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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[三] 見世物小屋と首相の使い
36/110

36 トラブルメーカー

 ロクサムの素っ気ない態度についてルビーは、ブランコ乗りのアートにも相談してみようと思っていた。

 けれども彼はいま、別のことで悩んでいるようだったので、ルビーは自分の話を切り出しにくかった。


 アートの弟子として空中ブランコを習っているのは、この間からルビーだけではなくなった。突然、座長が決めて、もう一人の女の子にも教えることになったのだ。

 これまでナイフ投げのまとの役をしていた少女だった。名前をカナリーという。

 光そのもののようなきららかな黄金色の髪と、ルビーとよく似たきれいな碧の目をしている。覗き込むとその瞳は、ルビーの色よりも少し明るい。ルビーが深いエメラルドの色だとしたら、ペリドットのような淡い緑色だ。年の頃はルビーと同じぐらい。ルビーより少し背が高くて大柄だった。そしてとても綺麗な子だ。


 座長がカナリーを新しいブランコ乗りに仕立て上げることを思いついたのは、ルビーが見世物小屋に戻ってきたときに、ロビンと名乗ったことがきっかけだったらしい。

 駒鳥ロビン金糸雀カナリー。赤い鳥と黄色い鳥の組み合わせは、空中ブランコのコンビのイメージにぴったりではないかというわけだ。

 おまけにこれで、男女1対1のペアにならずに済む。二人の少女を組ませれば、アートのファンの女性たちの神経を逆なでするのを避けられると、座長は考えたようだった。


 ところが、アートは、その子に教えるのに苦労しているみたいだった。

 教えるのに、というよりも、扱いに困っているといった方がいい。


 カナリーは火焔吹きの遠縁の少女で、ほかに身寄りがなかった。火焔吹きを頼ってきて、半年前の春から見世物小屋に身を寄せていた。

 奴隷ではないが、どこにも行くあてがない。

 火焔吹きとは似ても似つかぬ、やたら綺麗な子だったから、ショーを盛り上げるナイフの標的の役にはうってつけだった。

 ただし、見たところ身体能力はあまり高くない。その上、空中ブランコを本気で習う気があるのかどうか、いまいちよくわからなかった。


 ストレッチも逆立ちもしたがらず、筋力をつけるための基本のトレーニングすらまともに続かない。疲れたといってすぐに休もうとする。

 最低限必要なことが何一つこなせないので、こなせるようになるまで何度でもやらせようとすると、「ロビンにだけ優しくて、あたしにばかりキツく当たるなんてひどい」と言って泣き出した。


 そしてアートは女の子に優しくするのは得意でも、厳しく指導するというのが、どうやらとても苦手らしい。

 しかし彼は空中ブランコの弟子は女の子扱いしない、と自分の中で線引きをしているらしく、ルビーに対しても以前のように意味もなく持ち上げたり誉めたりすることも、ちょっかいを出すことも一切なくなった。

 ルビーはその徹底ぶりを、いっそ清々しいと感じていたが、カナリーは違うらしかった。


 アートはおよそほとんどの女性に対して適当に調子のいいことを言ってきたみたいだから、カナリーも口説き文句の一つや二つは聞かされてきたのだろう。

 座長が話を持ちかけたとき、カナリーは彼との甘いロマンスを夢見てそれを承諾したらしい。どうやら彼女は、その当てが外れてむくれているようだった。やる気のなさの原因はそのあたりにあるらしいのだ。


 アートがいまの素っ気ない態度を少し軟化させれば、耳当たりのよい幾つかの言葉をささやいて、彼女にやさしく微笑みさえすれば、カナリーは機嫌を直してあるいは稽古にも励むのかもしれない。

 しかし、彼はそれをする気は一切ないらしい。それでいながら、自分がそういう態度をとっていることも、それが原因で女の子がめそめそ泣いている状態も、アートに多大なストレスを与えているように見えた。


 もちろんアートはルビーにも厳しい。カナリーの言うように「ロビンにだけ優しい」などということは絶対ないと言っていい。

 ルビーへのレクチャーは最初、空中ブランコを支えている天井裏にある接合部分の整備と点検から入ったのだったが、ダミーの板を使って、実際にナットとボルトの締め方を何度も練習させられた。緩くても、固く締めすぎてもいけないらしい。

 整備と点検についても、基礎体力づくりも、バランス感覚と反射神経をやしなうことについても、アートのよしとする基準はとてつもなく高く、真剣に努力すればするほどゴールまでの遠さを思い知らされてしまうルビーだった。


 が、カナリーはある種の思い込みが強いタイプらしかった。ルビーは一方的に恋のライバル視されていて、しかも逆恨みされているようだ。彼がカナリーに冷たくなったのはルビーが原因だと、なぜか思われているようだった。



 そのカナリーがいま、道の先にいた。

 ゾウ舎の前に陣取って、ロクサムとルビーの行く手に立ちふさがっている。遠目に見ても、相当目立つ綺麗な子だ。長い金髪が午前の光を浴びて、きらきらと風に揺れている。

 朝、大ホールのある建物の一角にある練習場に行ったときは、居なかったのに、なんでいまごろいるんだろう。

 まさか、これから練習につきあえとかいうんじゃないだろうか。ルビーは不意に心配になった。そんなことを要求されたら、せっかく初めてやらせてもらえるはずの、ゾウ舎の掃除ができなくなる。

 もしカナリーが練習する気になっているのだとしたら、本当は何があっても誘いを断らない方がいい。いまはぎくしゃくしているけれども、カナリーはルビーの空中ブランコの相方になるはずの子なのだ。

 でもいまはルビーにとって特別な時間だ。何とかして、ちょっとだけ待ってもらって、あとにしてもらおう。

 籠を両手に抱えたロクサムと一緒に歩きながら、ルビーはそう考えて、緊張した。


「ふーん」

 近づいていくと、カナリーは、並んで歩くルビーとロクサムを、交互にじろじろ見た。

「あんたってば、だれにでも愛想がいいんだ。けど、よりによってなんでこぶ男なのよ」

「なんの用?」

 カナリーはそれには答えない。黙って腕組みをして、じろじろ見るばかりだ。

「用がないなら、そこをよけて。ゾウ舎に入れないわ」

「顔貸してよ、ロビン。あんたに話があるの」

 カナリーは腕組みをしたまま顎をしゃくった。ルビーは首を振った。

「悪いけどあとにして。これからゾウ舎の掃除をするんだから」


「それ、こぶ男のやることじゃん。あんたは別に仕事しなくていいんでしょ。ハマースタインの奥さまのお手つきで、いまでは所有物。ブランコ乗りのアートも手玉にとってて、どうせ座長にも取り入ってるんでしょ」

 単なる誤解なのか恣意的に捻じ曲げて解釈しているのかはわからないが、半分以上事実ではない。が、訂正するのも面倒だったので、ルビーは短く言った。

「話って何?」

「だから、来てよ」

「嫌よ。話なら手短に言って。それか、あとにして」

「いま、あんたに用があるの。大事な話よ。一緒に来て」

 カナリーの態度は、あくまでも強引だ。

 ロクサムはおろおろして、二人を見比べている。


「だったら話はゾウ舎の中で聞く。そこをよけて、あたしたちを通して」

 カナリーは顔をしかめた。

「じょうだんでしょ。ゾウ舎の中に入るなんてお断り。けものくさいったら……」


 これ以上入口をふさいで粘られると、ロクサムにも迷惑がかかる。

 ひとつため息をつくと、ルビーはロクサムを振り返った。

「先に入ってて、ロクサム。なるべく早く──すぐに、戻ってくるから」

「わかったよ、ロ……ロビン」

 ロクサムはうなずいたが、なぜかルビーの新しい名前を呼ぶときに、少しどもった。


 が、そのあとがいけなかった。

 カナリーのすぐそばを通り抜けようとしたロクサムの抱えた籠が、カナリーの肩に当たったのだ。

「なにすんのよ、汚いっ!」

 反射的に、カナリーは籠を突き飛ばした。

 取り落としそうになった籠を持ちなおそうとして、ロクサムはバランスを崩し、そのままよろけて突っ伏すように地面に倒れ込んだ。

 倒れながらも籠をかばったから、かろうじて全部ひっくり返すことだけは避けられたけど、衝撃で中身が半分以上こぼれ落ちてしまう。

 ロクサムは急いで身を起こすと、地面に転がった野菜の切れ端や果物のくずを、かき集めて籠に戻し始めた。


 ルビーも急いでしゃがみ込んで、ロクサムを手伝う。

「ロクサム、大丈夫?」

「せっかくのリンゴが土だらけになっちゃったよ……ゾウの大好物なのに……」

 怪我はないかとルビーは聞いたつもりだった。でも、ゾウの餌のことしか頭にないロクサムは、情けなさそうにそうつぶやいた。

 転がっていったリンゴを2個、3個と拾って籠に戻しながら、ルビーはカナリーを見上げた。


「手伝ってよ」

「嫌よ、それゴミじゃない。汚い」

「ゴミじゃないわ。ゾウの餌よ。それにあなたが突き飛ばしたからこぼれちゃったんじゃない」

「い・や・よ」

 仁王立ちのまま、カナリーはルビーを睨んでくる。

「それより早く来て。そんなのこぶ男にまかせときゃいいじゃない」

「ロクサムに謝りなさいよ」

「なんで? ぶつかってきたのはこぶ男じゃない」

 憎々しげに、カナリーは下唇を突き出した。

「みっともないこぶ男のくせに、あたしにぶつかってくるなんて、おぞましい。わざとじゃないでしょうね? だったらあたしにだって自分の身を守る権利ぐらいあるもの。突き飛ばされても当然でしょ。もう二度と近くに寄ってこないで」

 自分が彼の通り道をふさいでいたことなど、はなっから頭になかったらしい。


「なに見当違いなこと言ってんのよ。ロクサムはただゾウ舎に入ろうとしただけじゃない」

 ルビーは立ち上がって、カナリーを睨み返した。

 ロクサムは無言で、まだ餌を拾っている。


「なによ。当てつけがましく落ちたゴミなんか拾っちゃってさ。何をやってもぶかっこうで醜いのね、こぶ男って。地面に這いつくばってる姿なんて、ヒキガエルにそっくり。そのうちゲコゲコ鳴き出すんじゃないの? おかしいったら」

 こぼれるような華やかな笑顔を見せて、少女は言い放った。

 ルビーの喉元から急激に赤い何かがせり上がって来て、頭の後ろの方で炸裂した。


 パシッ!


 自分の手がカナリーの頬をひっぱたく音を、ルビーは人ごとのように聞いた。気づいたときはもう手が出ていた。


「なにすんのよ!」


 バシィィッ!


 今度は自分の頬が張られた。体格のよい相手に思いっきりひっぱたかれてルビーはよろけたが、踏みとどまって、改めてカナリーを睨みつける。

 カナリーも自分の頬を抑えながら、ルビーを睨み返してくる。


「ロクサムに謝んなさいよ」

 ルビーは声を荒げた。

「なんてこと言うのよ。謝って!」

「あたしのこと、ぶったわね、ロビン。この暴力女。野蛮人。顔にあとが残ったらどうしてくれるのよ」

「ロクサムはカエルじゃないわ。人間よ。謝ってよ、カナリー」


「だれもそんなこと言ってないじゃないの」

 カナリーの顔に嘲笑が浮かぶ。

「こぶ男がカエルじゃないことぐらいバカでもわかるわよ。見た感じがそっくりって言っただけじゃないの。そんなんで怒っちゃってバカみたい。

 それに、ロクサムって、こぶ男を拾った町のことでしょ? あたし、先輩から聞いたんだから。それ、名前じゃないって。こぶ男が勘違いしてるだけだって。それをあんたまで勘違いして、ロクサムロクサムって連呼してバカみたい。そいつはただの名無しでしょ」


 ルビーははっとして、思わずロクサムを見た。

 こぼれ落ちたキャベツの芯をぜんぶ拾い終えたロクサムは、ちょうどこちらを見ていた。

 が、ロクサムは、いまのやり取りについては何も言わず、よいしょと重い籠をもう一度抱え上げた。

「ロビン、おいらこれを、井戸の水で少し洗ってくるよ」

「あっ、あたしも行く」

 もう歩き出しているロクサムを、ルビーは慌てて追いかけた。


「待ちなさい。話があるっていってるでしょ」

 カナリーの声が後ろから追いかけてきたが、ルビーはそれを無視した。

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