突くような大男の存在に、副座長の後ろの座員たちはたじろいで、後ずさった。
腰の引けた座員たちの様子を見て、副座長は再び舌打ちをしたものの、しぶしぶ許可を出した。
「まあ、死亡診断書を書くぐらいならかまわんだろう。だが、用事が終わり次第さっさと帰ってくれ」




