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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[三] 見世物小屋と首相の使い
45/110

45 忘れ得ぬ恩人

 それは、ぶよぶよの白い巨大な塊だった。ずるずると地下の暗闇の底を這っていた。だぶだぶとのたうつような表面に、たくさんの人間の手や足や顔やひじや、さまざまな部分が、大きな腫瘍のように浮かび上がっては沈み、沈んでは浮かんでくる。

 たくさんの顔のうちの一つは苦しんでいるように表情を歪めながらも、眼窩は髑髏のそれのように真っ黒な空洞だ。また別の顔は血走った目をかっと見開き、哄笑を続けている。

 幾つもの手は救いを求めるように虚空をつかんではずぶずぶと沼のような表面から沈んでゆく。肩や、足や、後頭部がとりとめもなく浮かんでは消える。

 やがてその中から浮かんできた一つの顔に、確かにレイラは見おぼえがあった。


 呪詛を吐きながら死んでいった、かつての仲間。

 男は両のまなこから血の涙を流しながら虚空を睨む。開かれた口からはうつろな風の音のようなカサカサと乾いた声が漏れる。


──フラン、おれはおまえを恨む

──おまえを憎む

──苦しむがよい

──永遠に呪われるがよい

──地獄へ落ちるがよい

──未来永劫苦しむがよい

──苦しい

──憎む

──憎むう

──苦しいいっ

──地獄へえぇ

──呪うううう

──苦しいいいい

──恨むううううう

──苦しいいいいいい

──助けてくれええええええ

──おれはああああ──おれはあだれだああああおおおおおぉぅぅぅぅ?


 顔は歪んでひしゃげ、やがてぶよぶよの白い塊に溶けた。


***



「舞姫さんはやっぱり強くて優しくて気高くて美しくて、世界一素晴らしい女性だとぼくは思います」

 折り目正しく礼を述べたあと、去り際にジョヴァンニは頬を紅潮させながら、そんな言葉を残していった。

 ジュリアは弟をたしなめるべきかどうか一瞬迷ったあと、困惑したような顔のまま無言で、人魚の少女とレイラに向けて、深々とお辞儀をしてから去った。


 場違いな制服を着た姉弟が去ったあとの食堂は、昼の部の最初のあたりの演目を終えた芸人たちが連れ立って入ってきたのを皮切りに、再び賑わい始めていた。

 赤い髪の人魚の少女は厨房のスタッフを呼びに行ったついでに、カウンターの中で忙しく立ち働く人々を手伝っている。というかなりゆきで手伝わされている。


 レイラは楽屋裏に移動する前に、少女に声をかけ、助け船を出した。

「人魚ちゃん。アートから呼ばれてるんだろ。急ぎなよ」

「なんだ、師匠から呼び出されてんのかい」

 レイラの声に、おばちゃんが反応する。

「だったらさっさと行きな、ロビン。あとで手が空いたら手伝っておくれよ」

 おばちゃんたちにあいさつをしてカウンターから出てきた少女は、早足でレイラを追って食堂を出た。


「ねえ、レイラ、大丈夫?」

 すぐに追いついて横に並びながら、少女はこちらを向く。その綺麗な碧の目に、気遣わしげな色が浮かんでいる。

「きょうはアートに頼んで公演を代わってもらった方がよくない?」

「なんでさ?」

「いろいろと話して思い出して、ショックなんじゃないかと思って。アートの出かける用事っていうのが中止にできるものかどうかはわからないけど……」


 やわらかく透き通った少女の声は、耳に心地よい。ささくれ立っていたレイラの心を、なぜかなだめてくれる。

「平気だよ」

 頭一つ分も小柄な少女を見下ろして、レイラは微笑んだ。

「アドリアルの屋敷にいたときだって、ちゃんと舞ってたんだからさ」

「レイラはとても強くて、すごいと思う」

 感心したように少女は言った。


「うーん、どっちかっていうとあたしは、舞いがあるから大丈夫なんだ。なんていうか、舞いってその場限りのもんで、あとに残すことができないだろ。だからそのとき、そのときで精いっぱいをやるしかない。舞いはあたしにとって特別大事なものだから、絶対傷つけたり台無しにしたりはできないって思うと頑張れるんだ」


「それってやっぱりすごい」

 少女はそう繰り返した。

「あたしにとっても、そうなれるかな?」

「空中ブランコ?」

「うん。空中ブランコ」

 こっくりと、少女は頷く。


「人魚ちゃんの頭の中は、ほんと軽業のことでいっぱいなんだね。頑張んなよ。師匠があれじゃ、少々頼りないかもしれないけどさ」

「そんなことないわ。アートは一流のブランコ乗りだもの」

 驚いたことに、少女はややムキになって即座に言い返してきた。ちょっと前までのアートに対する人魚の少女の低評価を思えば、師匠と弟子の関係は、意外なほど良好な状態らしい。


「それにね」

 と、少女のエメラルドの瞳が輝いた。

「楽団のチェロ弾きがアドバイスをくれたの。だれかに師事するなら技を教わるつもりじゃなくて、技を盗むつもりで行け、って。心構えの問題だぞ、って。ああ、でもまだ技を盗むとか、全然そんなレベルじゃないんだけど……」

 そこまで言うと、少女はもどかしそうな顔になって、ため息をついた。


「へえ、楽団の連中も粋なアドバイスをするもんだ」

 珍妙なナマズ髭のチェロ弾きの姿を思い浮かべながら、レイラは相槌を打つ。

「ま、人魚ちゃんがその心意気だったら、教え方が下手でも問題ないかもね」

「教え方が上手いか下手かについては、正直あたしにはわかんない。でも、アートは悩んでるみたいだわ」

「ん? あいつが教え方が下手で悩むってか? ああ、カナリーのことか」


 人魚の少女は頷いた。

「アートはカナリーの力になりたいと思っているみたいなの。でもカナリーにはそんなこと関係なくて、優しくしてもらえなくて怒ってるって、感じ」

「ふうむ、なるほど。それを一喝できないでオタオタしてるとこが、あいつのへなちょこなとこだねえ」

「レイラはいつもアートには手厳しいのね」

 レイラの述べた感想に、そう少女は反駁する。

「でも、カナリーが分からず屋なのは、アートのせいじゃないとあたしは思うんだけど」


 横から見上げてくる真剣な少女の表情を、微笑ましい思いでレイラは見返した。アートが二人の弟子に対して意識して距離を取っているのはレイラから見ても一目瞭然だ。しかし二人の受け取り方は正反対だ。

 人魚の少女は空中ブランコに臨むアートの姿勢を素直に受け止めて、それに倣おうとしている。厳しすぎるのが気に入らないとだだをこねているカナリーと対照的なその様子は、レイラの目には好もしく映る。


 レイラには、カナリーに対するアートの態度は生ぬるいとしか思えない。座長に言って、弟子にするのをきっぱり断ってしまえばいいのに、とさえ思う。少しばかり世間の風に当たった方が、あの身の程知らずの少女には、かえってためになるのではないだろうか。後援者への接待役をやれとまでは思わないが、裏方や下働きの仕事ぐらいはやってみたらいいのだ。

 生半可な覚悟で見世物小屋の曲芸に関わるぐらいだったら、最初からやめておいた方がいい。


 レイラの思いを知ってか知らずか、人魚の少女は考え込む顔で聞いてきた。

「ねえレイラ、カナリーを本気にさせることって、できると思う?」

「空中ブランコに? さあ、どうだろうね」

 レイラは首を傾げた。

「そういうのって本人にその気がなきゃ、いくら周りがやきもきしたってどうにもならないからねえ」


 レイラの目から見て、カナリーは幼い。見た目はともかく、中身がひどく幼いのだ。自分本位で、天真爛漫で、身勝手だ。そして実際の年齢と周囲の状況が、その身勝手を許さないところまで来ているというのに、本人は気づいていない。


「しかしまた、人魚ちゃん、景気よくぶっ叩かれたねえ」

 レイラは、いまだ赤く腫れの残っている少女の頬に目をやった。

「あの子はあくまでも、あんたが先に手を出したから自分は悪くないって言い張ってたけどさ」


「ええ、あたしが先に手を出したのは本当」

 話題が変わった途端、なぜか人魚の少女は少し憂鬱そうな表情になる。

「なにがあったんだい? カナリーはこぶ男がどうのって言っていたが」

「うん……カナリーがロクサムを突き飛ばしたのが、最初だったの」

 さっきまでの強気な表情から一転、目を伏せてややためらいがちに、少女はそう答えた。

「カナリーがゾウ舎の入口に立ちふさがっていたから、ゾウ舎に入ろうとして急いでたロクサムが持っていた籠が彼女に当たったの。そしたら、汚いって言ってカナリーは彼を、思いっきり突き飛ばしたの」

 それでも彼女は不満げに、ぎゅっと口をつぼめた。

「なのに、カナリーってば、ロクサムを突き飛ばしたことを謝らないだけじゃなくて、ロクサムが悪いって言い張るんだもの。それだけじゃなくて、ひどいことを言ってきたんだもの」


「なんて言ってたんだい?」

「……落ちた籠の中身を拾ってるロクサムが、ヒキがエルにそっくりだって。そのうちゲコゲコ鳴き出すんじゃないかって。そう言って、とても意地悪そうな声で笑ったの」

 レイラの問いかけに、少女は気おくれしたように少し言い淀んだ。それから、独り言のような小さな声で、言い加える。

「でも本当はあたし、そんなふうに軽く扱われても酷いこと言われても、怒ったり言い返したりしないロクサムにも腹を立ててたのかもしれない。ロクサムは自分がだれからも大事に思われていなくてもそれが当たり前だと思ってて、カナリーの言葉を聞いたあたしがどんな気持ちになるのかも、わかってくれなくて……」

 少女は再び言葉に詰まる。


「人魚ちゃんは、こぶ男が好きなんだね」

「ええ」

 少女はどこか浮かない顔のままだったが、それでもレイラの言葉には、すぐにこっくりと頷いた。

「レイラはさっきロクサムのことが苦手だってカナリーに言ってたでしょう?」

「ああ」

 それは本当のことだったから、余計な補足はせず、レイラはただ頷いた。


「でも、あたしはロクサムが好き。ロクサムはあたしが見世物小屋に来て、最初にできたお友達なの。優しくて繊細で、とてもいい人よ。でも、自分のことをだれにもわかってもらえなくても、別にそれでいいと思ってる。だからあたしは──」

 少女は言葉を探すような顔をして、ゆっくりとした口調になる。

「それが悲しくて、寂しくて……どうしたらいいのかわからなくなるの」


 それだけ言うと、少女は黙り込んでしまった。

 少し考えてレイラは、俯いて歩く小柄な少女の白い横顔に声をかける。

「ねえ、人魚ちゃん。こぶ男の話はまた今度聞かせてよ。もっと時間のあるときにさ」

 レイラの言葉に、不思議そうに目を見開いて、人魚の少女は振り向いた。

「どうして?」


「人魚ちゃんが、このままじゃよくないと思ってるみたいだからさ」

 続く言葉をレイラは、慎重に選んだ。

「具体的にあたしが何かの力になれると思っているわけじゃないんだ。ただ、話してるうちになんかヒントが見つかることがあるかもしれないし、でなくとも思っていることを口に出すだけでも、すっきりするだろ?」


 言いながらレイラは前方を見やった。廊下をもう少し歩いて次の角を右に折れたらすぐに、大舞台の控室のドアが並ぶ一角だ。

「それと、人魚ちゃん──」

 カナリーの言い出したとんでもないお願いの件についても少し触れておこうと思い、レイラはやや早口になる。

「空中ブランコをやめろだのなんだのっていう、カナリーの言葉は気にするんじゃないよ。どう考えても、あの子が一人で勝手に思い込んで先走ってるだけだから。第一座長が認めないだろ、そんなの」


「ええ、それはわかってる。ありがと、レイラ」

 そう頷いたあと、少女は少し不安げな顔になる。

「あたしは降りる気はないって伝えたつもりだったけど、ちゃんと伝わってるのかな。カナリーにはなんだか、時々こっちがいいたいことがうまく伝わらないの」

「ああ、そりゃ、向こうがあんたを敵視してるからだ」

「そういうときって、レイラだったらどうする?」

「うーん。多分気にしない」

 きっぱりそう言い放ったあと、レイラは言い直した。

「気にしないことにする、かな。相手の態度に関わらず、やりたいようにやるし、いいたいことははっきりいう」

「それでまた喧嘩になっちゃったら?」

「それでもいいたいことはいう。それで相手が納得しないんなら、そっから先は相手の問題だ」


 角を曲がるとすぐに控室のドアが見えてくる。そこで廊下は終わりだった。一番手前の左側がアートがよく使う個室で、その隣がレイラがいつも使っている部屋になる。さらに火焔吹やら猛獣使いやら箱女やらの個室が続き、その向こうの突き当たりが下っ端の芸人たちの使う大部屋だ。

 角を曲がってすぐにあるアートの部屋のドアは、大きく開いていた。


 少し考えて、レイラは言い加えた。

「でもまあ、きちんと伝える努力は一応するかな。正確に伝わらないのも曲解されるのもこっちがもやもやするだろ」

 少女はため息をつきながらこう漏らした。

「レイラってやっぱりすごいな。大人だし、いろんなことがわかってる感じする」

「そりゃ、どうだろうね」

「あたし、いつもレイラにすごく助けてもらってる。きょうだって、さっきからなんだかあたしの話ばかり聞いてもらってるし……」

「ちょっとでも助けになれるんだったら、こっちとしては本望だよ。ま、大したことができるとは思ってないんだけどさ」

 そういってレイラが笑いかけたら、少女は別れ際になってやっと表情を和らげて、少し笑ってくれた。


 別にレイラはだれに対してもおせっかいというわけではない。ただ、何となく人魚の少女が気になるだけだ。多分、アートが気にしているように。見世物小屋から突然去ってしまったハルも、おそらく気にしていたように。

 少女といると、ただ安らぐのだ。それは少女が陰口や嫉みなどのややこしい悪意などから無縁のまま、一人でまっすぐ立ち続けているせいかもしれない。

「ありがと、レイラ、いろいろ聞いてくれて。公演頑張ってね!」

「ああ、もちろんさ」

 少女の励ましに力強く応え、開いたドアをくぐる小さなその姿を見送ってから、レイラは隣の部屋に向かった。


 廊下を渡ってやってくるレイラの姿が、突き当たりの大部屋から見えたのだろう。レイラのすぐあとから、いつもの化粧係がやってきて、ドアをノックして入ってきた。鏡を見ながら化粧は自分で直せるが、髪をきちんと結ってもらうのは、係に任せている。

 手際良く髪をまとめあげてくれる彼女と取りとめもない話を交わしながらも、ともすればレイラは、物思いの中に沈み込みそうになる。


 話をすることがきっかけで突然何かを思い出すこともある、というのは本当のことだ。

 断片的に記憶を掠めただけだった謎の会話を、いまレイラはするすると糸を手繰り寄せるように、かなり克明に思い出すことができた。

 しかし、ついでに余計なことも思い出せてしまった気がする。


 政治家の先生、とだけジョヴァンニには言って、名前は言わなかった。けれどもレイラはその人の名を忘れたことはない。ジグムント・デュメニア。恩人の名前だ。忘れるわけがない。

 当時はカルナーナ政府の外交官で、出自はカルナーナ北部の湖沼地帯を治める貴族だった。戦争終了後、爵位はさっさと返還してしまったと聞いた。現首相の信任厚く、現在は建設大臣を務めていると聞いている。


 カルナーナ共和国の建設省が受け持つ管轄は広い。各都市の大型建築物に関する総括。国境都市の城壁の管理と修繕。カルナーナ全土の交通網の整備。公共事業としての駅馬車の管理。貿易港の管理。その他国の発展と雇用促進のために新たにつくられる大型事業の企画と運営。

 低俗なゴシップ紙にレイラとのことがすっぱ抜かれたのは、彼女がカルナーナに来たばかりのころではなく、見世物小屋で舞姫として売れはじめた2年ほど前のことだった。はっきり言ってもう何の関係もない人だと思っていたから、インタビュアーが来ても黙殺した。そうしたら、ないことないことでっち上げられて勝手に書かれた。

 申し訳ないとは思ったが、連絡は取らなかった。向こうも連絡をよこさなかったから、それでよかったのだと思った。


 あちこちの紙面をにぎわせていた彼も、その後は浮いた噂の一つも聞かないためか、堅めの経済紙以外で、その名を目にすることはめっきり減った。

 政治はきれいごとだけではやっていけないものだろうから、外交官だったころとは人となりが変わってしまったかもしれない。そう思っていたが、聞けば、舞姫である自分のファンだと公言してはばからないところは変わっていない。

 半ばあきれたが、正直嬉しくもある。


 かつて自分の舞いを認めてくれた人でもあった。

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