56 出港
船室や船の廊下や甲板と比較しても、はしけの上は、ずいぶんと海面に近い。
ルビーはほとんど腹這いの姿勢になって、海面に身を乗り出していた。穏やかな海のおもてはたぷたぷと波打ちながら、はしけの淵にぶつかって白く泡立つ。
ふくいくたる潮の香が人魚の鼻腔をくすぐるとともに、遠く海底から響いてくる轟のような音を、ルビーの耳は聞き分ける。
懐かしい海の響きは、変わらぬ穏やかなリズムでルビーを呼び続ける。
帰っておいでと。
冷たく澄んだ、遥かな豊かな広い青い水の世界へ。
たったいま、波の誘いに身を躍らせて水中に潜ってしまえば、今のルビーを取り巻くすべては終わる。
見世物小屋に売られてロクサムと友だちになったことも。
ハマースタインの奥さまに買い取られて、お屋敷に住むようになったことも。
家庭教師をつけてもらって、歌と字と計算を習っていることも。
アートに空中ブランコを習っていることも。
アートから紹介されて、今度は親方に教えてもらうことになったことも。
カナリーというちょっと生意気でとても綺麗な女の子に、ブランコだか恋だかのライバル視されていることも。
チェロ弾きに連れて行ってもらった街の広場で歌を歌って、そこにいた人たちに喜んでもらえたことも。
曲を聞いてくれた人たちに、また来ると約束したことも。
カナリーの叔父さんの火焔吹きが病気で、寝込んでしまったことも。
舞姫のレイラに頼まれて、火焔吹きのところにお医者さまをつれていく約束をしたことも。
この一瞬。すべてを引き換えにしても構わないと思ってしまいそうになるくらいに、踊るような波の音は魅惑的で、ルビーの心に甘く誘いをかけてくる。
たったいま海に飛び込んで、辛くてほろ苦い海の水を胸いっぱいに吸い込むことができたなら。
またすぐに陸に戻らなければならないとしても、たとえほんのちょっとの間でも、揺らめく水の中を漂い、泳ぎ、はるか底の方から海面を見上げることができたら。
それでもルビーははしけの上にへばりついたまま、はるかな海の広がりを狂おしく恋い焦がれながらも、じっと波を見つめ続けるばかりだった。
宝石や様々な意匠をこらした金細工や銀細工の彫り物の入った小袋を、さっきレイラから渡された。
そのときルビーは、大きく頷いてこう答えたのだ。
「まかせて、レイラ」
ルビーの懐にそっとしまいこまれたそれは、小さいけれどもずっしりと重い袋だった。
最初ルビーは、町医者に渡す宝石を一つだけ受け取って、小袋は返すつもりだったが、万一のための保険と思ってほしいとレイラに言われた。
──人魚ちゃんが思うようにしてくれたらいい。使う使わないは人魚ちゃんに任せるから。もしも人魚ちゃんのお給料から火焔吹きの治療費を当てて、それでさらに間に合わないようなことがあったら使うつもりで、ただ持っていてほしい。駄目かな?
そこまで言われたら、ルビーには断れなかった。
袋とともにレイラは、急いで書きなぐったらしき手紙もルビーに手渡した。先日レイラを訪ねて見世物小屋にやってきた近衛兵のジョヴァンニへの手紙だった。
──あたしがいますぐ連絡が取れる人物で一番力を持っているのはあの子だからね。もしも人魚ちゃんの手に余るような事態になって、力を貸してほしいことがあったら、これを持ってジョヴァンニのところに相談に行ってくれるかい?
ハマースタインの奥さまが手紙を持たせてルビーを船に寄こしたことを聞いて、レイラはこの方法を思いついたらしかった。
けれども、一度も手紙のやりとりをしたことのない相手から手紙をもらっても、ジョヴァンニはレイラからだと知る術がないのではないか。ハマースタインの奥さまのように、家ごとに伝わる独特の模様の印璽を、レイラが持っているわけではないのだ。
そんなルビーの疑問に対し、レイラはこう答えた。
──舞台で一番よく使う衣裳を切って一部を同封してる。あの子はあたしのファンだって言ってたから、それでわかると思う。
レイラの言葉を聞きながら、彼女の知己で一番の権力者はジョヴァンニではなく、さっき再会を果たしたデュメニア大臣ではないかとも、ルビーは考えていた。とはいえ、大臣はレイラと同じ船に乗り込んでしまっている。今後何かが起こるにせよ、居残り組が頼っていきようのない状態だと思ったから、それについてはルビーは黙っていた。
廊下からはしけへと続くステップを降りていったとき、空のコンテナを積み上げている日雇いの水夫の横で、ドラティア提督とブランコ乗りのアートが話し込んでいた。詳しい内容はわからないが、ロガール氏が、兄が、という言葉の切れ端が耳に飛び込んできたので、アートのお兄さんのことが話題にされているようだった。
振り向いたアートはルビーの姿を見て驚いたようだったが、貴婦人の許可をもらってロクサムの様子を見に来たのだとレイラが説明すると、腑に落ちた顔になった。
火焔吹きのことは、これから船が沖に出たあとでレイラが説明するはずだった。
「人魚ちゃんが、きっとなんとかしてくれる」
苛立つアートをそう説得するレイラの声が、波の向こうから聞こえてくるような気がした。
だからルビーの両肩にかかっている責任は重大だ。
火焔吹きの窮地を知ったらアートが船を降りてしまうと言ったことについて、さっきレイラはルビーに説明してくれた。
──あいつはそういうことは自分で行動しないと納得しないやつなんだ。
政府の要人をはじめとする後援者を得て、ものものしく巡業に出発する船から突然花形芸人が逃走する。そんな無責任なことをアートがするなんて考えられないと不思議がるルビーに、レイラは短く言った。
──あいつにはそんなの関係ない。
夕べ奥さまに言われたことを思い返しながらルビーが口にした、だって大人はそんなことしないと思う、という言葉に対しても即座に否定された。
──それを誰かに簡単に委ねられるのを大人っていうなら、あいつは全然大人じゃない。
でも巡業は? となおも問うルビーに、レイラはため息をついた。
──海上で公演をやるわけじゃないから、陸路で次のキャンプ地に追いつくから大丈夫だっていうだろうね、あいつなら。ま、普段ならそれでもよかったんだけどさ。今回は余計なお荷物がついてきそうだからね。あんなわがままなお子さまを連れて、一座に追いつくような強行軍の旅は無理がある。
レイラの言っていたお子さまとは、間違いなくカナリーのことだ。
一度船を降りて見世物小屋に戻ったら、アートはカナリーを小屋から連れ出すはずだと、レイラは考えているらしかった。
どうしてレイラがそう思っているのかが、ルビーはよくわからない。ルビーが聞いたら、事情が変わったからね、とレイラは短く答えただけだった。
ルビーはさっきのレイラの説明の中での、よくわからなかった部分についても確認したかった。
副座長が火焔吹きをまともな医者に見せようとしないのは、カナリーが火焔吹きのところに残ることになったからだという意味のことを、レイラは言っていたのだ。
けれどもそれについての説明を聞くことはできなかった。時間がないと促されて、そのまま2人でステップを降りてはしけに向かったのだ。
最後に一言だけ、レイラはルビーにそっとささやいた。
──副座長には気をつけな。火焔吹きをよろしく頼む。
「そんなに身を乗り出すと、海に落ちてしまうぞ」
後ろから声をかけられ、ルビーは振り向いた。
いかめしい顔に黒いあご髭を蓄えたドラティア提督が、こちらを見ていた。
「ロビン嬢、きみは泳げるのかね」
「泳げます」
言いながらルビーは立ち上がった。
「ほう」
提督の片眉が上がる。
「だがその服ではバタアシができないだろう」
きょうのルビーの服は、上品な光沢の暗いあずき色をした裾の長いワンピースドレスだ。派手なデザインではなかったが、たっぷりと布を使った服は華やかなシルエットを形作る。 午後は自主練習のために見世物小屋に寄る予定にして出てきたが、街中を歩くのに、露出の多いショートパンツは避けた方がいいと執事さんに助言された。小屋についてから稽古着に着替えるつもりで、馬車の中に着替えの入った荷物を乗せてもらっている。
そのことを思い出しながらルビーは、きのうの医者を訪ねていく前に、馬車の後部座席で普段の服にさっさと着替えてしまおうと考えた。
「提督は泳がれるんですか?」
ルビーの質問に、ドラティア提督は愉快そうな顔になる。
「我が海軍の入隊試験には泳ぎの実技の項目もあってな。泳ぐスピードも距離も、素潜りの深さも飛び込みの正確さも、採点基準に加えられる。カナヅチなどというのはもってのほかだ」
ルビーは当たり前過ぎることを質問してしまったらしかった。
「ところで、カルナーナの港町に住む者は、女子どもでも泳ぎの得手なものは多い。しかし、いくら泳げるからといって、船上を訪ねてくるときに、その泳ぎにくいスタイルはあまり感心しないぞ」
「海軍提督がおいでになるかもしれないとお聞きして、執事さんに見立ててもらったんです」
ルビーは説明した。
「それにきょう、はしけで行き来するとは思っていませんでした。てっきり船は桟橋の脇に停泊しているのかと」
「きのうは午後から夜にかけて桟橋に着けていたんだがね。大きな重い荷物も多かったものでね。しかし、港を行き来する船は多い。きょうも新しく別の船が入ってきているんだ。大勢の人間の乗り降りや大量の荷の揚げ降ろしのために、なるべく多くの船が桟橋を利用する必要がある。南部首都の港はかつては狭くはなかったんだが、利用する船舶の数は増える一方だ。譲り合いが必要なのだ」
なるほど見回すと、複数ある桟橋はそのほとんどが使用中だ。使われていないものに向かっては新しい船が先導するボートにいざなわれて近づいて行っている。少し離れた所には、はしけで荷物をやりとりしている船も複数、お行儀よく並んで停まっている。沖に向かって目をやると、順番待ちと思われる船舶が数隻、合図を待って湾の出口のあたりに停泊していた。
きのうのゾウもこのはしけで運んだのかとルビーは思っていたが、そうではなかったらしい。
出発を知らせる汽笛の音が突然響き、ルビーは後方を振り返った。
提督の用意した船の甲板は、見世物小屋の人たちであふれていた。皆一様に港に向かって手を振っている。
一方、港の側はといえば、大きな建物の屋上部分が広々としたデッキになっていて、そこに着飾った多くの人たちがいて、船に向かって大きく手を振っていた。見送りの人たちもいるのかもしれないが、ただ船を見物に来ただけの関係のない人もたくさんいそうな感じだった。
船着き場そのものには乗降する人たち以外の見送りの客は入れないようになっているらしい。
水夫たちが忙しそうに荷物を持って行き来しているのが見える。ずっと後ろの柵のところまでは一般人も入ることができるためか、柵のうしろにもたむろっている人々がいて、同じように手を振っていた。
はしけは複数の漕ぎ手によって、滑るように港に向かう。埠頭が次第に近づいてきて、反対に甲板の人たちは豆粒のように小さくなっていく。
と、せわしなく行き来する水夫たちの間から、金髪の頭が見えた。
埠頭のところでだれかがもみ合っているように見える。
金髪の頭の持ち主は、柵を乗り越えて勝手に入ってきたらしい。海に向かって何かを叫んでいる。水夫たちが何人かで、それを押しとどめ、柵の向こうに下がるように言っている様子だった。
そのきららかな長い金髪の持ち主には見覚えがあった。
カナリー?
はしけは意外なほどの速度でするすると埠頭に近づいていく。
次第にはっきりとルビーの目に映る金髪の少女は、やはりカナリーだった。
「止めて! あの船を止めて!」
危ないから下がって、と水夫たちに口々に注意されながらも彼女はひるまない。
「乗っている人に用事があるの! 緊急の用事なのよ!」
「無理だよ。あの船はもう出港の時間だ。たったいま、合図の汽笛を鳴らしたところだぞ」
「駄目よ。船を止めて。出港なんてさせないで。お願いよ。でなきゃ、いますぐアートを呼んで。あの船に乗っているの。呼びもどして。呼びもどしてよ。おじさんが、おじさんが大変なの!」
もういちどルビーは一座を乗せた船を振り返った。錨を上げ終わった船は、水平線に向けて滑るように遠ざかり始めていた。




