42 毒婦と姉弟
目を覚ました食堂のおばちゃんが飲み物を用意してくれているのを待つ間、少しだけ雑談をした。
ジョヴァンニは、あのあと首相の口添えをもらって近衛兵隊への転属のための試験を受け、見事受かったという話だった。
この夏に入隊したばかりの新兵で、しかもまだ15歳になったばかりの彼の官邸配属は、異例の抜擢ということで驚きをもって報道された。姉のジュリアが購読していたゴシップ紙のネタにもされたそうだ。
「なんだかいきなり有名人になってしまいました」
少年は、困った顔で言った。
「姉の読んでいるタブロイドの、ロガールさんや歌姫のリザ・ハイドラーなんかの記事の隣に、自分の名前とイラストが乗っているのを見たときは、どうにも妙な、落ち着かない気分でした」
「イラストは似てたかい?」
舞姫の質問に、苦笑気味にジョヴァンニは首を振る。
「全然。なんかもう見事に別人でした」
「あのペーパーはもう購読しません」
姉のジュリアは憤懣やるかたないといった様子で、そのタブロイドを名指しで非難した。
「でたらめばっかり」
「ああ、あの日の記事は相当悪意があったね」
そう相槌を打つアートに、少し驚いた顔でレイラが振り向いた。
「へえ、あんた、読んだのかい?」
「同じ日の別の記事にちょっと気になるものがあったんだ」
「ふうん」
アートの返答は軽く聞き流しておいてから、レイラは尋ねた。
「で、悪意があったって、どんな記事だったんだい?」
「話しても?」
そう確認するアートに短く「どうぞ」とだけ答えたジョヴァンニの横で、不機嫌そうにジュリアが言い添える。
「でも全然事実じゃありませんから」
「まず見出しがこうだった。美少年剣士ジョヴァンニ・リッツォーリ、未亡人の毒牙にかかる」
「そりゃまた」
感心したように、レイラが首を振る。
「相変わらず、どこからどう突っ込めばいいのかわからない怪文だね」
「内容は、憲兵の少年がとある貴族の未亡人にその美貌を見染められて愛人となり、取り立てられて政府官邸に入り込んだ、というようなものだった。記事によると、毒婦は次はその少年を政府の要人の座につけるつもりらしいよ。根回しももう始めているらしい。財務長官あたりが老齢だからそろそろ世代交代じゃないかってさ。まあ、全くのフィクションだね。15歳に官邸の警備は務められても、普通に考えたら政治家になるのは無理がある」
ルビーにとっての突っ込みどころは、内容を聞かなくても見出しだけで「毒牙を持った未亡人」がだれのことだか想像がついてしまうところだ。
アートがざっと要約して説明したような事実は、絶対にない。少なくともジョヴァンニに関しては。
あの日首相の指示で医師が呼ばれ、診察を受けたジョヴァンニは夕方までには帰ってしまっていた。また、彼が滞在していた日は、多くの人がひっきりなしに出入りした日だった。ジョヴァンニの滞在中、貴婦人はずっと来客の対応に追われていた。ジョヴァンニは、一度お詫びに伺いますという言葉だけを残したまま、栄転騒ぎで忙しかったのだろう、実際にはその後屋敷を訪ねてきた様子もない。
けれども貴婦人についていえば、単純に根も葉もない噂だと片付けられない面があるのだ。つまり、「近衛兵」を「毒牙」にかけた、という点においてだけは、フィクションではないのだ。
相手は「美少年」ではなく目つきの鋭い30絡みの痩せぎすの男だったけれども。
「姉のわたしが言うのもなんですけど、ジョヴァンニは優秀なんです」
少しむっとした様子で、ジュリアが口を開いた。
「それにとても努力家です。確かにカルロ首相は口添えをしてくださいましたが、試験を受けて合格したのはこの子の実力です。剣術の実技試験でも、腕は確かだって、師範からのお墨付きをいただいたわ。わたしは弟の七光りでいまの仕事をいただいただけですけど」
「そんなことはないでしょう」
アートは、そう口をはさむ。
「七光りで官邸の秘書官は務まらないと思います」
「いいえ。本当ですの。秘書官といっても、わたしは32番目の秘書で、実質的には事務職員なの。名目上秘書官という立場に置かれたのは、これまでにもそういう習わしがあったためらしいんです。官邸に務める若者の姉や妹には相応の役職を持たせる例が多いそうなんです。
近衛隊のメンバーと血縁関係を結ぶことを目当てに、わたしに求婚してくる野心家が必ず現れるからって。そういった下心を持って近づいてくる者をある程度ふるいにかけるためにも必要だって言われました。
でも、弟は違います。
ロガールさん、弟はいまは確かに経験不足でしょうが、10年後、20年後に政治の世界に関わっていかないとは言い切れないと思うの。なのに、そんな将来にわたってまでつきまとうかもしれないような、こんな不名誉な噂を流されるなんて……」
「姉さん、心配はいりませんよ」
一方弟の方は、鷹揚に笑った。
「不名誉っていうより、仲間内ではすっかり笑い話です。記事の中の、美貌の少年剣士って部分を読んだ知人は揃って大爆笑ですよ」
確かに、目の前の少年は、美少年と形容するにはいささか凡庸な容姿ではある。年相応に幼く、生真面目な表情が可愛らしいが、抜きん出て整った面立ちをしているわけではない。
が、そこまで言ったあと、少し心配そうな顔になって、ジョヴァンニは言い加えた。
「それよりもぼくは、記事に書かれたお相手とされるご婦人の名誉にかかわるんじゃないかと気になります。名前が特定されていないから問題はない、と何人かから言われて、とりあえずは納得しているんですが」
「名前は特定されていないけど、だれのことを言っているのか、とてもわかりやすい書き方ではあったね」
「やはり、ロガールさんもそう思われますか?」
アートの言葉に、ジョヴァンニの顔が曇った。
アートは頷いた。
「首相官邸から日帰りで行き来できるぐらい近くに住んでいて、首相とパイプのある身分の高い貴族というだけで、かなり範囲が狭まってしまうからね。しかも未亡人とまではっきり書かれている」
「騒ぎを起こしてしまった日にご迷惑をおかけしたことを、後日お詫びに伺うつもりだったのですが、結局やめました。万一記者が張り込んでいて、根も葉もない記事の続編でも書かれては、さらにご迷惑になってしまうと思って」
ちょっと言葉を切ったあと、ジョヴァンニは困惑顔で言い加えた。
「でもきょうは、このあとお屋敷にお伺いしなければいけなくなってしまいました。お屋敷の方たちにも確認しなければならないことが、できてしまいまして……」
「まあ、そんな気にすることじゃないんじゃないかい?」
とりなすようにレイラが言った。
「ゴシップ紙がでたらめを書くことは、ほとんどの人が知ってるっちゃ知ってるからさ」
ところが、レイラの言葉は今度は姉の方を落ち込ませたようだった。
「それが、これまでわたしは、書かれてることを結構単純に信じ込んでたんです。もちろん話を盛っているだろうとは思っていたし、全部が全部本当だとは思ってませんでしたけど。ここまで事実を無視して勝手なことを書くものだとは思ってなくて……」
レイラが頷いた。
「他人のプライバシーの領域は大部分が憶測でしかないからね。家の中に忍び込んで直接目撃でもしない限りさ。まあ、あいつらはそれだってやりかねないんだけど」
「だからわたし、ロガールさんのことも悪く誤解してて……軽業師としては大ファンなんですけど、これまでとにかく素行の悪い人だと思ってて……」
ジュリアがアートの名前を出したことで、カナリーは初めてジュリアに関心を持ったらしく、値踏みするようにまじまじと見た。
が、飾り気もなく地味でおとなしそうな雰囲気のジュリアに対して、すぐに興味を失ったようだった。いぶかしげに見返すジュリアに笑いかけるでなく、ふいと視線を外し、つまらなそうな顔で服の襟元をいじり始めた。
カナリーがつまらなそうな顔をしているのは、ある意味無理もない。来客の対応を一座の中心人物であるアートとレイラが受け持っている以上、会話に入っていく余地がないからだ。
彼らの会話を黙って聞いているのはルビーも同じだったが、カナリーと違って少なくとも退屈はしていない。ルビーはジョヴァンニと面識があったし、話題にされていることに関しても、ある程度事情を知っている。
一方レイラは、ジュリアの言葉にけらけらと笑い出した。
「だってさ、アート。よかったじゃないか、誤解が解けて」
「あの……姉さん」
横からジョヴァンニが心配そうに小声で言った。
「ロガールさんが女性に対して非常に積極的な方だというのは本当ですよ。"素行の悪い"などのネガティブな印象を読む人に持たせる記事の書かれ方には、やはり悪意があるとは思いますけど」
「言うねえ、坊や」
レイラが面白そうに口をはさむ。
「アートの悪事について、実はいろいろと知ってたりしてね」
「おいおい、なんだよ悪事って」
ぼやくようにアートは返す。
「誤解が解けたって喜んでくれてたのかと思ったら、こうだ」
「おや、皮肉が通じてなかったとはね」
レイラは唇の端だけを曲げて、少し意地悪そうな笑顔になった。
とはいえ、レイラがアートを本気で悪く思っているわけではないということは、ルビーにもわかる。さっきだって、3年前の噂について、彼の芸人人気をやっかんだだれかが流した根も葉もない噂だと言い切っていた。
アートは少年に向かって、言い訳ともとれるような言葉を口にする。
「ぼくは魅力的な女性を積極的に賛美しているかもしれないが、悪事を働いてるって思われるのは心外だよ、ジョヴァンニ。たった一人のお姉さんが、こんなに可愛らしい女性だったら、お姉さんの周囲の男に対して警戒心が強くなるのも仕方ないのかもしれないけどね」
何か言いたげな表情のまま聞いているジョヴァンニに、アートは言い加えた。
「それに、あくまでも、魅力的な女性に対してだ。一口に女性といってもきみのお姉さんみたいな楚々とした美人ならともかく、中にはこういうガサツなタイプもいるからね」
そう言いながら目の前のレイラを指すアートに対し、目を丸くしたジョヴァンニは、強い調子で即座に言い返した。
「ぼくはあなたを尊敬しますが、少なくとも女性の魅力に関する考え方は、全く合わないようです。舞姫さんは綺麗で気高くて純粋で強くて凛々しくて、世界で一番素敵な女性だと思いますが」
生真面目そうな少年からの手放しの賛辞は、レイラにとって不意打ちであったらしい。
彼女が飲んでいた飲み物を危うく噴き出しそうになったのを、ルビーは目撃した。




