55 副座長の悪だくみ
はしけが横づけにされたままだという乗降口に向かってレイラに案内されて船内を歩きながら、ルビーは隣を振り返った。
「レイラ、ありがとう。ロクサムのこと気にかけてくれてたのね」
「いや」
レイラは苦笑いを浮かべる。
「結果的に、あんまりよくない余計なことになっちまったみたいだね。かえって悪かったよ」
「ううん、そんなことない。ありがと」
ルビーが部屋をあとにするときのロクサムは、最初見たときよりも少し顔色が良くなっていたような気がする。また、デュメニア大臣は、船医として病人のロクサムに気を配ってくれることを約束してくれた。
「人魚ちゃんが気にしてるんだろうなと思うとさ、こっちも気になっちまっただけさ。まさか船の上まで様子を見に訪ねてくるとは思わなかったけど……」
「ほんとはあたし、みんなと一緒に巡業について行きたかったんだけど……。奥さまが、ドラティア提督の船なら船医さんが乗ってるはずだからっておっしゃったから、お会いして事情を話したら診ていただけるかと思って、せめて出港前に頼めたらと思ってきたの」
ここに来るまでの経緯の説明をしながら、ルビーはなおもレイラへの感謝が伝えきれていない気がして、言葉を探した。
薬の用法を間違えてしまったのは、ロクサムが医師の言葉を聞き落としていたせいで、レイラのせいではない。それよりも、船の上でだれもロクサムを気にかけてくれていないのではないかと思っていたから、レイラの気遣いが単純に嬉しかった。
「それはそうと、人魚ちゃん、居残り組のほうも大変だろ? 火焔吹きが倒れたんだって?」
「ええ」
「あんたが訪ねてきてくれてちょうどよかったよ。どんな様子か知りたかったんだ」
レイラに促され、おもな芸人らが乗船してしまったあとのきのうの出来事について、ルビーはざっと説明した。
突然火焔吹きが倒れたのは、ちょうどロクサムのために来てもらったお医者さまがいたときだったから、カナリーがついでに診てもらおうして呼びにきたこと。けれども副座長がやってきて、すごい剣幕で老医師を追い出してしまって、結局副座長の手配した別のお医者さまに診てもらうことになったこと。
ところが、ルビーの説明を聞いているうちに、レイラの顔は次第に難しいものになっていった。
「うーん。そりゃまずいな」
話の途中でレイラは足を止めて、腕組みをした。
「幹部の居残りが広報担当から急に副座長に変更になったって聞いて、嫌な予感がしてたんだ」
「レイラ?」
ルビーが振り返ると、こわばった表情の舞姫と視線がぶつかった。
「人魚ちゃん、楽団の人が連れてきてくれた先生は、そのときなんか言ってたかい? 火焔吹きはどんな具合だって?」
「すぐにでも処置の必要のある病状だって。だからきのうは、新しいお医者さまが到着されるまで、念のためにって待っててくださったの」
「なんだって? そりゃ、本当かい?」
レイラのただならぬ様子に、ルビーの胸の内にも急速に不安が膨れ上がっていく。
「でも、そのあと、そんなに待たずに、新しいお医者さまは到着したのよ。副座長に呼ばれたお医者さまは、重くて大きな医療カバンを持っていて、2人の助手を連れていらしたわ」
ルビーがそう説明しても、レイラの表情はなぜか険しくなる一方だ。
そのとき。
角の向こうから、話声とともに足音が近づいてきた。
声は2つで、その2つともルビーの知っている声だった。
片方はやたら陽気でおしゃべりな、アートの声。もうひとつはさっきルビーが会ったばかりのこの船の持ち主のドラティア提督の声だ。どうやらアートは、はしけに戻るドラティア提督を送ってきたらしかった。
と思った瞬間。
レイラはちょうど自分たちの脇にあったドアをとっさに開くと、ルビーを引っ張り込んでパタンと閉めた。薄暗いそこは、どうやら船員たちの物置らしく、布をかけられた用途のわからない道具が積み上げられている。
「レイラ? どうし……」
「黙って!」
驚いた顔のルビーに、レイラは小声で鋭くささやいた。
話し声と足音が途中で曲がって階段を下りて行くのを確認してから、レイラはルビーに向き直った。
「アートに聞かれるとややこしい。状況をこれから手短に説明するから、人魚ちゃん、あたしらに協力してくれ」
切羽詰まったようなレイラの表情に、ともかくルビーは頷いた。
「あたしはこれから自分の個室にもどって、手持ちの宝石と貴金属を持ってここに戻ってくる。あんたは船を降りたら、きのうの医者のところにまっすぐに行って、その一つを報酬として手渡して、もう一度、火焔吹きのところに連れて行ってくれ。いいかい、渡すのはあらかじめ決めておいた一つだけだ。残りのは隠しといて、見せちゃいけないよ。残りは予備だが、2度目以降は、宝石のままで渡さずに、チェロ弾きかほかのあんたが信頼できるだれかに相談して、換金してもらって現金の形にして使ってくれ。あの町医者は、腕はいいんだが足元を見るからね。上手く交渉しないとふんだくられる。ただし、今回は四の五のいっちゃいられないから、とにかくなるべく早く火焔吹きのところまで連れていってくれ」
「どうしてアートに言っちゃいけないの?」
「こんな話をいま聞いたら、あいつがそのまま船を降りちまうからだよ」
レイラの答えに、ルビーは目を丸くした。
「だってこれから巡業……」
「うん。今船を降りたら巡業に同行できなくなる。だからあいつに知られるとまずい」
レイラは言い加えた。
「それだけ状況が切迫してるってことなんだ」
なおも状況を飲みこめないでいる様子のルビーに、レイラは重ねて説明を加える。
「副座長は、わざとやぶ医者を手配した可能性がある。火焔吹きをまともに治療させないためだ」
「そんな、まさか……」
目を見開いたルビーに、険しい表情のままのレイラは首を振る。
「でも、だって、どうしてそんなこと?」
「カナリーが一緒に残ったからだよ」
その言葉の意味がルビーにはよくわからなかったが、レイラはルビーに言葉を差し挟む隙を与えずまくしたてた。
「畜生! 町医者をわざわざ追い払っただって! あいつならまた同じことをやりかねないな。今度は追い出されないように、用心棒みたいなやつを連れて行って、処置の最中につまみだされないようにする必要がある。知ってるやつに手紙を……いや、駄目だ。時間がない」
やっと状況が飲み込めたルビーは、口早に言った。
「わかった、レイラ。きょうあたしを、ここの港まで連れてきてくれている人に、お医者さまと一緒に火焔吹きのところに行ってくれないか頼んでみる。ハマースタインのお屋敷の用心棒の人の一人なの」
「そりゃ、本当かい?」
ルビーは頷いた。
最近ではルビーはお屋敷お抱えの御者の操る馬車ではなく、その用心棒の人をつけてもらって行動することが多かった。お屋敷の護衛兵の一人で、鍛え上げた巨躯と、タコ入道のような強面のスキンヘッドが特徴的な若者だ。
名前をロメオといった。
ロメオはいま、港に停めた馬車の中で、ルビーが船から戻るのを待ってくれている。
「しかし、その人がこのあとすぐにお屋敷に帰んなきゃいけないってことはないかね」
「多分大丈夫だと思う。お屋敷づきの勤務は1日おきの交代制だから。あたしの護衛は休日のアルバイトなんだって。それに、もし用事があったら代わりにだれか紹介してもらう」
「わかった。よろしく頼むよ」
レイラが神妙な顔で頭を下げたので、ルビーは慌てて制止した。
「レイラやめて。そんなことしないで。それと、宝石は一つでいい。きょうの分はお屋敷にとりに帰る時間が惜しいから使わせてもらうけど、あたし、お給料いただいてて執事さんに預かってもらってるから、明日以降のお金だったら用意できると思うの」
「そりゃ、筋が違う。火焔吹きはずっとあたしらの仲間で、みんなの親父みたいなもんだから、あたしたちにはもう何年越しにもなる恩義があるんだ。とにかくちょっとここで待ってておくれ」
「だったらあたしだって……」
きのうだって、ロクサムに言いつけられた荷物を代わりに運んでもらった。倒れるほど体調が悪かったというのに。
それに恩義があるという言い方をするのなら、そもそもルビーにはレイラ本人に借りがある。ロクサムのことだってそうだし、下働きをさせられているときだって、いろいろと助けてもらっている。
言い返そうとしたルビーだったが、レイラは自分の言いたいことだけ言い終わると素早く立ちあがり、するりと扉をくぐって出て行ってしまった。




