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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[三] 見世物小屋と首相の使い
38/110

38 喧嘩の続き

「二人とも、仲良くしなきゃ駄目だろう」

 背筋がゾワゾワするような猫撫で声で、座長は言った。

「これから一緒に空中ブランコをすることになるんだぞ」

「ロビンが先にあたしを殴ったんだから」

 憎々しげにカナリーは言った。

「こんな乱暴な子と一緒に空中ブランコなんてできないわ」


 ルビーはひと目でわかるぐらい赤く頬を腫らし、カナリーは見た限りではほとんど何ともなかったが、カナリーも座長もそのことには触れない。

 といって座長は、ルビーだけを責める気もないらしかった。

「とにかく喧嘩は駄目だ。仲良くしなさい」

 座長は右手と左手の両方で、それぞれルビーとカナリーの手をつかんで、無理やり二人に握手させた。

「ロビンはいつもレイラと食事をしているんだよな。きょうの昼食は、カナリーも一緒に連れて行ってやりなさい」

 カナリーは嫌そうにしていたが、座長は二人の手をがっちりと握らせたまま、上から抑えて離れないようにしながらそう言った。


 ルビーが貴婦人の屋敷から見世物小屋に通うようになってからの、座長のルビーに対する態度は、いままでと明らかに違う。

 いつもにこにこしていて、いつも気持ちの悪い猫撫で声で話す。

 ルビーが他人の持ち物になってしまったということもあるのだろうが、そればかりでもない気がする。

 座長の薄気味悪い態度について、何日か前に舞姫に相談したら、舞姫は笑って解説してくれた。

「そりゃ、あれだよ。座長はいまごろになって、あんたがとっても可愛い子だって気づいたのさ。多分、あんたが人魚だったころには、座長には顔も魚にしか見えてなかったんだろうね」

「どうして?」

 ルビーは不思議そうな顔になる。

 尻尾があったからといって、ルビーの顔が魚だったことは、一度もないのに。

「座長はもともと女の子をあんまりよく見てないから、全体的な雰囲気でしか判断できないのさ。男には一定数いるタイプだね。最近の人魚ちゃん、髪を綺麗に結ってもらって、服も似合うのを用意してもらってるから、いまになって座長の目に止まったんだろうよ」

 座長はカナリーにも、同じような猫撫で声で話す。カナリーは大体仏頂面でそれを聞いているから、カナリーも座長を気持ち悪がっているのだと、ルビーは思う。



 その座長に送り出されて仕方なく、ルビーとカナリーは一緒に食堂に向かった。

 舞姫は先に席についてルビーを待っていてくれた。

 きょうは興行の日で、そろそろ昼の部の最初の演目が始まる頃だったが、きょうのトリを務める予定の舞姫には、まだ時間はたっぷりある。


 食堂はカフェテリア式だが、テーブルには舞姫が運んでくれたのだろう、二人分のランチセットが既に用意されていた。

 ルビーと一緒に入ってきたカナリーを見て目を丸くする舞姫に、カナリーはぶっきらぼうな調子で言った。

「座長命令なの。ロビンと食事して来いって」

「へえ、座長も変な命令を出すねえ」

 首をひねった舞姫だったが、そのすぐあとで、赤く腫れたルビーの頬を見咎め、眉をひそめる。

「人魚ちゃん、どうしたんだい? ほっぺが腫れてる。ああ、カナリーにやられたんだね」

 大体の事情を察したという顔で、舞姫は頷いた。

 舞姫の言い方が癇に障ったらしく、カナリーはぷうと膨れる。

「いっときますけど、先に殴ってきたのはロビンの方だったんですからね」

「ふーん。喧嘩したの。まあ、二人とも座んなよ」

 どっちが先だとかどうでもいいとでも言いたげに、舞姫はカナリーの言葉を軽く流した。


 言われてカナリーはふくれっ面のまま、舞姫の向かい合わせの席に腰を下ろす。

 ルビーはすぐには座らず、カナリーを見た。

「あたしの方からも言っておくわ、カナリー。あたし、あんたのこと、まだ許したわけじゃないから」

 カナリーは黙ってそっぽを向いた。


「んで、座長はあたしに喧嘩の仲裁してもらえって? まあとにかく、人魚ちゃんも座りなよ。よかったらこっちに」

 言いながら舞姫は、自分の隣の椅子を示す。

「あんたたち、喧嘩の続きをここでしてもいいけど、取っ組み合ったり食べ物をひっくり返したりはなしだよ」

 言いながら舞姫は、自分の分のトレイを隣の席にそっと押して移動させる。

「ランチもう一人分もらってくるから、座って待ってな」

「レイラが座ってて。あたし取ってくるから」

 立ち上がろうとする舞姫を押しとどめて、ルビーはカウンターへ向かった。


 ブランコ乗りをアートと呼ぶことに慣れたように、ルビーは舞姫をレイラと呼ぶことにも慣れた。でもレイラの方は、なかなかルビーを新しい名前では呼んでくれず、相変わらず人魚ちゃん(セレニータ)と呼んでいる。

 とはいえ、実のところルビーは、舞姫にそう呼ばれるのが嫌なわけではない。


 だれにも言わずにいることだけど、尻尾が無くなっても本当のルビーはやっぱり人魚だ。

 だれにも話せずにいることだけど、いつも胸の奥の方で、海のとどろきが遠く懐かしく呼んでいる気がするのだ。

 だれも知らないことだけれど、自分に重なるようにして存在している大きな魚の影も、ずっと海を懐かしがっている。


 それでもやっぱりルビーはいまは、空中ブランコを習いたかった。

 大天井おおてんじょうから見下ろす、深海の底のような客席のさざめきとどよめきが、ルビーの知りたい何かにどこかでつながっている。そんな気がしていた。


 ゆらゆらと木漏れ日のあたる食堂の椅子に、レイラと向かい合わせに座っている金髪の少女カナリー。彼女がルビーの空中ブランコの相方になる予定だった。

 座長に言われるまでもなく、ルビーはどこかでそれを受け入れている。

 

 カナリーの遠縁であり保護者にあたる火焔吹きの技は、ひどく身体を酷使するものだ。

 油を口に含み、勢いよく噴き出しながら、それに火をつけるのだ。

 火焔吹きの場合は幾つかの風船に入れた油を口の中に隠し、順にそれを破って噴き出していく。なので彼の技は、素人がちょっとした余興に見せる火吹きの技とは一線を画する大迫力だ。火を吹いている時間も長い。ケタ違いの肺活量と体力が要求される。

 それに、多量の油は身体に毒だ。毒は少しずつ身体じゅうにまわり、じわじわと健康を蝕んでいく。よって火焔吹きは長期にわたって続けられるパフォーマンスではなく、彼はいずれ体力の衰えとともに引退を余儀なくされるはずだった。

 カナリーの庇護者がいずれ人気芸人の地位を失うことは、周知の事実だ。

 彼女は遅かれ早かれ、見世物小屋で生き抜くためには自分で自分の食いぶちを稼げるようになる必要があるのだ。


 カナリーが自分のあやふやな立場に関して、どれほどきちんと見通しを立てているのかはわからない。座長が持ちかけた話を承諾したのも、師匠のアートに対して反抗的なのも、はっきりいって行き当たりばったりであるように、ルビーには思える。

 カナリーはいまは、火焔吹きのために用意された個室を火焔吹きに譲ってもらって使っている。当の火焔吹きは、大部屋で他の芸人たちと寝起きをともにしている。

 座長も人事担当もそのへんの裁量は火焔吹きに任せていて何も言わないが、いずれ彼が個室を次の花形芸人に譲る時期になったら、カナリーは個室を追い出されることになるだろう。もしもそれまでに彼女自身が一人前の空中ブランコ師になるか、それに匹敵するような別の曲芸を身につけるか、あるいはどこか別のところに居場所を見つけて見世物小屋を出て行くのでなければ。

 けれどもカナリーは、自分がそんな背中合わせの状態でいることに、まるで気づいていないようにも見えた。


 アートがカナリーを持て余している以上、彼女を空中ブランコの世界に引っ張り込むのはルビーしかいない気がしている。

 でも、どうやって?

 自分だってまだ入り口の、ドアの外で、その世界に入る術を手探りで探っているような状態なのだ。


 本格的に練習を始めて10日とちょっと。練習場にある腰の高さぐらいに低く張ったロープの上を、一度も地面に落ちずに渡り切るという、ただそれだけのことが、ルビーは未だに完遂できずにいる。

 アートはそこで片手でロープをつかんで倒立して、そのあと身体を斜めに捻りながらバク宙して再びロープの上に着地して見せた。そして、バク宙はともかく逆立ちでロープの上を歩くぐらいはできるようにならないと……と軽く無茶ぶりされている。

 けれどもいま現在、逆立ちで渡り切るどころか、普通に歩いて渡り切ることがルビーはできないでいるのだった。


 トレイを手に、二人の待つテーブルに戻りながらルビーは、とりとめもなくそんなことを考えていた。

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