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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[三] 見世物小屋と首相の使い
46/110

46 護符と祈り

「○○さまは、人の絶望を食らえば、その病が癒えるのであろう」

 夢の中で、その声はさざ波のように遠くから響いてくる。

「このまま邪魔が入らねば、今度こそ極上のにえができあがるところだったというのに忌々しい」

 続いてもう一つのさざ波がそれに答えた。

「なに、心配ない。他国の外交官など、ひと月もせぬうちに国に帰ってしまうわ。それまで少々期限が延ばされた思えば済むことだ。○○さまも、それぐらいなら待ってくださるだろうよ」


 声は遠いようで近い、近いようで遠い。一体どこから響いてくるのかよくわからない。そして、時々よく聞き取れない部分があるのはなぜだろう。

「しかし、この女、なかなかしぶとそうではないか。うまくにえとして仕上がらないということはないだろうな? いっそもう一人を続けて仕上げていた方がことは簡単だったのではないか?」

「それも心配はいらぬ。まだ3日目。序の口よ」

 片方のさざ波がやや苛立った響きだったとすれば、もう一方はゆったりと、余裕に満ちた響きだった。

「それに、あっちの女では○○さまのにえとして不足だ。あの女からは、自らの醜悪さに対する自覚などとうに消え去っておるわ。友を踏みにじり己のみ安寧をむさぼることへの罪悪感さえ、もはや擦り切れて残っておらぬ」


 一体だれの話をしているのだろう。こっちの女とあっちの女? 贄として仕上げる? 何の話だ?

「なんと無様なことよのう。人など、そのようなつまらぬものだという証のようでもあるな」

 その声はなぜか、ひどく嬉しそうな響きを含んでいた。くつくつと、耳障りな含み笑いを響かせながら、悦に入ったような楽しげな声は続く。

「だが、その憎しみは甘美だろう。恨みも甘美だろう。友への憎しみに浸食されて自分を憐れみ嘆く惨めな心は、えもいわれぬ甘さに違いない。いっそわたしが食したいぐらいだ」

「まあ、待て。あれはあれで利用価値はある」

「ああ、わかっておる。あんな惨めな生き物でも、一時的に×××の飢えをしのぐ餌ぐらいにはなるだろう。死んだ舞踏団の仲間の男がそうだったようにな」

「こっちの仕上がりに時間がかかるようなら、あの女を投入すればよい」

「しかし、打って変わってこの女のしぶとさはどうだ。こいつはまったくあきらめてはおらんようだぞ」

「よい。この女には友を救うという崇高な目的があるのだ。にえの熟成にその崇高さは不可欠よ。しかし、やがてそれは必ず腐敗し、腐臭を放ち始めるだろう。腐肉に包まれたその魂こそが、我らが○○さまの極上の糧となるのよ。見ておるがよい。崩壊はゆるやかに始まって、やがて魂を浸食していくのよ。いずれこいつは必ず自分の中の欺瞞や醜悪さに気づくだろう。救いたい友から憎まれ拒絶されて、自分が聖女などではなく、ただの哀れな物乞いだったことに気づくのだ。待っておれ。このものが己を醜い怪物だと悟る日は近い。その絶望の味はこの上なく甘美なものとなる。奈落の底はほんの目の前よ」


 友を救う。無力な自分に一体そんなことが可能なのだろうか。目の前で拷問死した男に対し、何一つなす術もなかった自分が。

 さっきまでぼんやりとしていた意識が急速に覚醒し、レイラは目を開けた。

 先刻まで閉じ込められていたはずの地下室ではなかった。そこは明るい日の光の差し込む豪奢なつくりの部屋で、彼女は客用のベッドに横たえられ、清潔なシーツにくるまれていた。

 目の前にいたのはエルダーの父親のアドレイア伯と、伯爵家お抱えの医者だった。小太りのこの医者をレイラは知っている。クローディアの屋敷に何度か足を運んできていたからだ。いつも体調を崩していた彼女を看るために。


「気がつかれたかな、舞姫フランチェスカ。息子の理不尽なふるまいを、どうか許してほしい」

 伯爵が話しかけてきたその声は、低く落ち着いたものだったから、レイラはさっきまで聞いていた意味のわからない会話を、夢だと思ってしまったのだった。

 医師は黙ってただ、伯爵のうしろに控えていた。


***


 アドリアルのアドレイア伯爵邸の地下深くから引っ張り出され、リナールの宮廷に呼び戻されて何日かぶりに舞いを舞った、その最初の夜。レイラはわけもわからず着飾らされて、ジグムンド・デュメニアの滞在する迎賓館とやらまで引き据えられて行った。

 そこで彼女を待ち受けているというカルナーナの要人は、どんな脂ぎったおっさんかと思っていたら、好青年ともいえるまだ若い男だった。ある意味貴族的な面立ちだったが、アドレイア伯やさっきの似顔絵の男のような陰険さはない。がっちりとした体格をしていて、雄々しさと闊達さが表情に出ている骨っぽい印象の男だった。当時はまだ30代になるかならないかだったと思う。


「ここに来てもらった理由を言おう。きみに手渡したいものがあったからだ」

 有無を言わさず連行されてきて二人きりにされ、警戒心を剥き出しにして睨みつけるレイラを前に、自分の名前だけを簡単に名乗ったあと、男は端的にそう告げた。

「リナールの接待係が変に誤解をして気を回しておぜん立てしてくれたようだが、他意はないから安心してほしい。だが、こちらとしては、邪魔の入らない場所でゆっくり話ができるのは好都合でもあるな」


「手ずから渡したいものって何ですか? 人を介して渡してくだされば、このように無駄にあなたのお時間を取らせることもなかったでしょうに」

 切り口上で、レイラはそう言い返した。舞いを舞う以外のことは、自分の仕事ではないという思いもあった。

 おそらく背中の毛を逆立てて、敵意をむき出しにした態度であったろうレイラに、穏やかな態度で男は言葉を返してきた。

「直接手渡すのでなければ意味がないものだよ。わたしはただ、きみによいものを見せてもらった礼がしたくなったのだ」

 同僚にはキツいと言われるレイラの強い視線を、男は余裕を持って、しかし真顔で受け止めた。

「さっきの舞いは、極上の舞いだった。そして、闘う者の舞いだ。凄惨な美しさに満ちた気迫のこもった素晴らしいものだった」

 なおも不審げに黙って見返すレイラの前に、男は尋ねた。

「舞姫。よくないしがらみがきみにまとわりついていることに、きみは気づいているのか」

 突然の問いかけに、レイラは動揺した。

「どういう……意味ですか?」

「言ったとおりの意味だが。暗い影が、きみの後ろでうごめいている。いつかきみを食らいつくそうと、待ちかまえているようだ」

「それは何かの予言ですか?」

 揺らぐ心を無理に押さえつけ、平静を装って、レイラは聞き返した。

「それとも、何かそういった言葉遊びの一種ですか?」

「言葉遊びではない。警告だ」

 ひたとこちらを見据えてくる男の、野生動物のような赤みがかったオレンジの瞳を、レイラは黙って見返した。

「では、気づいてはいるのだな。気づいているが、どうにもならないと?」

 レイラは相手を睨みつけたまま、短くいらえる。

「どうにもならないとは思っていません」

 ただ、今の状態から抜け出すための方法が見つからないだけで、と、続くはずの言葉をレイラは唇には乗せず、飲み込んだ。

 クローディアを人質に取られているのだ。伯爵家の意に逆らえば、あるいはことのいきさつをうかつに外部に漏らせば、彼女を傷つける。王都で姿をくらませば、彼女を殺す。そう強く言い含められている。


「もしも、わたしが助力を申し出たら、きみは受けてくれるかな」

 そのとき男はそう切り出しながら、鋭利な印象の目を微かに細め、油断のない目つきでゆっくりと周囲を見回した。

 静かな広い部屋の南面は大きく張り出したテラスになっていて、その向こうには凪いだ海が見えていた。丸い大きな月が出ていた。

 部屋にはだれもいなかった。リナールの接待係ばかりでなく、男が国から連れてきている侍従頭も、さっき下がらせてしまっていた。

 夜半の静けさの中、低い声で、彼は告げた。

「この部屋にはきみとわたし以外、だれもいない。だが、それだけではない。さっきこの周囲に結界を張ったから、ここでの会話はだれにも聞かれない。いま、外のテラスの陰に潜んでこちらの気配を窺っているであろうリナールの間諜にも」


「術師を……同行させているんですか?」

 庶民には縁のない、知識としてだけ知っていたその言葉を、驚きとともにレイラは口にした。

 男は答える代わりに片手を上げた。開いたその手のひらに、光る何かが載っていた。

「この護符をきみに。どうか受け取ってほしい」


 手渡されたのは五芒星ペンタグラムを刻んだ金色の紙きれのようなもの。

 驚いたことに、手渡された途端レイラの手の中でそれは溶け、金色の模様となってレイラの手のひらに移った。

 手のひらに熱い風のようなものを感じたと思ったら、きらきらとした五角形の光の模様は今度は、レイラの手のひらに溶けて見えなくなった。じんわりとした熱さが手の内側に潜っていくのを感じ、護符が姿を消しても本当に消えてしまったわけでないことを、レイラは悟った。


「護符はある意味気休めにすぎない。すべての運命からきみを守ることはできないだろう。だが、きみの強い願い、わけても祈りのように純化された願いには、これは応えてくれるはずだ」


***



 思い起こせば、ジグムント・デュメニアは腕のよい術師でもあった。術師として生計を立てているわけではないから未だカルナーナにおいては周知ではないが、あの日授けられた護符は、ただの護符ではなかった。

 後日、レイラが再び伯爵邸の地下に連れていかれたとき、再び金色の五芒星はレイラの手のひらから浮き上がって紙きれの形に戻り、あの得体の知れない怪物を焼いた。めらめらと青い炎を上げて、護符は怪物に襲いかかった。闇の中、キラキラと浮かび上がる光の乱舞が、目を閉じればレイラのまぶたの裏に鮮やかによみがえってくる。

 幽閉された人間は、らちもない白昼夢を現実と取り違えることもあるというから、これまで人には話したことなどなかった。自分が正気でいることが、いまの現実を生きていくために必要なことだと思っていたからだ。

 けれどもあれは、夢ではなかった。


 だれが人を呪い恨みながら息絶えることを望むだろう。

 だれが死してなお、呪縛され、呪詛の言葉を吐きながら暗闇を徘徊することを望むだろう。

 忌わしい死の記憶を幾度も反芻し、無残に死にゆくその姿を捕え映し出す化け物のグロテスクな幻影から、その亡骸を解き放ち、眠らせることができたら。

 レイラの祈りを乗せて、金色の光は闇に舞い上がった。


──護符は、きみの魂を守るためのものだ。だから、きみの強い願いに呼応する。

──だが、用心してほしい。彼らは肉体を痛めつけることで、その中身を器から引き剝がし、思い通りにしようとするだろう。

──高貴な魂というものが何かを、わたしは知っている。身分とも血筋とも何の関係なく、ただそれは人の内側にあるものだ。

──それを削るようにして見せてくれたきみの舞いに、わたしは報いたいのだ。

──どうかわたしを信用して、きみの運命を預けてほしい。

──迎えを寄こそう。次の新月の夜に。

──それまで時間はきみにとって短くはないだろう。だが、希望を持って、闘ってほしい。比類なく力強く美しいきみの舞いのように。

──わたしはほどなく国にもどらなければならない。だから代理のものをつかわそう。

──きみと同じ年頃の少年だよ。術は使えないが信頼できるものだ。ある意味きみに近しいものだよ。その特徴を教えておこう。


 初対面の得体のしれない相手だったのに、そのペースに乗せられたわけは、ジグムント・デュメニアが術師だったことによるところが大きかったのだろうとは思う。彼の言葉は、その一言一言が、強い力を持っていた。あれはいわゆる言霊というものだったのだろうと、いまになって思い当る。

 といって、少年ジョヴァンニが操られたのだという"言霊の術"とやらとは別のものだ。ただ、言葉の中に真実の気迫を込める。術師としての力に乗せるのは、人に何かを伝えるという強い意志だ。だから、疑おうという気になれなかった。


 レイラは一つため息をついて、顔を上げた。暗幕の向こうで、大きな歓声と拍手が沸き起こっていた。ちょうど大玉乗りが軽業を披露しているところだ。あともうしばらくで自分の出演だ。さっき稽古場で、バックダンサーとのリハーサルも一通り済ませた。

 既に彼とは道は分かたれている。もう二度と会うことはない。彼はカルナーナ貴族の称号を捨て、領土を捨て、政治家として己の信ずる道を突き進んでいる。その思い切りに対する賞賛の気持ちはあっても、彼に対して自分にできることは何もないのだ。

 自分はここで、舞いを舞うことで、残された自分の生を生きていく。

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