39 名前のない顔
テーブルに近づくと、レイラとカナリーが何か言い合っているのが聞こえてきた。
「……そりゃ、あたしだって正直に言うと、こぶ男は苦手だよ。だってあんなに無駄におどおどされると、まるでこっちが苛めてるみたいじゃないか。見かけが人と違ってたって、鳥女みたいに堂々としてりゃいいのにとは思うよ」
「えーっ? 鳥女? 鳥女も気持ち悪くないですか?」
言われたレイラは肩をすくめる。
「別に。鳥女は普通だよ。無愛想なだけで」
「だってあの、額が割れて頭の中身が出てきたようなビラビラ」
カナリーは言いながら顔をしかめる。
「赤くてぐにゃぐにゃしてて、ほんとに気味悪いったら」
「そうはいうけどカナリー、あんたやあたしの金髪だって碧い目だって、国が違えば薄気味悪いっていわれるんだよ」
「それってどこの蛮族の国の話ですか?」
カナリーは、さっきルビーを苛立たせたばかりの、華やかな笑顔になって聞き返す。
「海の向こうにあるっていう猿人の島ですか? 顔に毛が生えていないから気味悪いとかじゃないですよね」
「猿人の島のことはあたしは知らない。アララーク連邦の中の話さ。山岳地帯には黒髪黒い目の一族しかいない村なんかもあるからね」
「要するに未開の地ってことですよね」
にっこりと、カナリーは笑う。
「でも、そんな未開の村も、いまは連邦のどこかの国の統治下にあるんだから、いずれ情報も行きわたると思います。そうすれば、偏ったものの見方も正されると思うわ」
「いや、別に感性は人それぞれだから。あんたやあたしのような金髪碧眼を気味悪いと思うのを、一概に偏ったものの見方って決めつけるのもどうかと思うけどね」
レイラはそう異を唱えたが、それ以上カナリーに説明するのはあきらめたようだった。
ルビーは二人の会話には参加せず、黙ってテーブルに着いた。
さっきカナリーの言動にむかっ腹を立てたルビーだったが、ロクサムが苦手だというレイラの言葉に反論する気にはなれなかった。というよりも、どう反論すればいいのかわからない。
ルビーにしろ、ロクサムに「人魚さん」と呼ばれてよそよそしい態度をとられたときは、無性に苛立ったのだ。あのときの、自分を卑下するようなロクサムの言動に怒りを覚えたことも思い出す。
大抵の人間は、おどおどされるよりも、ものおじしない態度を好むだろう。むやみやたらと周囲に対して威張りたい人間以外は。
レイラはルビーのトレイに乗った食器の中身を覗き込むと、ほっとしたように口元をほころばせた。
「よかった、きょうはまだ品切れなんかはなかったようだね」
「品切れどころか、なんか無駄に大盛りにしてもらったんだけど……」
器いっぱいになみなみと注がれた煮込み料理に目を落とし、ルビーは困惑気味にそう答える。
"食堂のおばちゃん"と皆が呼んでいる中年の女性が、さっき目の前で盛りつけをしてくれた。彼女は最近ルビーの顔を覚えてくれて、食堂に顔を出す度に、なにくれとなく気を遣ってくれる。
「そりゃ、あんたが痩せ過ぎてるから心配されてるんだよ」
そう、レイラは笑った。
「ていうか、ここのところ痩せただろ、人魚ちゃん。もっとしっかり食べなきゃ倒れちまうよ」
「そうかしら」
ルビーは首を傾げた。痩せたといわれても、自分ではよくわからない。
1日に2度、あるいは3度、規則的に食事をとる習慣がついたのは、人間の住む国に連れて来られてからだった。人魚だったころにはなかったものだ。かつては食事は気ままに、気まぐれにとるものだった。人魚の海にいたころは、海底の洞窟に下っていって、そこから湧き出る泡立つ真水を飲むだけで、何日も、何も口にしなくても元気に泳ぎ回ることができた。
見世物小屋に売られ、アンクレットで魔力を封じられて始めて、食物を口にしないと身体に力が入らなくなるということを知った。けれどももともときちんと食事をとる習慣がなかったから、だれかがこうして食事に誘ってくれないと、忘れてしまうことがある。
人間の姿を手に入れてからルビーは休むことなく動きまわっているから、たまにほかのことに気をとられてしまって食事を抜いてしまうことがあるのだ。
これからは、きちんと力をつけないと、空中ブランコの練習にも差し支えることになる。
もっと気をつけようとルビーは思った。
「ところでカナリー、さっきあたしを呼びだそうとした用事はなんだったの?」
ルビーはさっきの話題に水を向けてみた。自分からカナリーに口を利くのは癪だったが、ここで話を聞いてしまった方がいい。そうすれば、あとで忙しくしているときに呼び止められずに済むだろう。
カナリーは、一度レイラに視線を走らせたあと、ルビーの方を向いてぶっきらぼうに答える。
「あとで話すわ」
「でも、食べ終わったらあたし、舞台裏の小道具の下準備を手伝いに行くから、いま聞きたいんだけど」
「手伝い手伝いって、別に座長はしろと言ってないのに、あんたが勝手に決めてやってるだけでしょ? だれかれかまわず愛想をふりまいて、そんなにみんなからよく思われたいの?」
カナリーの言い方は、相変わらずとげとげしい。
「でもおあいにくね。あんたに関してはここのところ悪い噂でもちきりよ。よく思われようとしたって無駄だから」
ロクサムはルビーに自分のことでも怒るべきだと言っていたが、いま言われていることに関しては、やっぱりルビーはカナリーに対して怒りの感情は沸いてこない。「みんなからよく思われたいのか」というカナリーの言葉は的外れ過ぎて、滑稽に感じられるだけだ。
でも、「みんな」ってなんだろう。
そういえば、ルビーが人間の姿になったばかりのとき、ルビーを避けようとしていたロクサムも「みんな」という言い方をしていた。
あの日ルビーを拒絶しながらロクサムは言ったのだ。
「おいらなんかといたら、みんなに笑われる」
そこにいる「みんな」は、闇の中に突然浮かび上がる、名前のない顔のことだ。他人をねたみ、見下し、あざ笑い、不幸を願い、不幸を喜ぶ不気味な顔だ。
あの、同じ日の晩に、座長に閉じ込められて溺れかけた水槽のルビーを覗き込んでいた幾つかの顔。暗い期待に満ちて、こちらを窺っていたまなざし。それらの視線も、カナリーのいう「みんな」と同じものだとルビーは思った。
ルビーにとって怖いのは、あの眼差しに取り囲まれることではない。
自分の内側に、あの眼差しを取り込んでしまうこと。自分自身が、あの不気味な顔を持つ存在になりかわってしまうこと。
そういった意味で、カナリーという少女は、ルビーから見て、かなり危うげな存在に見えた。彼女は自分がそのようなものに取り込まれ、名なしの存在と化してしまうことに対して無自覚で、無防備に見えるのだ。
レイラがちらりとこちらを見た。会話に割って入っていいかどうかの確認。ルビーはそれを目で制しながら、カナリーに聞き返した。
「悪い噂ってなあに? 本当でないことだったらここで訂正しておくわ」
「知ってるくせに、しらじらしいわね」
そう返しながらカナリーは、もう一度レイラに目をやる。
横でレイラが聞いていることを、カナリーは気にしているらしかった。
恐いもの知らずのカナリーだったが、レイラには一目置いているらしいのが、さっきの会話でのかしこまった口調からも見て取れる。
レイラは座員の間でも、一座の外の人たちの間でも、身もちの固いことで有名だ。恋人もいない。というよりもバカがつくほど、ダンス一筋だ。言い寄る男はあとを絶たないが、端から順に振っていく。どんなに金持ちだろうが身分が高かろうが美男子だろうが関係ない。ただの踊り子のくせにお高くとまっていると揶揄されることもあるが、本人は全く気にしていない。
ブランコ乗りのアートやナイフ投げだったハルや火焔吹きや怪力男などの人気芸人らとは親しいが、あくまでも友人としての対等なつき合いで、さばさばとしていて豪胆な性格は全く女を感じさせない。
ワンマンな座長に言いたいことをずけずけ言うのも、大抵はレイラの役割だったから、そういった意味でも座員たちに頼りにされている。
「どんな噂なの? ちゃんと教えて」
「どんな噂って……」
ルビーの質問に、カナリーは、らしくもなく口ごもった。
「舞姫の前で、下世話な噂を口にするのはちょっと……抵抗あるんだけど」
「あたしは構わないから言ってみなよ」
すかさずレイラは、そう口を添えた。
なおもカナリーは逡巡したが、「いいから」と、レイラに重ねて促されてしぶしぶといった様子で口を開く。
「みんなに言われてるわ、ロビンは所有者になったハマースタイン未亡人直伝の手練手管で男たちとも寝て、片っ端から手玉に取っているって」
「そりゃ、根も葉もない噂ってやつだ」
ルビーが口を開くよりも早く、レイラはさらりとそう返した。
「座員たちもまあ、噂好きだからね。退屈しのぎもあって、どんどんえげつない方に話が膨れ上がっていくのはいつものことさ」
「だって!」
カナリーは不満げにレイラを見た。
「ロビンが貴婦人のところから戻ってきたとたん、座長の態度がころっと変わったのよ。ブランコ乗りだって、ロビンにばっかり熱を上げててほかの女には見向きもしなくなっちゃったわ。楽団の人たちもロビン、ロビンって呼んでこの子ばっかり猫っ可愛がりしてるし、噂が嘘だとしたら、説明のつかないことがたくさんあるもの」
「カナリー」
と、レイラは一つため息をついたあと、言い諭すようなゆっくりとした口調になる。
「大人は好き勝手に適当な噂を撒くけれども、その一方で噂は噂に過ぎないってどこかでわかってて、その信憑性を過信しないもんだ。噂をそのまま信じるのは、あんたが子どもだからだよ。
あと、アートがほかの女に見向きもしないってこたあないだろう。どこに目がついてるんだいと聞きたくなるね」
「あたし、子どもじゃないわ」
カナリーは腹を立てた声になる。
「ブランコ乗りはこの頃、ロビンばっかり目で追ってるんだから。練習場にいたってあたしには見向きもしないでロビンばかり見てるのよ」
カナリーの見解の強引さは、ルビーがめまいを覚えるほどだった。
アートがルビーに目を配るのは、ロマンスめいた理由などではない。ルビーがいつも練習しているからで、練習しようとしないカナリーにはその必要がないだけだ。
アートはルビーの練習をいつも、腕組みをして眺めている。ルビーの動きを眼光鋭くチェックしているのだ。ルビーが空中ブランコを習い始めてからのアートは、いつも口数そのものが少ない。たまに口を開けば大抵は、容赦のない駄目出しだ。
ルビーはそのことを説明してカナリーの言葉を訂正しようと口を開きかけた。ところが、またしてもレイラに先を越された。
「そんなの、別にいま始まったことじゃないだろう」
ルビーの意に反し、レイラはけろりと言い返したのだ。
「アートが人魚ちゃんをずっと目で追ってるのなんて、最初からだよ。人魚ちゃんが人買いに売られて見世物小屋にやってきたときからだ。以前はカナリー、あんたが気づいてなかっただけってことさ」
※4月6日:愛嬌と愛想に関する考察
「愛想を振りまく」は間違いで「愛嬌を振りまく」が辞書に載ってる正しい表現らしいです。
ですが、本文中の「だれかれかまわず愛嬌を振りまいて……」はカナリーの言葉としてはニュアンスが違うので、どう直すべきか悩みます。(まだ直してません)
「媚を売って」ではキツ過ぎます。
「あんたってばホント太鼓持ちー」みたいなニュアンスなんですが。
私の勝手なイメージでは「愛嬌」という言葉は表情とかのコミュニケーション的なものが中心で、「愛想」という言葉は頼みごとなど断らない感じの柔らかさを持っているように捉えています。(勝手なイメージです)
「愛想を尽かす」という言葉がありますが、「愛嬌」は尽きない。
なぜなら「愛嬌」はその人の特質で、相手に与えるものではないから。
(繰り返しますが言葉に対する個人的なイメージです)
にこにこと友好的な態度で接しながらも人からの頼みごとはいつの間にか断ってるかもしれないのが「愛嬌のある人」
断りきれなくて結構なんでも引き受けちゃいそうな人が「愛想のよい人」だったりしないでしょうか?




