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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[四] 一座の巡業と貴婦人の旅立ち
50/110

50 ふたりの急病人

 次の日の朝、見世物小屋まで馬車で送ってもらったルビーは、着くやいなやロクサムの姿を探した。

 アートはきのう奥さまを訪ねてきた際に、ルビーが雑用をするためだけに巡業についていくのなら意味がないと言っていたそうだ。

 でも本当はルビーは、ほかにすることもなくひたすら雑用ばかりになっても、たとえ一日中洗濯ばかりしなくてはならなくなっても、今回ばかりは一座について行きたかった。

 なぜならきのうからロクサムが体調を崩してしまっていたからだ。


 一座が巡業から戻ってくるまでは見世物小屋での催し物はしばらく休演ということだったが、きょうはルビーは夕方まで荷物の運び込みや雑用を手伝うつもりで来ていた。というよりも、せめて今日ぐらいはできるだけロクサムを手伝うつもりで、気合いを入れてルビーは出勤したのだ。

 家庭教師は連絡してお休みにしてもらった。


 ロクサムの体調はよくなるどころか、見たところ、きのうよりもさらに悪化している様子だった。

 きょうはいつものゾウの世話も、さまざまな荷物の運搬も、ロクサムはひどくつらそうに、前かがみになってのろのろとやっていた。

 出発の前日だったから、既に港に停泊中の船まで荷馬車で往復して荷物をどんどん運び込んでいるような状況だった。誰もが準備に余念なく、バタバタと自分の用事のために走り回っていた。ロクサムの様子を顧るものはルビーの他にはだれもいない。


 土気色の顔をして、目の焦点も定まらず、それでも仕事を押しつけられ休ませてもらえない彼を、ルビーは無言で手伝った。

 きょうはロクサムは、食料の入った樽などを横からルビーが取り上げても、自分の仕事だから、とは言わなかった。話をする気力も余裕もないらしく、足を引きずって歩き、物陰で建物の柱につかまるようにして、苦しそうに顔をゆがめて休んでいた。


***


 昼過ぎ。

 昼食抜きでロクサムを手伝っていたルビーだったが、若い座員たちが、自分たちが食事をとっている間に舞台用の大道具を荷馬車まで運んでおくようにロクサムに言いに来たところで、ついに爆発してしまった。


「どうして何もかもロクサムに言いつけるのよ? 両手と両足があるんだから自分たちでやればいいじゃないの」


 ルビーの大声に、なんだなんだと人が集まってきたが、その中にはアートやレイラをはじめとする人気芸人の姿はない。

 座長の他、幹部のほとんどと裏方の人たちと芸人の半分ぐらいは既に、船の方に移ってしまっていたからだ。


 新鮮な食料や飲料水など、一座の拠点から運び出すものばかりではなく、パウロ・ロガールの代理人が市場から直接購入して積み込むものも多い。代理人との打ち合わせも含め、幹部の人たちは積み荷の全体像を把握する必要がある。

 幹部の人たちの中で現在見世物小屋に残っているのは、今回急きょ留守番に決まった副座長だけだった。


 また、小屋から荷物を運び出すことよりも、船に荷物を積み込むときにどこに何をしまうかの確認をしっかりしておかないと、あとで混乱をきたすことになる。特に舞台装置関係のものには気を遣う。

 人気芸人は特に、自分たちの使うものについてしっかりと確認をしておきたかったから、最初の馬車で朝のうちに船に移動してしまっていたのだ。

 

 ルビーは興味半分冷やかし半分で取り巻く人の輪に囲まれた。その中から出てきて最初にルビーを手伝ってくれたのは、小屋の一角に残っていた火炎吹きだった。

 たとえ居残り組とはいえ、若手が格上の人気芸人に荷物を運ばせるわけにはいかない。それを見た若者たちはあわててめいめい自分たちの荷物を荷馬車まで移動させ始めた。


 ルビーは正門の傍らにある馬小屋に走った。厩係に小屋の片隅でロクサムを休ませてもらえるように頼もうと思ったのだ。大部屋は騒然としていたから、人の出入りのない馬小屋の方がロクサムが休める気がしたのだ。

 しかし、いつもそこにいるはずの厩係がなぜかどこにもいない。

 馬は日雇いの人夫たちが使っているので全部出払っていたが、厩係は居残り組だったから、それとは関係なく厩にいていいはずだった。


 仕方がないのでルビーは勝手にロクサムを連れていって、小屋の隅っこの藁の間に寝かせた。

 横になってもロクサムはひどく苦しそうで、曲がった背中を丸めて真っ青な顔のまま低く唸っているばかりだった。


「待っててロクサム。お医者さんを呼んでもらうわ」

 ルビーの言葉にロクサムは首を振った。

「おいら、お医者を呼んでもらったことないし、無理だと……思う」

 そして、苦しそうな声で言い加えた。

「ここ……退かないと、厩係が怒るかも……」

「どうして? 厩係とは仲良しじゃないの。ロクサムは調子悪いんだし、いま馬はいないし、ここで休んでいいってきっと言ってくれるわ」

「最近……口を……きいてくれないんだ」

「厩係が?」

 もじゃもじゃの爆発頭ともじゃもじゃ髭の厩係の人のよさそうな顔を思い浮かべながら、ルビーは首を傾げた。

「うん……この間は、厩に近づくなって……怒鳴られた……おいら、なんか間違えた……みたいだ……」

 ロクサムは切れ切れにそれだけ言うと、また横を向いて苦しそうに体を丸めた。


 急に態度を変えたという厩係のことが気になったが、それよりもいまは医者だ。

 ルビーは副座長のもとに走った。医者を呼んでくれるように掛け合ったが、こぶ男に出せる予算など一座にはない、呼びたければ勝手に呼べと、副座長はにべもなかった。

 しかしルビーには、医者を呼ぼうにも先立つものがない。ハマースタインの奥さまからルビーにはお給料が支払われていたが、ルビーはすべて執事に管理を委ねていて、現金を持ち歩く習慣はなかったからだ。


 さっきまで火炎吹きと一緒になって大道具を運ぶのを手伝ってくれていたチェロ弾きが、事務所の前で途方に暮れていたルビーに声をかけた。

「ちょっといまから抜け出せるかい? ロビン。おまえさんなら即席で日銭を稼ぐことができると、わしは思うんだが」

「どういうことですか? あたし、ロクサムについていないと……」

「そんなに時間はとらせないよ。いますぐでかけて、帰りに医者のところに寄って、なるべく早く連れてこよう。どうかね?」

 ルビーがどこかに一緒に出かけたら、チェロ弾きは医者を連れてきてくれるという。

 ルビーは無言でうなずいた。


 楽団の人たちは今回巡業にはついていかない。なんでも巡業手当の折り合いがつかなかったとか。また、金銭的な理由だけではないとも聞いた。巡業が海路になったことで、自分たちの荷馬車でマイペースに荷物を運ぶことができなくなったというのも、彼らが不参加となった原因のひとつらしかった。

 きょうはチェロ弾きは、置き忘れていた荷物を取りに、たまたま小屋に足を運んできただけだった。


 彼の乗ってきた馬車にルビーは一緒に乗り込み、見世物小屋から町の中心部に向けて出発した。

 連れてこられたのは広場の真ん中だった。広場は四方を4階建てほどもある石造りの建物に囲まれている。石畳の小さな壇上があって、その周りに既に人だかりができていた。

 人だかりの真ん中から陽気な音楽が鳴り響いてくる。


「きょうは飛び入りを連れてきたぞ」

 チェロ弾きは壇上の人々の演奏が一区切りつくのを待って、声をかけた。

「ロビン、あの歌を歌うといい。こぶ男に教わったってやつだ」

 そして演奏者らには、古い流行歌であるその曲名を告げる。それからチェロ弾きは、こう言い添えた。

「キーは原曲のままでいい。ややアップテンポで頼む」


 最初にお屋敷に持ち帰って披露した日から、奥さまが他の曲そっちのけで何度でも聞きたがった歌の名前だった。

 ルビーが最初に奥さまに歌った古い人魚の歌にもどこか少し似た、物悲しい旋律。ヴァイオリンとフルートと風琴の音色を伴奏にして、ルビーは歌った。

 ルビーが歌を歌うときは、左足首のアンクレットが呼応するように振動し、魔力を放ち始める。ルビーの声量が上がりすぎないように、人々の耳に心地よい音量で抑えられるように作用しているのだと、いまではわかっている。


 曲が終わると次の歌にはチェロ弾きの指示は入らないまま、勝手に前奏が始まった。今度は誰もが知っているとされる今の流行歌で、前に楽団の人たちに教えてもらったものだ。それに続いてさらに3曲。みんなから教えてもらった歌はとにかく何が何でも死に物狂いで覚えてきたルビーだったから、聞き覚えのある曲なら唇からこぼれるように自由に紡ぎだせる。


 5曲めが終わり、演奏が鳴り止んだあとのつかの間の静けさのあと、一呼吸おいて──。不意に、周囲からにぎやかな何かの音が押し寄せてきた。

 一瞬、何が起こったのかルビーには分からなかった。

 壇上を囲む人々がこちらを見て、拍手と声援を送ってくれている。

 ぐるりと広場を囲んで立つ石造りの建物の窓がいつの間にかあちらこちらで開いて、バルコニーや小窓からも、拍手や声援が届けられ、頭上からは白い小さな花がひらひらと降ってきた。

 たくさんの顔がこちらを向いていたが、どの顔も上気していて、柔らかなまなざしでルビーを見ている。小さな女の子がにこにこ顔で、手を振っている。


 ナマズ髭のチェロ弾きは、満足げな顔でルビーに言った。

「一度あんたをここに連れてきたかったんだ」

 それから声を張り上げ、広場に集まっている聴衆に呼び掛ける。

「みんな、聞いてくれ。この子の友だちがいま、病気で苦しんでいる。いまから医者を呼びにいきたいから、きょうは飛び入り参加のあとすぐで悪いがここで抜けていく。曲数は少ないが、この子の歌をまた聞きたいと思った人は、少しチップを割り増しにしてくれないか? 近いうちに必ずまた、連れてくる。今度はもっと長く、みんなのリクエストにも応えていろんな曲を歌ってもらうから」

 そしてルビーを振り返って確認を取る。

「な、また来て歌ってくれるよな」

 ルビーがうなずくと、さっきよりもさらに大きな拍手と歓声が彼女を包んだ。


 チェロ弾きの用意したシルクハットの中に何枚か小銭を入れてくれた女の人が、ルビーに言った。

「ねえ、あんた。その病気の友だちにも、あんたの歌を歌って聴かせてあげなさいよ。どこか痛いのなら気がまぎれるし、きっと癒されて楽になるから」



 帰りの馬車の中で、チェロ弾きの貸してくれた布袋いっぱいに詰められた小銭を握りしめて、ルビーは不安そうに言った。

「お医者さまには、これだけで足りるかしら?」

 一見重くてたくさんあるように見えても、コインにはそんなに高い価値がないことを、いまのルビーは知っている。

 奥さまのお屋敷でジョヴァンニを診察する医師が呼ばれたとき支払われていたのは、財務大臣直筆サイン入りの紙幣という紙切れで、カナリーがナイフの的になってけがをしたとき渡されていたものは、ぴかぴかした金貨の袋だった。


「なに、医者にもいろいろあってな」

 御者席のすぐ後ろに陣取っていたチェロ弾きは後部席を振り返って、のんびりとした声でそう答えた。

「庶民の味方っていうお人を知っているから、任せとくれよ。金持ちからはふんだくるが貧乏人には多少の不足は目をつぶってくれるんだ。これから寄って、馬車に乗せてこぶ男のところに連れて行こう」


 が、ややあってチェロ弾きは、ふと思いついたように言い加えた。

「そういや、あんたのその左腕の銀細工のバングル。それを見たら、そっちをよこせと言われるかもしれんな」

「これは鍵がないと外せないわ。鍵は奥さまが持っているの」


 アートの親方との顔合わせ。新しい後援者への挨拶と夕食会への同伴。ここにきてルビーには見世物小屋から外出する機会が増えている。貴婦人に言われてルビーはこの間から、奴隷認識番号を彫ったバングルを身につけている。


「時間がないし、説明も面倒だ。ハンカチを貸してやるから、手首に巻いとけ」

 チェロ弾きから渡されたカラフルなポケットチーフを、ルビーは揺れる馬車の中で手首に結んだ。


***


 医者は相当な齢の老人だった。

 乾いてしわくちゃの薄い手。深くしわの刻まれた岩のような顔。頭部には髪の毛はほとんどなく、代わりのように真っ白な顎鬚が長く伸びている。生きたドライフラワーみたいだとルビーは思った。動くだけでカサカサと音がしそうだ。

 そのくせひょこひょこと、やたら機敏に動く。

 厩に寝かされたロクサムのところに連れて行かれると、額に手を当てて熱の有無を確かめ、瞼をひっくり返して瞳孔の状態を確認し、呼吸と脈を測り、腹と背中の触診をする。

 それだけのことをほぼ一瞬で済ませ、かがみこんで彼に聞いた。

「痛むのは背中か」

 ロクサムは目を閉じたまま、無言で頷いた。

「背中の他にも痛む場所はあるか」

 もう一度、ロクサムは頷く。

「どこが痛む」

 その質問にロクサムは目を開け、よわよわしい声で答えた。

「全体が……」


 少し詳しい触診をするからと言われ、チェロ弾きとルビーは厩の外に出された。

 ドアの傍で待っていると、中から声をかけられて、コップに水を汲んでくるよう頼まれた。

 水を持ってルビーが戻ってきたら、医者は厩の中からルビーとチェロ弾きを引っ張り込んだ。

 チェロ弾きに何かの薬を渡して飲ませるように指示をくだす。

 慌てて自分が行くと言いかけたルビーを制して、チェロ弾きはコップをルビーから取り上げた。

「いいよ。任せとけ」

 そこで、医者はルビーに向き直る。

「あんたの友だちのことだが、はっきり言うとだな、効果的な治療法というのは無いと言っていい」

 厩の戸を後ろ手に閉めながら、医者は小声でルビーにそう説明した。

「背骨がひどく歪んでいるんだが、まだ成長期だから、歪んだまま伸びようとしているんだ。それであちこちに負担がかかって痛み始める。しばらく痛みは治まらないと思った方がいい」

「しばらくって、どれぐらいの間ですか?」

「わからん」

 皺だらけの顔がしかめっ面になった。

「わしが見たところ、背中に痛みがあったのは今回が初めてじゃないと思うんだが。もっと小さいころに見せてもらっていれば、もう少し手の打ちようもあったんだがな……。それと、歪んだ背骨が内臓を圧迫しているから、こっちにも痛みが出ているようだな。本人が苦しがっているようなら安静にすることだ。無理をさせては駄目だぞ」


「先生、お願いです!」

 思わずルビーは老人に詰め寄った。

「見世物小屋の副座長のところに行って──いま、事務室の方にいるはずだから──副座長にその話をして、ロクサムを無理に動かさないように言ってもらえませんか?」

 ルビーがとっさに考えたのは、いくら副座長にそう言って説明しても、ルビーから言うだけだと聞いてもらえないかもしれないということだった。

「明日から巡業なんです。このままだとロクサムは巡業に連れていかれてしまうわ。ゾウとライオンの世話をする係がほかにいないって言われて。お願いです。先生からの口添えをください」


「そりゃ、どうだろう」

 医者は首を振った。

「わしは構わんが、あいつらに部外者が何か言って効果があるかな? きょうここにいるのが座長だったらまだしも、副座長は特に一筋縄ではいかないぞ」


「先生は幹部の人たちをご存じなんですか?」

 ルビーの質問に、医者は頷いた。

「ああ、以前2度ほど、ここには呼ばれてきたことがある」


 ロクサムに薬を飲ませ終えたチェロ弾きが戻ってきて、横から言い添える。

「十分な診察代を支払えない若手の座員らが、時々お世話になってるんだよ。街中の便利なところに診療所を構えておられるから、自分で通える病状だったら大抵は来てもらうんじゃなくて、こっちから足を運ぶんだけどね」

「誤解がないように言っておくが、慈善事業じゃないからな。最初から甘えて診療費を用意する気のないやつは、わしは診ないことにしておるんだ」

「わかってるさ、先生。きょうの報酬は不足だったかね」

「あれだけありゃ、まあ、痛み止め1週間分ぐらいだったら出せる。実際痛み止めを出すぐらいしか対処のしようもないしな。しかし、小銭ばかりだと重いし数えるのが面倒だ。今度からせめてエキュー単位に銀行で両替してから持ってきてくれ」

「ああ、今度は気をつけるよ」

 ルビーが返事をする間もなく、チェロ弾きは勝手にそう請け負った。

「きょうは助かったよ、先生。休診日なのに急に連れ出して悪かったな」

 医者は軽快に頷いた。

「ほいよ。じゃ、行くか。副座長のところへ……」


 その時だった。


 バンッ!と大きな音がして、さっき医者が閉めた厩のドアが、外側から開かれた。

 ドアの向こうで、少女が一人、息を切らせて立ちすくんでいた。お人形みたいに整った白い顔の、きららかな金色の髪と明るい碧の瞳の少女。

 カナリーだった。


「先生がちょうどこちらに来てるって聞いたの。お願い、先生。おじさんが倒れたの。すぐに一緒に来て! おじさんを診て!」

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