40 カナリーの頼みごと
「ちょっとレイラ」「ちょっと舞姫」
と、二人の声がハモってしまったのは、はからずもだった。
そんなわけない、と強調するルビーにレイラは言った。
「いくらあいつが暇なやつでも、人魚ちゃん、あんたにちょっかいかけていたような頻度でそこらじゅうの女に声かけててごらんよ。身体が幾つあっても足りないって。ま、カナリーが考えているような色っぽい理由かどうかまでは、あたしにはわかんないけどね」
ルビーに向けてそう言い放ったあと、レイラは今度はカナリーの方に向いた。
「それとカナリー、ついでだから聞くけどさ。あんたはアートがハマースタインの奥さまと寝ていることについてはどう思っているんだい? アートについては、言っちゃなんだけど、悪い噂じゃなくて、単に悪い事実ってことになりゃしないかね?」
「おっ、男と女とでは話が違うわ」
直球過ぎるレイラの問いかけに、即座に言い返したものの、カナリーはかなり鼻白んだ様子だった。
「ま、そりゃそうだ。違いない」
レイラは特に反論する気もないらしく、あっさりそう答えた。
「ちなみにあいつのきょうの休みは何が理由なのかね? またハマースタインのお屋敷に入り浸ってるのかい、あの男は」
レイラからそう話を振られて、ルビーはかぶりを振る。
ハルの逃亡騒ぎがあった日、やはりレイラは憲兵の別の分隊に楽屋裏まで押し掛けられていた。見世物小屋にアートもルビーもいなかったせいで、何度もしつこく問い質してくる彼らに、レイラは一人で対応しなければならなかったそうだ。
そのときの強烈にうっとうしかった記憶が焼きついているせいで、アートが突然休むときは貴婦人の屋敷に泊まり込んでいる、というイメージをレイラは持ってしまっているらしかった。
けれども今回の突然の休みは、ルビーには全然心当たりはなかった。
とはいえ、座長は朝から全く騒いでなかったから、アートは使いを寄こして、座長には連絡を入れているのだろうと思う。今回の昼夜2回の公演で、レイラがトリを務めることも、既に決定済みだ。
「まあ、あれだ。噂そのものが、ちょうど3年ほど前にあたしが聞いた、アートの噂のそっくりそのままのコピーなんだけどね」
「3年前?」
またしても声を揃えて、目を丸くするカナリーとルビーの二人に、レイラは言った。
「ああ。ほんとに、昔あたしが聞いたまんまだね。アートはパトロネスになったハマースタイン未亡人直伝の手練手管でファンの女たちとも寝て、片っ端から手玉に取っているって。細部だけいじって同じあおり文句で幾度も発行されるゴシップ紙のキャッチコピーみたいなもんだね」
3年、というレイラの言葉から、先日アートと貴婦人がしていた話の内容が、ルビーの脳裏にふと蘇る。憲兵騒ぎのあった日の前の夜、半分うたた寝をしながら途切れ途切れに聞いていた会話だ。
貴婦人が夫を戦争で失ったのが、3年前だった。
あのあと機会を見つけてルビーは、心ならずも盗み聞きしてしまったことを奥さまに告げた。意図してのことではないとはいえ、黙っているのはフェアでないように感じたからだ。ルビーの謝罪に対しては、「謝ることはないのよ」と奥さまは微笑んだが、そのあとで言い加えた。
「どんな話が聞こえたのか、教えてちょうだい。半分眠っていたのなら、夢と混じり合って間違った記憶があるのかもしれないわ。間違った記憶は、間違った知識につながることもあるのよ。だから、こちらが必要だと思ったことを訂正させてね」
本当は奥さまは、ルビーが何を聞いていたのかを確認したかっただけかもしれない。
それでも彼女は、ルビーが話し始めると、ルビーにはわからなかったところやあやふやだった点について、丁寧に、わかりやすく補足してくれた。
だからこれは、あとで補足として説明してもらった話の一部だ。
奥さまが見世物小屋を訪ねたのは、軍人だった旦那さんが亡くなって間もなくのことだった。
3年前は、見世物小屋には占いの館があって、占星術師と称した怪しげな老人が占いを行っていたということだった。夫の死因を知るために、街に出て術師を探しまわっていた貴婦人は、手掛かりを得るために、見世物小屋の占い師を訪ねたそうだ。
市井の占い師の中には、副業として情報屋を兼ねているものもいるのだそうだ。
いまは見世物小屋に、そのときの占い師はいない。利益の配分について座長と揉めて、半年もしないうちに出て行ったと聞いた。
アートにはまだ、あの晩夢うつつに聞いていた会話については直接は告げていない。ルビーのアートに関する記憶は、あの日の明け方見た夢の中で、燭台の火を片手に壁の中に入っていった彼の後姿へとつながっていたからだ。
アートに対しては、なぜかルビーはそのことを口に出すのがはばかられるのだ。
というよりもむしろ、決して口に出してはいけないことのような気がするのだ。
ルビーが二人の会話を聞いていたことについては、彼は奥さまからは聞いているのかもしれない。けれども向こうも特に話題にしなかったので、そのままだった。
そもそもアートとは、相手のプライバシーに触れるような込み入った話をする機会も時間もない。練習場では大体だれか別の芸人もいたし、最近ではいつもカナリーが一緒だ。
「その頃ちょうど──」
レイラの声に、ルビーは引き戻される。
「アートの人気が、首都を中心にして、南部全体で急上昇中だったからさ。あれってやっかみ半分の噂だったんじゃないかと思うんだけどね」
カナリーはレイラの話を聞きながらも、不機嫌そうな顔をして、さっきからじっとこちらを見ている。
レイラはカナリーの様子に気づいているのかいないのか、あっけらかんとした口調のままだ。
「カナリー、さっきあんたも言っていたとおり、男に対するのと女に対するのでは、周囲の受け取り方が違う。あの頃のアートに関する噂は、単に彼の芸人人気にケチをつけたいやつが流したものだったんだろう。あいつのことを、ファンを片っ端から食い散らかしてる悪いやつだと思わせようとしてさ。
逆に人魚ちゃんにまつわる噂っていうのは、他人の転落話や不幸な境遇を想像して楽しむってやつだね。だから噂の内容が、とめどなく過激なものに変わっていったりもする。どっちにしても無責任なバカ話だから、まともに受け取るもんじゃないよ」
「だって……」
カナリーは口を尖らせた。
「ロビンが貴族のところに売られていったのは事実よ。貴族がいろんな残酷な遊びに奴隷を使うのは、昔からだわ。だったら、ただの噂と言い切れないことだってあるでしょう?」
噂の過激バージョンの方も、ルビーは実は知っている。
座長からの伝言を何度か伝えてきたことのある、例の女の人が、その噂の真偽についてルビーに直接尋ねてきたからだ。
それは、ハマースタインの奥さまが、ルビーをはじめとして毛色の変わった少女たちを買い集めている、という噂だった。下男を使っていろいろ仕込んだあと、彼女たちを他の貴族へのいかがわしい接待に使っている、という内容だ。
それを聞いたときはさすがに、即座に強く否定した。そもそも貴婦人には他の貴族との交流は一切ない。他人の身体に憑依して押しかけてきた王族の末裔の男が一人いたが、それぐらいがせいぜいだ。
アントワーヌ・エルミラーレン。
権力への執着を剥き出しにした不気味な男だったが、彼にしたところで、噂好きのあの女の人の思い描く退廃的な貴族像とはかけ離れている。
カナリーはやっぱり睨むような目でこちらを見ている。ルビーはサラサラの金髪に囲まれた、お人形のように綺麗なカナリーの顔を見返すと、はっきりとした口調で言った。
「これだけは訂正させて、カナリー。ハマースタインの奥さまは、残酷なことをなさる方ではないわ。相手が奴隷でも、少なくとも、望まないことを無理強いなさる方ではないの」
きっぱりとそう言い切りながらも、ルビーの内心は、本当はほんの少しだけ揺らぐ。奥さまは少なくとも自分に対してはそうだ。相手が嫌だと思っていることを強要するのは楽しくないから望まないとおっしゃった。
でも、他の人たちには?
例えばアートには?
そして、この間から屋敷に詰めている、首相直属の護衛官に対しては?
惑いを振り払うように、ルビーは言葉をつなぐ。
「それに──奥さまはあたしが空中ブランコを習うことだって、許してくださった」
「それだわ!」
ルビーの言葉を聞いたカナリーは、不意に叫んだ。
「あたしが疑問に思うのは、そこよ! どうして? ロビン、あんたは売られていったはずなのに、どうして見世物小屋に舞い戻って来たの? どうしてあんたが空中ブランコを習う必要があるの?」
「あたしが習いたいからよ。悪い?」
「奴隷のくせに。買われてここにきて、用なしになって、売り払われてしまったくせに。あんたはどうして自分で何もかも決められると思ってるの?」
「そんなこと思ってないわ。奥さまが許してくださったから、あたしはここにいる。それのどこに問題があるの?」
ルビーの隣にレイラがいることなど忘れてしまったのように、カナリーはきつい表情でルビーだけを睨みつけてきた。
「あんたを買った貴婦人が、あんたにひどいことをしないんだったら、それでいいじゃない。せいぜい御機嫌をとって、お屋敷でぬくぬくしてればいいのに、どうして危険な空中ブランコなんてやりに戻ってきたのよ。しかも、あんたの持ち主にそうしろと命令されたわけでもないっていうじゃない。何のために? 落ちると死ぬかもしれないのよ?」
「あたしには、カナリーの方こそ何を考えているのかがわからないわ」
そうルビーは切り返した。
「落ちないために、死なないために、練習するんでしょ? まさか練習なんかしなくても大丈夫だって考えているわけじゃないんでしょう? なんで練習しないのよ。座長にはやるって返事したんでしょ。アートが困ってるのだって、わかってるんでしょ?」
「空中ブランコなんかやりたいわけないじゃない。でも、あたしにはほかに道がないんだもの。おじさんはもう年だし、引退が近いって言われているわ。おじさんが火焔吹きを引退したら、座長はあたしを接待要員にするつもりだって聞いたのよ。後援者のじじいたちのところにあたしを送るって。そんなの絶対嫌」
「それもただの噂だろ」
レイラが横からそう口をはさんだ。
「でなくとも、あんたは金で買われてきた人間じゃない。はっきり拒めば座長だって強要はできないはずだ。幸い一座には道具係を始めとして裏方の仕事もいろいろあるんだ。芸人になるのが嫌ならそちらについて仕事を覚えるって道もある」
「舞姫はあたしに芸人になるなっていうんですか?」
カナリーはレイラに向き直ると、ヒステリックにそう叫んだ。
レイラは肩をすくめる。
「いや、あんたいま、芸人やりたくないって言わなかったっけ?」
「裏方なんてもっと嫌に決まってます。みんなからあごで使われる仕事じゃないですか。それに、道具係だって衣装係だって、見習いの人たちを、しょっちゅう怒鳴りつけて、朝から晩までこき使ってるわ」
「でなきゃ、公演関係以外の雑用とかさ。厨房に入るとか、農作業に回るとか……」
「あたしに下働きをしろっていうんですか?」
カナリーに涙目で睨みつけられたレイラが呆れ顔になるのを、ルビーは見た。
「じゃ、結局どうしたいのさ、あんた」
「あたしはブランコ乗りになる以外道はない。それはわかってるんです。あたしが我慢できないのは──」
そこでカナリーは少し我に返ったらしく、ルビーとレイラを交互に見て、言い淀んだ。
「あたしは──」
一度息を吸い込んだあと、意を決したといった様子で、結局カナリーは続けて言った。
「ロビンとではなくて、ブランコ乗りの、アートの相方になりたいの。だからロビン、あんたが降りてくれない? あんたは別に空中ブランコをしなくてもやっていけるでしょ? さっきあたしが、あんたに言いたかったのはそのことよ」




