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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[四] 一座の巡業と貴婦人の旅立ち
51/110

51 子どもの言い分

 チェロ弾きとルビーが見世物小屋に連れてきた老医師は、しかしながら火炎吹きの診察を始めたところで、乱入してきた副座長に追い出されてしまった。

 副座長は屈強の男たちを連れていたから、叩き出されたと言った方がいい。

「この老いぼれのやぶ医者め!」

 副座長は口汚くののしりながら、腕を振り上げて威嚇した。

「おれたちのところの人気芸人に取り入って、上がりをかすめ取ろうったって無駄だぞ」

 男たちは痩せた老人の両腕を掴み、部屋の外まで引きずっていって、ドアの外に放り出した。ロクサムの件について、とりなすための隙などあらばこそだった。

 続いてドアから投げ捨てようとしていた往診用の鞄を、ルビーはひったくるようにして奪い返すと、老人を追いかけて部屋を出た。


 後ろから、カナリーがおろおろと抗議する声が聞こえてきた。

「待ってよ、副座長。早く先生に診てもらわないと。このまま放っておくとおじさんが死んでしまうわ」

 しかし、副座長は別の医者をいま手配したから心配いらないと言って取り合わなかった。


 外に出された老人は、手荒に扱われたことを気にする様子もなく、往診用の鞄をルビーから受け取って、石畳の上に無造作に座った。

「おっつけ副座長のやつが呼んだ医者が来るんだろうが、それまで念のために待たせてもらうとするかな」


 火炎吹きのことも気になるが、馬小屋に残してきたロクサムがどうしているのかも、さっきからルビーは気になっていた。しかし、副座長が呼んだという医者が到着するまで念のために待っていてくれるという老医師を置き去りにして、戻るわけにもいかない。それに、ロクサムにはチェロ弾きがついていてくれるはずだ。

 ルビーは先生の隣に腰を下ろした。


「しかしありゃ、わしの見立てでは、なかなかやっかいだぞ。右側の肺に穴が開いて潰れとる。すぐに処置を施さんと、命にかかわる」

「先生は火炎吹きを治せるんですか?」

「治るかどうかはわからんが、少なくとも応急処置ならできる。わき腹から管を通してだな、潰れた肺に溜まった水を抜かねばならん」


 もどかしい思いで、ルビーは今しがた老人がつまみだされたドアを振り返る。

 副座長は何を考えているのだろう。目の前の老人が火炎吹きの処置をすると、何かマズいことでもあるのだろうか?


 しかしながら、カナリーが再び呼びに出てくることもなく、間もなく本当に、違う医者を乗せた馬車が正門から入ってきた。

 大きな医療道具を詰めた箱を助手たちに持たせた恰幅のいい紳士が下りてきて、案内係に連れられてドアの向こうに入って行くのを確認すると、老人は立ちあがった。

「さて、わしは用済みだな。そろそろ帰るとするか」

 老人は来たときと同じように、チェロ弾きの馬車に同乗して帰っていった。


 夕方になって、たくさんの荷を積んで港に向かっていった日雇いの馬車が次々に戻ってきた。今回運ぶ分が、きょうの最終便になるという。

 残っている荷物をあるたけ運び込み、今夜のうちに積み残しがないかどうかを最終チェックして、万一の場合は明日の朝、もう一便往復させるという手はずになっていた。


 そのときルビーは馬小屋でロクサムにつき添っていた。

 途中で一度、厩係らしい人影が、窓の外からこちらをうかがっていたような気がしたが、ルビーがドアを開けて追いかけようとすると、さっとどこかへ消えてしまった。


 次々と馬車が到着する音が外から聞こえてきて間もなく、副座長がロクサムを連れ出しに馬小屋にまでやってきた。横になったままロクサムは担架に乗せられて馬車に運ばれていった。

 苦しんでいるロクサムをいま動かすのだけは何とかやめてもらおうと、ルビーは副座長に抗議したが、忙しいのにうるさいと一蹴された。

 とめようと追いすがったら、人夫の一人に力任せに撥ね退けられて吹っ飛んだ。後ろの壁に背中から激突し、その衝撃で、しばらくの間起き上がれなかった。


 移動用に雇われた日雇いの人夫たちは、ゾウを入れた檻を運ぶのに手こずってイライラしていたから、ルビーに構っている余裕などないのだった。

 ライオンの檻は人夫が担いで普通サイズの四頭立ての馬車に乗せたが、ゾウの檻は背の低い幅広の台車に乗せて人の手でゆっくりと引っ張って、6頭の馬に特注の枠をつけた先導部分につなぐ手はずになっている。

 ぼこぼこした石畳を幅広の台車を移動させるのは、骨の折れる作業らしかった。

 公道に出てもスピードを出すことはできないため、きょうは夜半近くまでかけて港に向かうのだという。


***


 控室の一角で少し休んだあと、ルビーはお迎えの馬車に乗ってハマースタインのお屋敷に戻った。

 いつものように、すぐに奥さまの部屋にお伺いしてきょうのいきさつを報告する。そのときルビーは、決意を込めてもう一度、そのお願いを口にした。

 明日出発する船に、どうしても乗っていきたいのだと。


 ジゼルさまは書きものをしていた手を止め、椅子ごと振り返って、ルビーの話を静かに聞いていた。

 ルビーがその願いごとを口にしても、話が終わるまでは口を差し挟まずに黙っていて、それから口を開いた。


「とりあえず、おかけなさいな。話が長くなるかもしれないわ」

 ジゼルさまは優雅な仕草で、部屋の隅の長椅子に座るようにと、ルビーを促した。

「そうね、まず、いくつか確認しておきたいことがあるわ」


 頭ごなしに駄目と言われると思って身構えていたルビーを、ジゼルさまは静かに見つめ返した。

「明日にでも船に乗って行きたいということは、以前わたくしとの間で取り交わした賭けには、あなたが負けを認めるということでいいのかしら」

 問いかける瞳が、ルビーを覗き込む。


「約束の期限の150日まで、あと120日とちょっと。一度、巡業に出かけた一座は例年、短くとも3ヶ月は戻ってこないのよ。今回は船旅だから、もしかするとこれまでよりも遠くに足を延ばして、もっと長く戻ってこないかもしれないわ。

 きのうわたくしがアーティの頼みを断ったのはあくまでも、賭けは継続、期限は巡業中は日延べにするという条件下でのことでの話だったからなの。

 そして、わたくしがブリュー侯爵領にある古い城に戻る前に、あなたが一座に合流すればいいと言った話も、わたくしの都合であるわけだから、同じように終了期限を延ばすことを考えてのことだったわ。

 けれどもあなたがそれまで待てなくて、明日すぐにでも船に乗りたいというのなら、約束の日延べはしないというのがわたくしからの条件になるけれども、それでも良くて?」

 

 ごく間近から、貴婦人の濃いまつげに縁取られたくっきりとした目が、もう一度ルビーの意思を確かめるように覗き込んでくる。

「そしてね、わたくしは、あなたが帰ってくるのを待つつもりもない。明日の出発に同行したいのなら、ロビン、今夜のうちにあなたはわたくしのところにきて、最初の約束の通り、わたくしのものになること。意味は、わかるわね?」


 ルビーはたじろいだ。その様子を見ていたジゼルさまは、ふんわりと微笑んだ。

「疑問に思うことがほかにもまだあるのだけれど、いいかしら?」


 一瞬固まってしまったルビーだったが、ややあって小さく頷いた。それを待ってから、奥さまは再び、おもむろに口を開く。


「いまのあなたの話だと、巡業に同行したいのは、空中ブランコの練習をするためではないのね。そのロクサムという子の下働きの仕事を代わりにするために、船に乗りたいのでしょう。

 ロビン、あなたが空中ブランコ乗りになりたいといっていたのは、とても強い想いだと思っていたのだけれど、そうではなかったの?」

「あたしは──」

 ルビーは言葉に詰まった。詰まりながら、なんとか説明する。


「空中ブランコ、やりたいと思っています。でも……ロクサムが心配で……。ロクサムは最初の頃、あたしが人買いに売られて、知らない場所に連れていかれて、一人ぼっちで心細かったときに力を──元気をくれた人なの。それが、いまは病気で……すごく辛そうで、でもきっと、船では一人ぼっちで……心細い思いをしているわ」


 ロクサムにはほかにだれも頼る人がいないこと。ロクサムの周囲にいる座員たちは、彼の体調になどまったくお構いなしに用事を言いつけていく連中ばかりであること。

 唯一仲の良かった厩係とは何が原因かはわからないが、仲違いをしてしまったらしいこと。


 最初に空中ブランコをやりたいと言ったのはルビーで、そのための最大の譲歩をしてくださったのは奥さまだ。そのことを考えると、奥さまが気を悪くされても仕方ないことを自分は言っていると、ルビーは思う。

 それでも、空中ブランコをやりたいという願いよりも強く、いまはロクサムのことが気がかりで仕方がないのだと、言葉を途切れさせながらルビーは訴えた。


 ジゼルさまは今度も、ルビーの話を黙って最後まで聞いてくれて、それから少し優しい口調になって言った。


「ロビン、あなたがその子──ロクサムの力になりたいと思っているのは、よくわかったわ。それでも、あなたはほかの人たちのことについても、もう少し考えてみた方がよいのではなくて?

 いいえ、わたくしのことではなくてよ。わたくしは、あなたにさっきの条件を飲んでもらいますから、それで十分。わたくしは善意の支援者でいるつもりも、これからなるつもりもないの。それは覚えておいてね。

 そうではなくて、例えばきょうあなたを連れて行ってくれたという楽団の方たちについて、あなたはどう思っているのかしら。

 あなたは、歌を聞いてくれた広場の人たちと約束したのでしょう? 近いうちにもう一度、広場に行って歌を歌うって。そのことがあって、広場にいた人たちは、お医者さまに支払うだけのお金を出してくれたのでしょう?

 あなたにとっては、名前も知らない相手との約束はそんなに重いものではないかもしれないわ。でもそれは、楽団の人と、楽団の音楽を聴きにきている町の人たちとの間で交わされた約束でもあるのでしょう?

 楽団の人たちは、困っているあなたに手を差し伸べてくれたのですもの。その相手に同じだけの誠意を尽くすのが──」


 そこで貴婦人は言葉を切って、考え込むように首を傾げた。

「待ってね。ぴったりくる言葉がわからないの。ことわり、とでも言えばいいのかしら」

ことわり──"人の世のことわり"のことですか?」

 何度か耳にしたその言葉を、ルビーは少しびっくりしながら口にした。


「ええ」 

 ジゼルさまは頷いた。

「あのね、ロビン。わたくしたちは、わかっててあえてそれに背くこともできるの。人間は自由よ。どんなものでも、しがらみでも常識でも正しいとされていることでも、人はなんでも振り棄てて進むこともできる。でも、そこに何があるのかが見えずにぼんやりしたまま飛び越えようとすると、躓いて、転んでしまうわ。

 ──話を続けさせてね。

 楽団の人たちのこともあるし、ほかにも、アーティと彼の親方さんのこともあると思うのよ。アーティは、きのうわたくしのところにきたあと、留守中のあなたの練習指導の日程についての最終確認のために、親方さんを訪ねたの。そしてきょうは、親方さんがご挨拶に見えたのよ」


「え?」

 ルビーはもっと驚いて、顔を上げる。

「親方が? このお屋敷にですか?」


「ええ。ご挨拶と、見世物小屋にあなたを通わせる日程についての打ち合わせのためにお見えになったわ」

 奥さまはルビーに頷き返すと、ゆったりと微笑んだ。


「アーティも親方さんも、2人ともあなたを一人前のブランコ師にするために力を尽くしてくれようとしているのよ。でも、アーティが親方さんに話をつけてくれたことも、親方さんがスケジュールを調整して見世物小屋に通ってくれることも、あなたが明日いきなり船に乗ってしまえば、すべて無駄になってしまうわ」


 目を見開いたまま、返す言葉もなく見返すルビーに、ジゼルさまは静かな声で、話を続けた。


「それにね、ロビン、多分わかってはいるのでしょうけれども、あなたの仕事は見世物小屋の下働きではないわ。それはほかのだれかがすることであって、あなたのすることではないのよ。

 そしてあなたのお友だちのロクサムがしなければならないのは、病を押して無理に働くことではなくて、自分にはできないとちゃんと主張して、その仕事にふさわしいだれかに代わりを頼むこと。だって、ゾウやライオンの世話は、だれにでもできるものではないのでしょう?」


 ゾウやライオンの──特にライオンの世話は、多分ロクサムでなければ猛獣使いにしかできない。けれども彼は人気芸人の一人で、他の座員を見下しているような態度をとっていたから、ロクサムがうまく世話を頼むことができるとは、ルビーには思えなかった。


「もちろん、それがちゃんとできるような子なら、あなたがそこまで心配していないのでしょうけど──」


 ジゼルさまはそこで、一度言葉を切って、小さくため息をついた。


「奥さま……」


 あたしは、どうすればいいの?

 そう、喉まで出かかった言葉を、あえてルビーは飲み込んだ。

 目の前の女性は、ルビーにどうしなさい、とは言っていないのだ。

 ただ、ルビーの考えの及ばなかった周りの人たちとのことについて教えてくれて、その上で判断なさいと言っているのだ。


 船に乗って、ロクサムを助けたいと願うのは、ルビーのわがままだ。ルビーを気にかけてくれている人たちのことを思うと、理に合わない子どもの駄々のようなものだ。

 なのに、それがわかってなお、ルビーの心のどこかがまだ納得できないでいる。アートも親方もチェロ弾きも楽団のみんなも、ルビーから見たらちゃんとした大人で、一人で何でもできて、大丈夫な人たちだから。

 でもロクサムは違うのだ。

 ロクサムは、ルビーと同じなのだ。ルビーと同じ、子どもなのだ。

 まだ何ものにもなれず、寄る辺なく、自分の居場所をつくることもできず、他者と駆け引きめいた会話のひとつもできずにいる。無力なまま大きな何かに立ち向かう術も知らぬまま、押しつぶされそうになっている。


 頭の中で想いを巡らせながら、少し前のカナリーからの頼みを、ルビーは思い出していた。


──アートとはあたしがパートナーになりたいの。ロビン、あんたは降りてちょうだい。


 あのときのカナリーも、無茶なことを言っていると頭では承知していながらも、口に出さずにはいられなかったのだろうか。

 カナリーはアートがどう思っているかすらも関係なく、自分の思いだけで突っ走っていた。いまの自分に似ている、と思う。

 ロクサムの手助けをしたいというルビーの思いも、当のロクサムがそれをどう受け取るかには関係なく、一方的なものだ。多分、カナリーのそれと同じぐらいには。


「でも、きっとロクサムは、傷つくでしょうね」

 ジゼルさまはものやわらかな声で、まるでルビーの思いに寄り添うかのようにそう言った。

「あなたがロクサムを助けるために、何を引き換えにしなければならなかったのかを知ったら」

 一瞬、ルビーは自分が考えていることを独り言にして言ってしまったかと思った。


「わたくしはあなたに触れたいと思っているわ。でも、あなたはそうではないのでしょう?」

 またしてもたじろいでしまったルビーだったが、睨みつけるように奥さまを見返して、疑問を口にする。

「それって、知らせなければならないことですか?」

「どうかしらね」

 ジゼルさまは優雅に首を傾げた。

「友だちに真実を告げないという生き方もあると、わたくしは思うけれど」


 床に視線を落としながら、しばらく考えを巡らせる。そうして、ルビーはゆっくりとかぶりを振った。

 手詰まりだ、と思う。

 自分にはそんな隠し事はできない。隠し事をしたまま友だちでい続けることなど、きっとできない。

 

「ロビン」


 うつむいてしまったルビーに、ジゼルさまは優しい声になって言った。


「もうひとつだけ、あなたにいいことを教えてあげるわ。明日出発する船の設備と乗組員は、ドラティア海軍提督監修のもとに揃えられたと聞いたわ。だから、精鋭の乗組員の一人として、腕のよい船医が専属で乗船するはずよ。

 だから、ロクサムは船医に診てもらえると思うの。ドクターストップが座員の間に行き渡れば、座長さんだって無理にロクサムを働かせようとは思わないでしょう。

 もしも不安なら、明日、あなたが直接船を訪ねて、専属医に面会を申し出て、ちゃんと話をつけてらっしゃいな。

 明日は総督も見送りにいらっしゃるでしょうし、あなたが間違いなくお医者さまに引き合わせてもらえるように、わたくしからも手紙をしたためて、ことづけましょうね」

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