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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[三] 見世物小屋と首相の使い
37/110

37 導となる名前

 お母さんがつけてくれた名前でなくても、ロクサムはロクサムだ。

 やっぱりルビーはそう思ったけど、どう口に出して言えばいいのかわからなかった。だから追いかけてきたものの、井戸水を汲むロクサムの手元を、ルビーは黙って見ているばかりだった。


「あのさ、ロビン」

 汲み上げた水で、ざっと泥汚れを落とす手を止めて、不意にロクサムは振り向いた。

「いまのはロビンが悪いと、おいら思う」

 ちょっとためらう顔を見せたものの、それでもどもることなくロクサムは言い切った。

「えーと、殴っちゃだめだよ。それも人の顔を。女の子の顔だし、傷がついたら大変だよ」

 それから、ロープを手繰って、くくりつけてある桶をもう一度井戸の底に落とす。

 ロビンは、別の桶に結わえつけたロープを、ロープ同士が絡まないように気をつけて、井戸の底から手繰り寄せた。

「だってカナリーが……ロクサムの悪口を言ったんだもの」

「カエルみたいだってこと? いいよ、そんなの。別に言われ慣れてるし」

「ロクサムがよくても、あたしは嫌なの!」

 ルビーの強い口調に、ロクサムは戸惑った顔になる。

「おいら、ほんとに気にしないんだけどな。それに、おいら、カエルは嫌いじゃない。愛嬌のある生き物だし、鳴き声だって可愛いもんじゃないか」

「あたしだって、カエルはどっちかっていうと好きだけど、そういうことじゃなくて……」

 ルビーは言葉に詰まった。

 ルビーだってカエルを否定したいわけではない。水に棲む生き物だし、生まれたときは尻尾があって途中で足が出てきて尻尾が消えるなんて、まるで自分みたいだと思うから親近感もわく。

 ヒキガエルと言われたことそのものが悔しかったわけではないのだ。ただ、ロクサムを貶めて傷つけようとする相手の意図が、悪意がルビーは許せなかっただけなのだ。


「それに……」

 ロクサムは少し考え込むような声になる。

「怒るところが違うと、おいら思う。おいらのことよりも、ロビンは自分のことで怒ればよかったのに。ロビンの御主人のことやブランコ乗りのことで、本当じゃないこと、あんな風に言いたい放題言われて聞き流すなんてさ」

「え?」

 ロクサムが聞き咎めたのは、最初カナリーがルビーを呼び止めたときの言葉だ。ハマースタインの奥さまのお手つき。ブランコ乗りを手玉に取っている。座長に取り入っている。ルビーにはまるで心当たりはないが、どれも座員の間でまるで事実のようにささやかれてている。

「だって……あれって別にカナリーが言い出したことじゃなくて噂だもの。変に誤解してるのは別にカナリーのせいじゃないし、あたしはロクサムやレイラが事実を知っててくれればそれでいいの。でも、そうね」

 一度はそう言い返したルビーだったが、少し思い直す。ロクサムのことを好き勝手言われて不愉快だったように、本当は自分のことやアートや奥さまのことについても不愉快に思うべきなのだ。

「わかった。機会があったら面倒がらずに訂正することにする」

 そう頷いたルビーだったが、実のところどう訂正するかは結構頭の痛い問題だ。ハマースタインの奥さまやアートについて、どこかに「そんな人たちじゃない、誤解しているんだ」と言いきれない何かがあるせいだ。


 ルビーがそう考えながらも自分の汲み上げた水を野菜の籠にかけようとすると、ロクサムは「待って」と止めた。

「その水で、先にほっぺ冷やした方がいいかも。赤くなってる」

「え?」


 言われてルビーはひっぱたかれた左の頬に手をやった。確かにヒリヒリして、熱を持ってきている。力まかせに反撃してきた相手の手が、思い切りヒットしたのだ。


「あの子が殴り返してきたから、結果的にはおあいこっていえばおあいこだったんだよね……」

 と、ロクサムは気遣う口調になってルビーを見上げた。

「布かなんかを濡らして当てた方がいいかなあ? 持ってこようか?」

「このままで平気。ありがと」

 ルビーは桶の水を両手ですくって、熱を持った頬を冷やした。井戸の水はやっぱり冷たくて新鮮で気持ちいい。


 カナリーも、あの勢いと気迫が空中ブランコの習得に向けばいいのに。ふとそんな風に考えると同時に、そんなことを考える自分がルビーはおかしくなった。

 たかだか10日分ほど余分に教わっているだけのことで、自分だって全然まだまだなのに、無意識のうちに上から目線になっている。カナリーはそういうルビーの心の動きを敏感に感じ取っているのかもしれない。

 憲兵の隊長は見世物小屋の芸人を見下し、貴族の男は平民を見下し、カナリーはロクサムを見下す。ルビーはそれを腹立たしく感じる一方で、どこかで滑稽だとも感じている。

 けれどもルビーが自分でも気づかないうちにカナリーを下に見ていたのだったら、人ごとではない。

 それでも。

 ロクサムについてカナリーが勝手なことを言うのは、やっぱり許せない。第一ロクサムは、アートとも空中ブランコとも全く関係ないのに。カナリーにとやかく言われる筋合いなど、全然ないのに。

 さっきの言葉を思い出したら、ルビーはまたカナリーに腹が立ってきた。


「ねえ、ロビンは、カエル好きなんだね?」

 ロクサムは、ルビーが考えていることとはまったく別のことが気になっている様子だった。

「すごいや。おいら、女の子はカエルとかヘビとかイモリとか、ああいった生き物は苦手なんだと思ってた」

「どうして? 見世物小屋のヘビ使いだって女の人じゃない」

「だって、あの人うんと年上じゃないか。でもまあ、あの人は確かに変わってる。以前はコウモリを使った芸を披露してたんだって」

「コウモリ使いだなんて、すごいね。でも、やめちゃったの? どうしてコウモリをやめて、ヘビ使いになったのかな?」

「おいらは人から聞いただけなんだけど、流行り病(はやりやまい)を連れてくる原因になるって言って、座長が全部焼き払っちまったって」

「コウモリを焼いちゃったの?」


 それは残酷な話だ。想像してルビーは顔をしかめた。どこかの洞窟から捕まえてきたんだったら、洞窟に返しに行けばいいだけなのに。

「それ、可哀想だね」

 ルビーが言うと、ロクサムは頷いた。

「ほんとだよ。焼くんじゃなくて、洞窟に返しに行ってたらよかったのに。コウモリにとっても、ヘビ使いにとっても」

 ロクサムが自分と同じように考えているのがわかって、ルビーは少し安心する。けれども、あらかた汚れを落とした野菜の籠を持ち上げようとするロクサムの顔を、すぐ隣から覗き込もうとしたら、やっぱりロクサムは慌てて目を逸らしてしまった。


 ロクサムが歩き出したので、ルビーも立ち上がってあとを追う。

「ヘビ使いは座長に抗議しなかったのかしら?」

「座長が突然思いつきで行動するのは昔からなんだ。ヘビ使いは、止める間がなかったって聞いたよ」

「それはわかる。あたしが奥さまのところに行くことになったのだって、カナリーが空中ブランコを習う話だって、全部突然決まったことだもの」


「そのことだけど、ロビン……あのさ……」

 何か言いかけて、不意にロクサムは口ごもった。

「なあに、ロクサム?」

 ロクサムは口ごもったきり、言おうかどうしようか迷ってたみたいだった。

「……やっぱりなんでもない」

 彼は首を振ると、ゾウ舎に向かう歩調を早めた。

「急がなくちゃ。ゾウがおなかを空かせて待ってる」


 

 ゾウ舎の前に、カナリーはもういなかった。

 ルビーがひっぱたいてしまったことから物騒な相手と思われて、二人きりで話をすることは、あきらめたのかもしれない。でも、大事な話があるとか言っていたから、あとでまた来るかもしれなかった。


 ゾウ舎は屋根のある部分と屋外の庭の部分とで、半分ずつになっている。真ん中を仕切るのは重くて頑丈な鉄製の柵だ。それを開けたり閉めたりすることで、ゾウに踏まれる危険を避けて、掃除をしたり、新しい干し藁を撒いたりできる。

 ルビーはロクサムに教えてもらって、長い柄のついたレーキで古い干し藁を集めて、大きな麻のゴミ袋に入れる。もっともゾウは撒いている干し藁も大体食べてしまうので、余り残っていない。

 ロクサムはその間に作業用の特大のフォークを使ってフンを片付け、捨てに行く。

 水を流しながらルビーがデッキブラシで床をこすっている間に、集めた干し藁をロクサムは焼却場に運ぶ。そのあと二人で新しい干し藁を撒いた。

 干し藁を食べてしまうときは、ゾウの餌が足りていないときだと、ロクサムは説明した。とにかく大量に食べるから餌は大量に、1日に何度でも運ぶ。

 水は水槽が置いてあって、その中に桶でどんどん入れていく。

 ゾウはたくさん飲むし、水浴びもするから、入れても入れても水は無くなっていくんだそうだ。でもいまは、早朝のうちにロクサムがたっぷり水を運んでいたから、大きな水槽の中には新鮮な水がなみなみと入っていた。


「時間があるときは、水をかけながら身体を洗ってやると、ゾウは喜ぶんだ」

 ロクサムはそう説明した。

「きょうは、もうじき猛獣の餌が届くから、洗ってやれないけど」

「今度あたしもやってみたい」

「直接ゾウと同じケージの中に入るのは、ゾウが慣れてからでないと危ないんだ」

「あたしにも慣れてくれるかな?」

「ゾウが慣れるには相当時間がかかるっておいら、前に聞いたけど、ロビンだったら大丈夫な気がするよ。だってきょうはゾウが楽しそうにこっち見てるから」

 言われて、鉄柵の向こうで待っているゾウに、ルビーは目をやった。

 ロクサムが3度に分けて運んだ餌をのんびりと食べながら、柵を開けてもらうのをゾウは待っているようだった。


 大変な仕事だったけど、ロクサムは手際が良かったし、ルビーは掃除が上手いと言ってロクサムに誉めてもらった。ロクサムがちょっと得意そうにしているのも、ルビーにはなんだか嬉しい。



「ねえ、ロクサム」

 ルビーは迷ったけど、結局思ったことをそのまま口に出して言うことにする。だって、言わなければこういうのって、絶対伝わらない。

「あのね、あたしにとっては、ロクサムはロクサムよ。お母さんがつけてくれた名前でも、そうでなくても」

 ロクサムはちょっとびっくりしたようにルビーを見たあと、小さく頷いた。

「うん。ありがと、ロビン」


「でね、ロクサム」

 ルビーはさらに迷ったけど、何とか言葉を選びながら話を続けようとする。

「あたしはそれでいいんだけど、あなたは?」

「へ?」

 きょとんとした顔でロビンを見返すロクサム。

「おいらが、何?」


「もしもロクサムが、お母さんのつけた名前を知りたかったら、きっと、調べる方法はあると思うの。ロクサムって町が本当にあるのだっだら、そこに行って昔のあなたや、あなたのお父さんやお母さんを知っている人を探せばいいと思うの。

 ごめんね、あたし、ロクサムの名前が生まれたときからの名前じゃないって前提で話してる。でも、聞いてくれる?」

 上手く言えなくて、もどかしい。

「あのね、あなたをロクサムって最初に呼んだ人がいたのよね。その人きっと、あなたが生まれたときにつけてもらった名前がわからなくて、でも、もしかしてあなたが知りたいと思ったときに手がかりになるようにって、あなたをロクサムって呼ぶことに決めたんじゃないかと思うの」


 あの女の人やカナリーは馬鹿にしていたけれども、ロクサムという名前に、何の想いも込められていないとはルビーには思えない。

 昔、ロクサムの世話をしていた舞姫と呼ばれていた人は、病気で亡くなってしまったのだという。自分がもうあまり長くないとわかっていたなら、小さなロクサムにいろいろなことを伝えるのが無理だから、せめて自分の生まれた町を忘れずにいられるようにとの願いを込めて、彼をロクサムと呼んだのかもしれない。

 そしていつか、ロクサムがどこでどう生まれたかを知りたいと思って探しにいきたくなったら、そのしるべとなるようにと。

 だって、自分の本当の名前は人間にとって、とても大事なものなのだから。


 もちろんロクサムは自由の身ではなかったから、行きたいと思ったからといって、好き勝手に自分の故郷を訪ねることなどできない。

 それは、ルビーだってわかっているのだ。

 それでも、彼をロクサムと呼んだ人が考えたかもしれないことを、ロクサムという名前に込められた可能性についてを、ルビーは言葉に出して確かめたかったのだ。


 ロクサムは少しびっくりした顔でルビーの話を聞いていたが、戸惑った声で、ぽつりと言った。

「おいら、そんな風に考えたこともなかった」

「ロクサム、その人のこと、覚えてる?」

「か、かあちゃんのこと?」

「うん」

 やぶにらみ気味の目を少し見開いたロクサムに、ルビーは頷き返す。


 ロクサムはかぶりを振った。

「ううん。あんまり、よく覚えていないんだ。おいらが歩いてたら、後ろからロクサムってやさしい声で呼ばれて、上から伸びてきた大きな手で、手を引っ張られて一緒に歩いたとか、そんなことしか覚えてない。顔とかも黒っぽくてなんかぼんやりしてる。だから……」

 ロクサムは少しうつむいてぼそぼそとした声になる。

「それがかあちゃんじゃなかったんだってだれかに言われても、おいらには何も答えられないよ。だってよく覚えてないんだし。ただ、おいらはその人のことをかあちゃんと呼んでたんだ」

「そっか」

 ルビーは頷いた。


 すると、ロクサムはルビーを見て、小さくためらいがちの声で何か言った。

「もう……もう一つ、覚えてることがあるんだ」

「え?なあに?」

 よく聞こえなかったルビーは顔を近づけて尋ね返す。

「もう一度言って」

「かっ……かあちゃんが、歌を歌ってくれた。歌、歌をおいら覚えてる。2曲しかないけど、でも、ロビンに……その、よかったら、あっ、あの……」

 ためらいがちに、ロクサムはそう切り出した。

「その歌、ロビンに教えられたらどうかなって。お、おいらに聞かなくても、ほかの人がロビンに歌を教えてくれるから、おいらは全然およびじゃないのかもしれないけど。さっき、おいらそれを、ロビンに言いたかったんだ」


「およびじゃないって、どうして?」

 ルビーはびっくりして言った。

「あたしがロクサムに歌を聞くのを思いつかなかったのは、ロクサムとは話がしたかったからよ。だってロクサムはいつも忙しいし、歌とか聞いてたら、こんなふうに会話できないもの」

「でっ、でもおいら、ロビンの役に立ちたいんだ。あんまり役に立つことって思いつかないけど、ちょっとでもいいから、できたら、だけど。だっ……駄目かな?」

 そんな風に聞かれて、ルビーは急いで首を横に振った。

「駄目じゃないわ。全然。わかった。あなたがお母さんに聞いたって歌、教えてくれる?」

 ルビーの言葉に、嬉しそうな顔になってロクサムは頷いた。


「ねえ、ロクサム。ロクサムには、その人がお母さんなのね」

 ルビーは少し屈みこんで、すぐ近くからロクサムの顔を覗き込んだ。

 ロクサムがどこかからもらわれてきたとか、世話をしていた血の繋がっていない団員の一人を母親と思っていたとか、そんなことはある意味どうでもいいことのような気がした。

「ロクサムって名前、やっぱりすごく素敵な名前だと、あたし思う」


 不意打ちを食らったせいかロクサムは、くっつきそうなぐらい近くにあるルビーの顔を避けるのも忘れて、目を丸くしてルビーの目を見返してくる。が、その直後、我に返ったようだった。彼は、うわっ、と叫んで後ろに飛び退き、盛大に尻もちをついた。

「ロクサム!」

 びっくりして思わず駆け寄ったルビーだったが、交換したてのふかふかの藁屑の上だったから、ロクサムは怪我をした様子はなかった。しかし彼はひどく慌てた様子で身を起こし、猛烈な勢いでレーキやフォークや藁をのせた木箱などを片付け始めた。


「そっ、そろそろライオンの餌が届く頃だから、おっ、おいらもう行かなきゃ。その前にゾウ舎の柵を開くから、ロビンは先に小屋から出てて」

 ロクサムはもう振り向かず、ゾウ舎と庭とを仕切る重い鉄柵を動かそうと走って行ってしまう。

 町はずれの鐘つき堂から聞こえてくる11時のチャイムは、さっき鳴ったばかりだった。

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