04 アシュレイの危機
ルビーはこっそりと引き返した。
島への侵入者たちは、塔を壊すという目的を果たした。ついでにあの女の子も島から連れ出して行ってしまうらしかった。
そろそろ気を失った男たちが息を吹き返して、ルビーが逃げたことを報告に来るかもしれない。
もしかしたらまだ気を失ったままかもしれなかったけれど、浜辺に向けて一人でも引き返してきたら、浜辺で伸びている彼らを見つけただれかが騒ぐだろう。
彼らは逃げたルビーを探すだろうか。もし捜そうとしたとしても、島は溢れかえらんばかりの緑に覆われていたから、1日ぐらいは余裕で身を隠していられそうな気がした。あるいはこの隙に人魚の姿に戻って海に潜ろうか。
島の反対側の海はすぐ近くまでサンゴ礁が迫ってきていたから、そちら側に回って潜れば多分見つからないだろう。
人間たちは、モリオンと名乗るあの女の子を”緑樹さま”とか”緑樹の王”とか呼んでいた。”緑樹の王”はすごい力を持っているように見えた。人魚の長老と同じぐらいか、もしかしたらそれ以上かもしれない。この島にいながら風を起こして沖の船を転覆させると言って脅していた。
モリオンは見かけはルビーと同じぐらいに見えたけれども、本当はルビーよりももっと年上なのかもしれない。なぜなら背の高いあの人間の男をアルベルトと呼んでいた。昔馴染みに対するみたいな感じで、年上に接する態度じゃなかった。
人魚の長老は300歳を超えるという噂だったが、つやつやとしたなめらかな白い肌と、綺麗なアッシュブラウンの長い髪を持っている。うろこだって青みがかった冷たい緑色をしていてとても綺麗だ。ただ、声だけは深い洞穴の底から響いてくるような暗くて怖い迫力を持っている。それと目の色もとても深くて怖いのだ。
緑樹の王ってどういう意味なんだろう。北の海に戻ったら、それとなく長老に聞いてみよう。
それにしてもあの男、アララーク連邦国国家元首閣下アルベルトだっけ。なんて長ったらしい名前だろう。あの女の子はすらすらと口にしていたけれど、ルビーだったら絶対噛んでいたと思う。
青々として風に揺れる草の生い茂る斜面を突っ切って、ルビーは島の反対側の海に向かった。草の波が途切れ、目の前に現れた岩場を越えるともう海だ。
海の面が日の光を受けて白く輝いている。暖かい波が、楽しげな音を立てながら、誘うように揺れている。待ちきれなくて、草むらを抜ける少し手前でもう、ルビーは髪を縛るひもをほどいてしまう。
水の中まであともうちょっと。
なのにルビーは海に辿りつけなかった。
厚みのある大きな手に、突然行く手を阻まれたのだ。
男が岩場で待ち伏せしていた。最初ルビーを見て、緑樹さまの婢女だろうと言っていた、あの太った男だった。
そういえば、さっき崩れた塔のところで姿を探したのに見当たらなかった。ルビーは草の波に隠れていたのに、草の波は見渡す限りどこまでも広がっているのに、ルビーがどこから海辺に出てくるのかが、あらかじめわかっていたみたいだった。
「どこに行かれるのですかな、赤毛のお嬢さん」
おどけた調子で男は聞いた。
ルビーは答えるかわりに、さっきみたいに空気を使って男の喉をふさごうとした。が、男が軽く手を上げただけで、空気の流れはぱちんと途切れてしまう。
効かない。
「術を使う人間はグレイハートだけというわけではないんだぞ」
男は太った顔に満面の笑顔を浮かべた。一見人が好さそうにも見える表情なのに、目だけが冷たくてまったく笑ってなくて、なんだかちぐはぐな感じだった。眠ってるふりをしながら海底に張り付いて隙をうかがっている深海魚の目を思い出す。
「側近の男と4人の兵士を倒したのはなかなかの手際のよさだった。だが、そんな子供だましの術はわしには効かんぞ」
ルビーは男の手をはねのけながら、両手を使ってもう一度空気を動かした。
やはり、こともなげに撥ね退けられてしまう。
「効かんといっただろうが!」
男は一喝した。
太った男の手によって、ルビーは再び連行された。
3隻の船は近くで見ると、フォルムも色も装飾も、てんでバラバラだった。
真ん中の船はペリカンみたいにしゃくれた大きな舳先を持つ見事な戦艦で、船の色は白っぽい銀色。さっき塔の前で見た大砲をもっと大きく複雑にしたようなごちゃごちゃとした武器を装備していた。
左側のはルビーの住んでいる海からちょっと南に足を伸ばせば見かけるような、なめらかなフォルムの帆船。でもこれも大きい。そしてほかの二つよりも帆柱が見事で美しい。真っ白な帆が夏の空を背景に、誇らしげに風にはためいている。
右側も帆船だったが、黒塗りの木製で、フォルムが四角っぽくて甲板がほかのふたつよりやや低い。帆も汚れていてみすぼらしい。がまあ、これも見かけたことがなくはない。
ルビーは一番右の、他のふたつより背が低くて少し不格好な船に連れて行かれた。さっきの女の子は”閣下”に連れられて、真ん中の船に乗せられたらしい。
島に上陸したたくさんの人々は、結局使わないままだったつるはしや斧などをめいめいに担いでボートに乗り、次々と、3隻の船に乗り別れていく。彼らがやるはずだった作業を、魔法使いの男が一瞬でやってのけたため、結果として彼らの行進は無駄足だった。なのに、だれ一人文句を言わないのがルビーには不思議で仕方なかった。
人間って変だ。
太った男に連れられて甲板に降り立ったルビーは、振り返って海を見た。ボートはまだ5、6艘海面に残り、母船に引き上げられる順番を待っていた。そのボートからだれかがこちらに向けて何か叫んでいた。
「おーい、来てくれー」
水夫の服を着た男たちが甲板の縁から顔を出して、叫び返した。
「どうしたんだー?」
「銛があるか? 銛を貸してくれ」
「あるが、どうしたんだ?」
船の上からだれかが答えた。
こちらを見上げる若い男の顔が輝いている。
「カジキだ。でかいのがいる。浅いところを泳いでいるんだ。今なら捕まえられるぞ」
「なんだと」
男たちは色めきたった。
「待ってろよ。今届ける」
銛を持った水夫は自分の腰に巻いた命綱を甲板にくくりつけ、海に飛び込んだ。
彼らのやりとりを聞いて、ルビーは真っ青になった。
アシュレイだ!
魚は気はいいが、あまり頭がよくない。ルビーは日が暮れる頃にと約束をさせたが、考えてみればアシュレイに時間の感覚があるかどうか疑わしい。ルビーが見つけやすいように、今からもう海の浅いところを泳いで待っているのかもしれない。
もしもアシュレイが船につかまってしまったら、こんなところに連れてきたルビーの責任だ。こんな島に。こんな、人間に近いところに。
ルビーは甲板の縁に引き返そうと、男につかまれた腕を力任せに引っ張った。太った男も興味があるのか、逆らおうとはせず一緒についてきた。
甲板から身を乗り出して、魚の姿を探す。
光に揺れる波間に映る大きな魚影。
見つけた。
でも、ボートがもうすぐそばまで迫ってきている。ボートには銛を構えた若者。
逃げて。アシュレイ。
あんた、人間に見つかってるのよ。気づいてないの?
あたしの声が聞こえないのアシュレイ。
もう少し近づかないと、心話が届かない。もう少し、あと少し。
ルビーは隣の男をちらりと見る。隙があるのかないのかよくわからない。今から始まる大とりものに気を取られているようにも見える。ぐずぐずしていられない。
ルビーは渾身の力を込めて、つかんだ男の腕を振り払った。よかった。離れた。甲板の縁に駆け上がり、チュニックを脱ぎ捨て踊るように海に飛び込む。途中で靴が脱げ、バラバラに海に落ちていく。
あっけにとられた太った男の姿が、ルビーのエメラルドの瞳にさかさまに写る。
白い泡を立ててルビーは一度海に沈み、浮き上がる。ふくよかな潮の香りがルビーの全身を包む。
アシュレイ、アシュレイ、アシュレイ!!!
みるみる元の姿を取り戻したルビーは、その赤い尻尾を使ってカジキマグロに向けて必死で泳いだ。
アシュレイの尾びれが揺れた。ルビーを見つけた証拠。
馬鹿アシュレイ。もぐりなさい。深く、深く。最速で。
逃げるの。馬鹿。あたしのことはいいから。早く。
アシュレイは不服そうにちらりとルビーを見たけれども、素直にすぐに言うことを聞いてくれた。
驚異的なスピードでぎゅんぎゅん海に潜っていく。
銛を構えた若者が、今まさに打ち込もうとしていた手を止め、振り返ってこちらを見た。
空気を切り裂いて、銛がこちらに飛んできた。
カジキマグロをしとめる銛は特大で、あんなものが命中したら人魚はひとたまりもない。若者はわざと急所を少し外したみたいだった。銛の先がルビーの紅い尻尾の中ほどをザクリと切り裂いて、ボートの上に戻っていく。
痛みでと痺れでルビーは気が遠くなった。人魚の透き通る青い血が海の中に広がって流れた。海面越しの太陽が、血の色で青く染まって見える。
とぷん、と音がして、人間が飛び込んできた。髪の毛をつかまれボートに引きずり上げられたルビーの意識は、急速に薄れていった。
'12.11/25変更「マグロだ」⇒「カジキだ」 ※カジキマグロはマグロではないそうです。