表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[四] 一座の巡業と貴婦人の旅立ち
49/110

49 魔術と魔法

 アートのいう"貴婦人への交渉"がどれだけ熱意を伴ったものになるのかは甚だ疑問だったものの、ルビーはいままでにまして一層真剣に稽古に励んだ。

 その結果、出発前のわずか数日の間にルビーはなんとか綱渡りがこなせるようになった。最初はまぐれかと思ったが、さらに何度か渡っているうちにバランスをとるコツがわかってきて、途中で落ちることの方が少なくなった。

 約束どおり、アートは貴婦人に交渉に出向いたらしかった。

 出発前々日の休演日、見世物小屋から帰ってきたルビーに、午前中にアートが訪ねてきていたことをジゼルさまは教えてくれた。


「やはりロビンを巡業に連れていきたく、もう一度お願いに上がりました」

 そう申し出るアートに対しジゼルさまは、こう答えたのだという。

「あなたが代わりにここに残ってくれるなら」

 アートが残った場合、ルビーは他の座員の雑用をするためだけに巡業に参加することになってしまう。それではルビーを参加させる意味がない。


「何か別の条件でお願いできませんか」

 アートは食い下がったが、ジゼルさまも「あなたが代わりに残るのでなければ無理」以外の答えを出しようもなく、結局アートは引き下がるほかなかった。


 自分が残れないもう一つの理由としてアートは、実の兄が一座のスポンサーとして名乗り出たことも、告げていった。

「ここでぼくが巡業に不参加だと、各方面に差し障りがでますので」

 曖昧な言い方をする彼に、ジゼルさまは補足した。

「座長さんの体面と、お兄さまの体面の問題ね」

 すると彼は、返事はせずに笑っていたということだ。


「今度お兄さまを紹介して」

 ジゼルさまがそう話を振ると、やはり笑いながらではあったが、アートはきっぱりと拒絶した。

「もう中央に帰りました。それに仮に南部にいたとしても、あなたは兄を誘惑するから駄目です」



 午後のお茶がてら、そのときのことを話しながら、ジゼルさまはルビーに感想を漏らす。

「驚いたわ、アーティったら。いつものように、もっと曖昧に返事を濁すかと思ってたら、すごい警戒っぷりですもの。第一そんなつもりはなかったのよ。わたくしにはきょうだいがいないから、どんなものか知りたいと思っただけなのに」

 

 パウロ・ロガール氏に面識のあるルビーからしてみたら、アートが警戒するのも無理からぬことのように思われた。彼は容姿も、物腰も、言葉づかいも、一見したところ人柄も、そのすべてが申し分なく端正な人物であったからだ。

 そして、この女性がルビーと最初に対峙した日に言い放った「美しいものはみんな好き」という言葉には常に、「美しいものを手に入れるための努力は惜しまない」という意味での実践がついて回ってきていたからだ。


 ルビーのまなざしに気づいたのか、目の前の女性はにっこりした。

「言いたいことがあるなら、遠慮なくおっしゃいな」

「ジゼルさま、アートのお兄さんは既婚者だそうです」

 ルビーの答えに、ジゼルさまは鈴を転がすような声で笑う。

「まあロビン、あなたも疑っているのね。わたくしが彼を誘惑するって」


 誘惑という表現は、むしろかわいらしすぎるとルビーは思う。少なくともカルロ首相が残していった護衛官に関しては。

 ルビーが見たところ、ジゼルさまは彼を、もっと悪辣な罠にかけたように思える。

 彼女は彼に、かの不審人物から身を守るための、"術師"としての手ほどきをしてくれるように頼んだのだった。

 最初彼は、自分は武人であって術師ではないと言って辞退していたが、ジゼルさまはそこをうまく言いくるめてしまった。


 カルロ首相が単に武術に長けているだけの人間を──たとえどんなに腕が立つにしても──ハマースタイン邸に残していくわけがない。単に腕の立つだけの護衛なら、もともと屋敷に何人か常駐している。

 アントワーヌ・エルミラーレン殿下は武力で屋敷を襲撃したわけではなく、禍々しいほどの魔力を保持し、今後また、どんな思いもよらぬ魔術をつかってアプローチしてくるのか見当もつかないからだ。

 眼光鋭く身のこなしにも隙のない見るからに選り抜きの武人である護衛官は、ジゼルさまの推察にたがわず、エキスパートとまでは言えないまでも、いくつかの魔術もマスターしているらしかった。


 ジゼルさまが彼を説得している言葉を、少しだけルビーは耳にした。

「いつまでもこの状態のまま、あなたの本来の職責であるカルナーナ首相の警護に戻ることができないままでは、お困りではありませんか? それに、また何か起これば、あなた一人ではなくさらに警護を増やす方向に状況が向かう可能性すらあります。わたくしはセルヴィーニさまのご厚意に甘えるのではなく、自衛する道を少しずつでも模索するべきだと思いませんか?」

 それに対する護衛官の返答は、「ハマースタインさまもまた、カルナーナにとって大事なお立場の方です」というものではあった。それでも、奥さま自身が爵位の引き継ぎを保留にしているという中途半端な立場であることもあり、彼の返答には今一つ勢いが欠けていたように思う。

 彼女は彼の痛いところを突いたのだ。


 人間ひとの使う"魔術"は、もともとルビーの知る"魔法"とは似て非なるものらしい。

 奥さまは潜在的に強い魔力を持っているため、何かの目的で王族の末裔に狙われているのではないかということだったが、いわゆる魔術の使い手ではないらしかった。

 人間が人間の姿のままで安全にその魔力を使うためには、魔術と呼ばれる一定の法則にのっとった作法をマスターしなければならないらしい。

 作法は幾通りかあるらしい。作法の違いには、魔具を媒体として使うものと使わないもの、詠唱を介するものと無言のもの、シンボルやイメージを通して行うものと形を重視しないものなど相反する要素も多く、それぞれが独立した理論体系を持っているらしい。

 ルビーの左足のアンクレットは、どうやらその魔具の一種であるらしかった。以前確認したジゼルさまは、アンクレットの持つ未知の力について不思議がりながらも、そう結論づけていた。


 カルロ首相の遣わした護衛官がどの理論体系に基づいた魔術を会得しているのかはわからないが、ともかく彼はジゼルさまに説き伏せられ、手ほどきをすることになったらしかった。


 そして、その手ほどき中に、アクシデントは起こった。

 詳しいいきさつについては、ルビーは知らない。その翌日の執事さんをはじめとする周囲の人間の言葉から、奥さまの潜在的な魔力が強すぎて、うっかり護衛官に術をかけてしまったらしいことがわかっただけだ。ただ、うっかりなのか故意なのか、怖くてルビーは奥さまには直接聞いていない。

 そして、その夜ルビーはいつものように奥さまの隣の部屋にいたのだけれど、具体的に何がどうしてそうなったのかもわからない。はっきりとしたやり取りは聞こえてこず、ただ、気配のようなものがわかっただけだ。

 アートが明け方壁の中に消えたあの日と違って、隣の奥さまの寝室との間の扉は、堅く閉ざされたままだったからだ。


 その日を境に護衛官は、奥さまに一定の距離を超えては近づかないことにしたらしかった。魔術の手ほどきについても、自分には荷が重過ぎることが判明しましたので、といって早々に断ってきたらしい。

 護衛しなければならない相手を警戒もしなければならないという複雑な状況に立たされた彼に、ルビーは少々同情している。


 家庭教師が以前ルビーに教えてくれた話によると、貴族の血統というのは、それが高貴な生まれのものになればなるだけ、その血筋をつなぐのがなかなかに難しいものだということだった。つまり、子が生まれにくい血筋のものが多いのだとか。

 しかも純血の者ほど子を残しにくいという。

 必然的に貴族には正妻のほかに妾を持つものが多くなるが、身分の低い女性から生まれた庶子は、その血統の証である魔力が顕現するケースがきわめて稀になるという。

 一方貴族の女性にもやはり、子ができにくいという特徴があるのだという。それもあって貴族の女性にはときおり、放縦で奔放なタイプというのが現れる。彼女らは力を持つ立場にあり、庶民の女性に比べて周囲からそれを咎め立てされにくいということだった。

 むろん、既婚の女性には貞淑さが求められる。子どもが夫の子かどうかはっきりしなければ揉めるからだ。しかし、揉めたあげく離婚して生家に帰れば歓迎されるケースが多い。その子が女の子で生家の跡取り息子が庶子である場合は、跡取り息子の婚約者にしたりもする。


 カルナーナの貴族もまた例外ではない。

 わけてもブリュー侯爵家には歴代、1代につき1人~2人の嫡子しか生まれていない。1人が成人できればよい方であったという。ときには庶子を後継ぎに据えながら、なんとか廃嫡にならずにいまで続いてきた家だということだった。

 ジゼルさまにはきょうだいはいない。ジゼルさまの父君は結婚と離婚を繰り返し、そこそこ血統のよい若い妻を次々と迎えたが、ジゼルさま以外の子を得ることはできなかったのだという。

 万一ジゼルさまの代で血統が途絶えたら、慣例として、いとこの子を養子にして爵位を継がせるという方法があるということだった。


 一般教養を学ぶという目的でルビーにつけられた家庭教師は、厳格な雰囲気のやせぎすの初老の女性だった。彼女はやたら博識で、カルナーナを中心とする社会のあらゆる情報をあらゆる角度から、淀みなくタブーすらなくルビーに教え伝えるというスタイルを貫いている。

 そのときの彼女は貴族とブリュー侯爵家の簡単な歴史について触れたあと、きっぱりとした口調でルビーに釘をさしたのだった。


「一つご忠告申し上げます。ハマースタインの奥方さまはお美しく気品に満ちておられ、お嬢様の目には一見理想の女性のように見えるかもしれませんが、お嬢さまは間違ってもお手本にはなさいませぬよう。ごく一部の身分の高い女性を除けば、品行方正であることが、殿方との良縁の最低条件ですから」


 殿方との良縁にはルビーは一切興味なかったので、その部分については無言で聞き流した。


 家庭教師から仕入れた知識の中には、アートの親方に最初に引き合わされた日、連れて行かれた巨大な遺跡に関するものもある。

 あれは古い王城のあとだということだった。ブリュー侯爵家がカルナーナに統一される前、アズラールという名の小王国として栄えていた時代のものだ。そのころは、リナールとの国境沿いばかりでなく、このあたり一帯がアズラール王国の領土だったのだという。

 統一また統一を繰り返し、国は大きく膨れていく。


「ねえ、ロビン」

 奥さまの声に、ルビーは物思いから引き戻された。

 さっきまで、どちらかというと楽しげな様子でアートの話をしていたジゼルさまは、不意に声をひそめて、ささやくように言った。

「わたくし不安なのよ。きゅうに海路での出発が決まるなんて。あなたを取り戻そうとして、海の民が呼んでいるのではなくて? もしもあなたを乗せて出発したら、船が出た途端に、嵐で船が転覆してしまうのではないのかしら」


 そんなことを考えつきもしなかったルビーは、驚いてジゼルさまを見た。

 確かに人魚の長老は、大波を起こして軍艦だろうが豪華客船だろうが転覆させることはできる。できるが、そんなことをする意味がわからない。

 第一陸に上がったルビーの行方をどうやって長老が知るというのだ。どうやって、これからルビーが乗る船を特定するというのだ。


 そこまで考えてルビーは、恐らく人魚の長老であろうと思われる存在が、目の前のこの貴族の女性を介してルビーにコンタクトをとってきたことを思い出す。

 カルナーナの首相は、"移心交換の術"について、血筋を辿ることにより強力な力を発揮するものであると説明をしていた。ルビーは人魚の長老をお姉さまと呼んでいたが、母親を持たない人魚たちのあいだに直接の血のつながりがあるわけではない。


 では、もしかしたら、この人は……。


 ルビーは底知れぬ暗い淵のような、人魚の長老の目を思い浮かべた。

 陶器のような青ざめた白い肌。くすんだアッシュブラウンの髪。どこか深いところから響いてくるような、楽器の音色にも似た不思議な声。

 一族の長であり、300歳を超えて生きていているといわれ、皆の尊敬を集める存在でありながらも表現もしようもなく恐ろしくて近寄りがたい稀有な人魚ひと

 もしも人魚の長老が人間ひとの使う"魔術"をあやつるというのなら、あの人魚ひとは遠い昔あの海を離れ、陸の上の人の世界にいたことがあるのだろうか。

 目の前の女性は、ひょっとしたらどこかであの人魚ひとと直接の血のつながりを持つ存在なのだろうか。


 もしも長老が、大陸中に散らばる300余年の血脈を辿って自らの力が及ぶ相手を探したのだとしたら。その中で、見世物小屋にいる人魚の少女のことを知る者を、わけても実際に近づくことのできる相手を選別し、相手の中におのれを移し替えてきたのだとしたら。

 いまもこの人のまなざしを通して、ルビーの様子が、海の底の人魚の長にまで届いている可能性は、ないだろうか。

 

「ジゼルさま」

 ルビーは手にしていたカップとソーサーをテーブルに戻して、貴婦人のハシバミ色のくっきりとした目を覗き込んだ。その奥に潜んでいるかもしれないあの深淵を思い描きながら。

「あたしはまだ陸の上にいて、見世物小屋にいて、空中ブランコを習いたいんです。それに、ほかにも知りたいことがあるんです。いつかは海に還っていけたらいいと思っています。でも、いまはここにいたいの」


 しかしあの夜のような、深いまなざしと独特の韻律を帯びた不可思議な声に、再び対峙するようなことは、起こり得なかった。

 目の前の女性はただ、そっとため息をついただけだった。


「仕方がないわね」

 ルビーと向かい合わせに座るジゼルさまは小さく息を吐いたあと、ふわりと微笑んだ。

「実はね、ロビン。ひと月後に、わたくしはブリューの領地に戻らなければならなくなりました。でもわたくしは、あの土地にはあなたを連れていきたくないの。あの土地には、いろいろなすさまじいものが淀んでいて、人ならぬ身のあなたに悪い影響があるといけないと思っているのよ。でも、執事と主な護衛は連れていくので、このお屋敷にあなたを残しておくのも心配です。

 わたくしが出発をする前に、あなたが無事に一座に合流できるように、送り届けましょうね。一座は同じ場所に10日ぐらいは留まるそうですから、あまり離れないうちなら追いつけます。

 でも、もう少しだけわたくしと居てちょうだいね。わたくしはあなたが覚えてきてくれたばかりの歌を、もう少しだけ聞いていたいの」


 貴婦人が繰り返し聴きたがっている歌は、ロクサムが昔舞姫と呼ばれていた人から教わった歌だった。

 それは物悲しげな旋律の悲恋の歌で、古い流行歌だということだった。

 ルビーがその歌を習い覚えて以来、奥さまは何度もその歌を歌ってもらいたがる。時にはルビーは新しく覚えた他の歌をそっちのけにして、繰り返し歌うことを要求された。

 あの約束の日からおよそひと月が流れようとしていたが、ルビーはすでに700曲近い曲を習い覚えた。毎日7曲から10曲ほどを、お茶の時間や夕食のあとに、奥さまに聴いていただいていたが、ロクサムから教わった歌を奥さまに披露してからこっち、覚えているのにまだ一度も聞いてもらっていない歌が、次第に溜まってきている。

 声楽の先生がタイトルと歌詞とともに略記号を使ってメロディを簡単にファイリングしてくれているので、それを見ながら、忘れないように時々復習をするようにしているが、それらは今後いつ聴いてもらえるのかもわからない状況だった。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ