43 手がかり
「あんたたち、お客さんに出す飲み物の準備ができたよ」
食堂のおばちゃんにカウンターの向こうから声をかけられ、雑談は中断となった。
おばちゃんが用意してくれたのは、上客用の熱いお茶だった。やはりジョヴァンニたちの身なりから、そうと判断したのだろう。
カウンターに並んだカップのうち二つをテーブルに運んだあと、アートは自分の分の飲み物はカナリーの昼食のトレイの上に乗せた。それから彼はトレイを手に、カナリーに立ち上がるように促した。
二人が出て行ってしまうのと同時に、食堂のおばちゃんも奥の厨房に引っ込んだ。内密の話が済んだらすぐ、ルビーが厨房に呼びにいくことになっている。
アートは出て行く前に、ルビーにもう一つ指示を下した。
「ロビン、話が終わって人払いの必要がなくなったら、きみはそのあとすぐ楽屋裏に来てくれ。これから、きみとカナリーとぼくの3人で外出することになってるから」
アートとカナリーがドアを閉めて食堂から出て行くや否や、ジョヴァンニはやや声をひそめて本題を切り出した。
「ぼくたちはいま、あの日ハマースタインさまの屋敷に現れたアントワーヌ・エルミラーレンと名乗った男について、調べています」
そしてジョヴァンニは、初めて話を聞くことになるレイラに、あの日のいきさつを手短に説明した。
逃亡奴隷のハル・レヴィンを追ってハマースタインの屋敷を訪ねた憲兵の分隊に、王兄殿下の孫君を名乗る謎の男が紛れ込んでいたこと。貴婦人との朝食の席で、彼は正体を現したこと。同じ隊に所属していたジョヴァンニを妖しげな術で操り、アートを斬り殺させようとしたこと。
首相の訪問を知った途端、男が逃げ出したこと。そして、国はその男の行方を追っていること。
話が長くなると思ったのか、ジョヴァンニは、"移身交換の術"についての詳しい説明は省いた。
「男は自分の居場所について、幾つかのヒントを残していきました。どこかの軍で副官を務めている、と言っていました。それを手がかりに、首相は南部、中央、北部、東部、北東部それぞれの陸軍と、3大海軍、それから二つの傭兵部隊にそれぞれ調査隊をやり、聞き込みを開始しています。ただ、彼に関する手がかりがはいまのところ、何も見つかっておりません」
彼の残した「副官」という言葉をヒントに、それぞれの調査隊に絵師を同行させ、軍の上層部の者たちの姿絵を描かせ、持ちかえってきている。
しかし、ジョヴァンニを始め、同じ分隊にいた者たちは、それらを見せられても、描かれた人物が男と似ているかどうかを判断することができなかった。男の術中にあったためか、副長と入れ替わった男の姿かたちを思い描けずにいたのだ。
「隊長もぼくも、他の隊員たちも、思い出そうとしても本来の副長の姿でしか、その日の出来事を思い返すことができないんです。ですので、男の姿をはっきりと記憶しているのはハマースタインのお屋敷の方々と、ロガールさんだけということになります。さきほどロガールさんに絵を見ていただいたところ、雰囲気が似ているかもしれないとおっしゃる軍人の方がお二人ほどいました。
ハマースタインさまのお屋敷の方々にも確認していただきたいので、のちほどお伺いする予定です。ちょうど今、絵が手元にありますので、ロビンさんには先にこちらでお見せします。あとでご確認いただけますか?」
聞かれてルビーは無言で頷いた。ジョヴァンニはあくまでもルビーの協力をお願いする姿勢だが、首相に直接関わる人物からの依頼だ。恐らく断れる類のものではない。また、ルビー自身にしても、とりたてて断る理由もない。
「引き続き調査中ではありますが、それと並行して、あの男の残した言葉を手がかりに、別ルートからも調査をしようということになりました」
そこまで言うと、ジョヴァンニはかしこまった姿勢でレイラに向き直った。
「つきましては舞姫さん、あなたに幾つかお聞きしたいことがあります。あなたの個人的な経歴に触れることにもなりますが、どうか失礼をお許しください」
レイラは静かな口調で聞き返した。
「それはつまり、エルミラーレン殿下の孫だと名乗るその人物が、あたしについて何か口にしたってことなんだね?」
「はい」
少年は頷いた。
「その男はあなたのことを、レイ・フランチェスカ・マルティーネと呼んでいました。かつて、そう名乗ってらっしゃったことはありますか? また、それはいつごろどこで名乗られていたんでしょうか?」
ジョヴァンニの言葉にレイラは頷き、こう答えた。
「そりゃまだあたしがカルナーナに来る前の名前だ。隣国リナールにいた頃だね。しかし、その頃にしたって、単にフランと呼ばれてて、フルネームで名乗ることなんてまずなかった。フランチェスカだけだったらともかく、その名を知ってた人はそんなに多くないはずなんだけどね」
そこまで言うとレイラは、いぶかしげにジョヴァンニを見た。
「ねえ、あんた、あたしが隣の国から来たって聞いて、驚かないのかい? 知ってたって顔だね」
「実はちょうど数日前に、別の方からその話を──舞姫さんが隣国のアドリアルから国境を越えてカルナーナにいらした方だというお話を──お伺いしたばかりなんです」
「別の方? だれだいそれは」
「はい。建設省大臣の──」
レイラの質問に対しジョヴァンニは、その現職の政府の要人の名前を口にした。
途端にレイラは不機嫌な顔になる。
「なんでまた。その人はあたしがカルナーナに来たばかりの頃、ほんの少し世話になったことがあるだけだ」
ジョヴァンニは頷いた。
「ええ、そのお話もお伺いしました。ところで舞姫さん、もう少ししたら、最初の方の演目で公演を済ませた出演者の方々が、食堂にやってくるのではないですか? 人払いできる時間があまりないと思いますので、まずはこちらの質問を続けさせていただいても構いませんか?」
しかしレイラは仏頂面で腕組みをして、不機嫌な声で言い放つ。
「それって忙しい現職の政治家の先生のところに押し掛けていってまで聞く話だったのかね」
「その可能性もあると判断しました。大臣に、エルミラーレン孫殿下についての心当たりがあるかどうかも確認する必要がありました。結局、その人物に心当たりもなければ、あなたについてのレイ・フランチェスカ・マルティーネという名前も御存じないということでしたが」
「その孫殿下とやらが、あたしについてなんて言ってたか教えてくれるかい?」
レイラに促され、ジョヴァンニは頷いた。
「男の言葉をそのままお伝えします」
その人の言葉は、あらゆる意味であなたに失礼だと思いましたが。そう前置きをして、ジョヴァンニは貴婦人の屋敷での奇妙な取り合わせの朝食会のときの殿下の文言を、一字一句余さず伝えた。
──知り合いの愛人だったころの彼女をわたしは、少々知っているものでね。わたしの知り合いにちょっとした物好きがいて、彼女の面倒をみていたんだが、彼女は独立したいと言い出して、その者のところから町に出て行ってしまった。しかし、結局きちんと独立はできなかったようだったね。見世物小屋の世話になるぐらいだったら、知り合いのところにいた方が、好きなだけ舞いも舞えて、いい暮らしができていたと思うんだが……
言葉を発した本人がこの場にはいないにもかかわらず、聞き返しただけでルビーはやはりむかついた。それとともに、あのとき能天気にレイラを賛辞していただけに見えたジョヴァンニもまた、エルミラーレンの言葉に腹を立てていたのだという簡単過ぎる事実に気づく。
一方それを聞いた舞姫は、考え込むような顔になった。
「あいにくあたしはリナールでもこっちでも、だれかの愛人だったことなどないんだが。世話になった先生については、ゴシップ誌が調べもせずに好き勝手書いていただけだ。それはともかく、エルミラーレンを名乗るその男があたしのかつての名前を口にしたのなら、リナールにいたころの知り合いのだれかだって可能性が高いと思うよ」
「似顔絵、見ていただけませんか? 直接見て描かれたものではなく、先ほど絵師がロガールさんに説明してもらいながら描き起こしたものなので、あまり似ていないかもしれませんが」
隣でジュリアが持参した鞄の中から大きめのスケッチブックを取り出した。
絵は色つきのものだった。タブロイド紙のイラストなどに使われる白黒の線描画の上に、絵の具で丁寧に色が乗せてある。
緩やかにウェーブしたごく淡い金髪。淡いグレイの目。少し長めの整った鼻梁。神経質そうな眉。酷薄そうな細い唇。尖り気味の顎と、尖り気味の頬骨。腕のよい絵師の手によるものなのだろう。ルビーの記憶とそっくり同じとまではいえないまでも、特徴はよく捉えられている。
絵は2枚用意されている。1枚は眼鏡をかけた軍人の姿で、もう1枚は眼鏡はかけておらず、豪奢な貴族の服装をしていた。
レイラはしばらくの間、その2枚を交互にしげしげと眺めていたが、やがて椅子の背もたれに身を預け、もう一度腕組みをする。
「うーん、見覚えがあるような気もするが、あたしの知っている限りじゃ、貴族ってのはどいつもこいつも似たような感じの顔立ちをしてるからねえ。陰険そうだっていうのか人間味が薄そうだっていうのか……」
ジュリアが別の、今度はスケッチブックではなく、バラバラの紙を綴じた1冊のファイルを取り出して見せる。
「こちらの二人が、さっきアートさんが雰囲気が似てるのではないかっておっしゃってた方たちですわ」
ファイルの中から抜き取った2枚を、ジュリアはアントワーヌ・エルミラーレンの似顔絵の横に並べた。
ルビーは反対側からそれを覗き込んだ。
二人とも貴族的な面差しで、あの日食堂で気取った仕草でスープを飲んでいた男と似ているといえば似ている。それでもイラストには、同一人物といえるほどの決め手はない。
「ロビンさん、どうでしょう」
軍人の似顔絵についてジョヴァンニから振られ、ルビーは正直な感想を述べた。
「体格とか全体の雰囲気が似ている気はしますけど、よくわかりません」
「レイラさん、こんな感じの人物に心当たりはないでしょうか?」
レイラはそれらも合わせた四つの人物画を見比べながら首をひねる。
「そうだねえ……実をいうと、その肖像画はほかでもない、アドリアルのアドレイア伯爵その人に似ているんだが」
「アドレイア伯爵ですか?」
「リナールではあたしはアドレイア伯爵お抱えの舞踏団に所属していた。いわばあたしらの雇用主だね。けど、うーん、なにしろ年齢が合わないからねえ。あんたの話じゃ貴婦人の館に現れたのは20代半ばぐらいの若い男っていうんだろ? アドリアルの領主アドレイア伯爵は、あたしがリナールにいた頃、既に50歳を越えていたはずだよ。だから似ていても、多分別人だろう。
しかし、そいつの話し方を聞いた限りじゃ、そいつはあの頃のあたしの──あたしたちの事情をよく知らない人物だっていうより、故意に嘘を混ぜて話しているような感じだね」
彼女は顔を上げると、鮮やかに深いアイスブルーの瞳で少年を覗き込む。
「はっきりとはわからないが、何かがすっきりしないんだ。大きな嘘というのか、とんでもないごまかしが、そいつの言葉の中にある気がするんだ。そいつからあんたが聞いたっていう言葉からあたしが受けた印象だから、断定はできないが」
だれだろう。そうつぶやきながら、レイラはもう一度首をひねる。
「我々も、彼が本当の情報を漏らして去ったのだとは思っていません。ところでレイラさん、伯爵がこの絵の人物に似ているのだとしたら、その息子はどうですか? アドレイア伯には嫡子が一人いたと思うのですが、ちょうど20代半ばぐらいになるのではないでしょうか? エルミラーレン殿下との血のつながりについてはともかく、年齢的には合うと思うのですが」
「エルダー・アドレイアのことかい。エルダーは黒っぽい茶色の髪をしていて、見た目もそんなに伯爵に似てなかったよ」
苦虫を噛み潰したような顔になって、レイラはジョヴァンニの質問に答えた。
「いや、伯爵にしろ、少し似てるような気がするってだけかもしれない。そのイラストに似た雰囲気の貴族なんぞリナールにはごろごろいたし、カルナーナの貴族についてはよく知らないが、こっちにもそれなりにいるんじゃないかね? ジョヴァンニ、あんた、何をどれだけ知ってるんだい? 政治家先生があたしについて何をしゃべったのか聞いてもいいかね?」
「はい」
ジョヴァンニは、生真面目な顔で頷いた。
「建設大臣が教えてくれたのは、あなたが昔リナールのサロンで国際会議のあったときに、素晴らしい舞を披露してくれたこと。当時外交官としてリナールの宮廷を訪れたときに迫力のあるあなたの舞いを見て以来、大臣はずっとあなたのファンだということ。リナールからあなたが逃げてきたとき、縁があってあなたを匿うという幸運に恵まれたこと。あなたがカルナーナに来てから、ずっと忙しくてあなたの公演を見に行けないのを非常に残念だと思っていることなどです。あっ、それと、昔あなたに求婚して振られてしまったことも教えてくれました」
そう言うと、ジョヴァンニは屈託のない笑顔をレイラに向ける。
「とても気さくな方でした。大臣もぼくもあなたの大ファンなので、思わぬところで意気投合してしまいましたよ」
「ったく、相変わらず脇が甘いな、あいつも。そういうプライバシーについてさくさく話すから、妙なゴシップ紙にあることないこと書かれるってわかってるのかな」
ジョヴァンニの言葉を困惑顔で聞いていたレイラは、独り言のように悪態をついたが、気を取り直した様子で質問を続ける。
「あたしがリナールから逃げてきた理由については聞いたかい?」
「酷い目に遭わされていたあなたのお友達を逃がすため、と聞いています。詳しいいきさつが知りたければ、舞姫さんご本人に聞いてほしい、と」
「ふむ」
やはりレイラは考え込む顔で、食卓のトレイに視線を落とす。
「胸糞の悪くなるような話なんだけどね。それに、エルミラーレン殿下と関係あるのかないのかもわからない」
「ぼくたちは、あの男がどこをどう足がかりにして動いているのかを知りたいのです。なぜなら、ハマースタインの奥さまとロビンさんが、どういった理由でか、彼に狙われているからです」
狙われている?
自分に全く関係のない話だと思って聞いていたら、突然名前が出てきてルビーは驚いた。
そういえば、去り際に男は何かそんな意味のことを言っていたかもしれない。ジゼルさまとルビーをどこかに連れ去るとかなんとか。
「なるほど。そういうことなら仕方がないね」
あっさりと、レイラは頷いた。
「何かの手がかりになるかどうかはわからないが、知っていることは一応伝えておこうか。さっきも言ったけど、楽しい話じゃないよ。それと、あたしはともかくもう一人の当事者は、いまは静かに暮らしているはずだから、できれば波風立てないでくれ」
「わかりました」
ジョヴァンニは頷いた。
「話してください。舞姫さんがお望みなら、必要最小限の人間以外には漏らさないことを約束します」
隣でジュリアが、わたしは何も話しません、と小声で言い添えた。
そこでルビーも、だれにも言わないわ、と約束を口にした。
「彼女の名前はクローディア。かつての踊り子仲間だった。あたしたちが所属していたのは、アドレイア伯爵お抱えの舞踏団だった。その頃宮廷から要請があって、催し物のたびに出かけては舞を披露していたから、政治家の先生はきっとそのときにあたしらを見かけたんだろうね。
さっきちょっと話題にのぼったエルダー・アドレイアが、舞踏団にいたクローディアを見染めて愛妾にと望んだのが、ことの発端だった。彼はアドレイア伯爵の後継ぎに当たる人物だった。彼女は屋敷を与えられて、舞踏団を抜けることになった。
当時、クローディアと仲の良かったあたしは、彼女に与えられた屋敷に一緒に移り住むことになったんだ。クローディアが心細いだろうから話し相手として一緒に来てくれという、伯爵の息子からのたっての頼みだった。ただし、あたしに関しては舞踏団に留まって舞を続けるって条件をつけてもらったけどね」
3年と少し前のことだ。レイラの話はそんな風に始まった。




