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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[三] 見世物小屋と首相の使い
35/110

35 ロクサムと一緒

 ほとんどの人の予想とは違って、逃げ出したナイフ投げは結局見つからなかった。

 あの日は早朝から、市境のすべての街道はたくさんの兵で封鎖された。港を離れる船も一隻ごとにチェックされた。登録庁にある人相書きに基づく検問が、一人一人に実施された。それにもかかわらず、彼は煙のように消え失せてしまった。

 あるいは、どこかで知り合いにかくまわれて、まだ街中にひそんでいるのかもしれない。

 どちらにしても、手掛かりはなかった。


 ナイフ投げの交友関係は幾度も洗われたが、大して人付き合いの良くなかった彼の周囲に、新しい人脈が浮かび上がってくることはなかった。

 それでも座長はあきらめきれないようで、彼に懸賞金をかけた。

 秋に予定の巡業は、しばらくの間、日延べになることが決まった。


 人々が危険な見世物を好むというのは本当だ。

 客足が鈍るのを恐れた座長は、ナイフ投げがいない間だけでもと、新しいナイフ投げを雇った。

 新しいナイフ投げはあまり腕がよろしくなく、的にされる少女が公演中に2回続けて怪我をした。

 ところが、それで却って見に来る人が増えるという妙な事態になってしまった。どこに飛んでいくかわからないナイフがスリリングだ、というわけだ。


 しかし、新しいナイフ投げが、3度目の出演をすることはなかった。

 ひとつには、的にされる少女がもういやだ、怖いと泣いて嫌がった、というのもある。

 もうひとつは、少女の治療費をナイフ投げの報酬から差し引いたら、渡す額がほとんどなくなり、馬鹿らしいと考えた本人が、これ以上続けることを望まなかったからだ。


 結局しばらくは、既存の座員のパフォーマンスで穴を埋めながら、新しいパフォーマーについてはゆっくり検討する方向で、落ち着いた。

 座長はともかくとして、ほかのみんなは今後、ナイフ投げの復帰はあてにできないと考えているようだった。


 一方ルビーは、憲兵騒動のあった翌々日、お屋敷の執事に連れられて登録庁に行って、登録を受けた。

 名前はロベルタ・ティンバールと記された。

 赤毛、碧の目。15歳。メリルヨルデ出身。

 メリルヨルデがどこかを知らないルビーに、執事が説明してくれた。連邦内にある九つの国のうち、一番北に位置する国だということだ。

 連邦内の出身ということにしておいた方が、のちのち自由民の地位を手に入れたとき、さまざまな便宜を図ってもらいやすいのだという。

 年齢については執事が事前にルビーに確認してくれなかったので、間違ったまま登録されてしまった。


 貴婦人が用意したのは焼印でもタトゥーでもない、登録番号を彫ってある細身の銀細工の、鍵つきのバングルだった。普段はつけなくてもいいけれども、一人で外出するときはつけるように言われた。

 ナイフ投げのような大の男が消えた場合は、自分の意思で逃げ出した以外の可能性はあまり考えられないが、ルビーのような女の子は外出先などで、誰かにさらわれる可能性もある。

 登録番号を記したものを、他人が外せない状態で身につけておくことは、ルビーを守ることになると説明された。

 といっても、ルビーに一人で外出する機会など特にない。なので、いまのところバングルはルビーの部屋の机の引き出しの中で眠っている。


 数日して、家庭教師との顔合わせやら、さまざまな手続きやらも落ち着いた。ルビーは、最初の約束のとおり、見世物小屋に通い始めた。

 早朝、お屋敷の一番小さい馬車で送ってもらい、興行のある日は夜の興行の始まるころまでいて、ない日はお昼頃に迎えの馬車に来てもらう。


 興行のある日の午前中と、2回の興行の合間の時間を、ブランコ乗りに指導してもらって練習に当てる。

 興行のない日にはブランコ乗りは来なかったから、自主的に練習したあとは、舞台道具の整備を手伝ったり、掃除を手伝ったりした。


 といって、座長は以前のように積極的にあれをしろ、これをしろとは言ってこない。貴婦人から預けられた立場であるルビーに対して、遠慮があるのだろう。

 なので、ルビーはやることの優先順位を自分で決めた。


 一番に優先したのは、大天井のロープや渡木、それらを天井に固定してあるボルトなどの点検だ。これは何度か教えてもらって覚え、一人でもできるようになった。

 それから、足場の掃除。舞台全体の掃除。

 他の演目に使う道具の整備や点検も、嫌がられない限り、なるべく手伝うようにした。

 そのときルビーは座員にちょっとしたお願い事をする。

 知っている歌を教えて、というものだ。


 箱女は全然歌を知らなかった。舞姫は歌詞が適当で、歌うたびにその内容が変わった。いつも大玉乗りと火の輪くぐりのサポート役をしている女の人が、童謡のような歌をいろいろと知っていて、教えてくれた。

 お天気や季節や鳥や花を歌った歌もあったが、人が一人ずつ死んでいなくなっていくような不気味な数え唄とかもあった。帰って貴婦人に歌って聞かせて、こういう歌でもいいのか聞いて確かめたら、特に駄目だとは言われなかった。


 見世物小屋の楽団員にも聞いて教えてもらった。ヴァイオリン弾きはうるさそうな顔をしてあまり相手にしてくれなかったが、フルート吹きが、演奏の合間に短い歌を教えてくれた。

 ルビーが何曲が歌えるようになった頃には、最初は気難しかったヴァイオリン弾きも、ルビーの歌に伴奏をつけてくれたりするようになった。チェロ弾きは、低音でルビーの歌にリズムをつけてくれた。


 ただ、楽団員は、ブランコ乗りと同じで興行のある日にしかやってこない。

 だから、ブランコ乗りが組んだ練習のメニューをこなす合間のちょっとした時間に走っていって教えてもらうしかない。

 彼らは興行のない日は街角に出て、小さな広場でミニコンサートをやっているのだそうだ。


「よかったら聴きにおいで」

 ナマズ髭のチェロ弾きにそう誘われて、猛烈に行きたいと思ったルビーだったが、そんな時間はない。興行のない日の午後は、読み書きと作法と声楽の三つの授業が続くのだ。

 ルビーのスケジュールはいつだって、いっぱいいっぱいだった。


 興行のない日の午前中、手伝う仕事がなかったり、区切りがついて時間がとれるときに、ルビーはロクサムのところに走った。

 息を切らせて走ってくるルビーの姿に、ロクサムはいつも、戸惑った顔をして振り返る。そのあとルビーは仕事をしているロクサムにくっついてまわって、少し話をするのだ。



 きょうは興行日だったにもかかわらず、なぜかブランコ乗りは見世物小屋に出てきていなかった。

 そこで、まだだれも来ていない練習場で一人トレーニングのメニューをこなしたあと、ルビーはロクサムを捜した。

 ロクサムはゾウの餌を入れる籠に、前が見えなくなるぐらい野菜を積み上げて運んでいるところだった。


 いつも忙しそうにしているロクサムだったけど、このまえみたいに強引に仕事を横取りするのはやめた。

「手伝っちゃ駄目?」

 そう声をかけるとロクサムは振り向いた。むっつり顔で首を振る。

「駄目だよ」

 言いながらもロクサムは、大きな籠をしっかり抱えてどんどん歩く。

「だってこれは、おいらの仕事だもの」

 ルビーは一緒について歩きながら、ゾウの餌がいっぱいに盛ってある籠を横から覗き込む。

「手伝いたいな」

「重いものを運ぶのは駄目」

 ロクサムの口調が、少し柔らいだ。

「女の子にさせることじゃないもの」

「あたし、もっと腕の力をつけなきゃいけないって、ブランコ乗りに言われたんだけど」

「だったら……」

 ロクサムは一度立ち止まり、少し考えて返事をする。

「ゾウ舎の床を、デッキブラシで磨くの、手伝ってくれる?」

「うん。手伝う、手伝う。それ、一度やってみたかったの!」

「それって、やってみたいことかなあ……」

 よくわからないと首をかしげるロクサムに、ルビーは言った。

「ロクサムと一緒だと楽しいもの。一緒のことがやりたかったの」

「おいらの仕事をやりたいっていう人なんか、ほかにいないよ」


 それは本当のことだった。みんながきつくて嫌だと思う仕事を、ロクサムに押しつけていくのだ。

 最初にロクサムがルビーの世話をすることが決まったのだって、水槽に張る大量の水を毎朝入れ替えなければならないと思われていたからだった。


 けれどもルビーは知っている。ロクサムの姿を見たゾウが、ひどく嬉しそうな顔をして鼻を振ることを。ライオンだって、犬だって、ロクサムが近づくと、構ってほしくてそわそわするのだ。

 ルビーには彼らの気持ちがよくわかった。

 ルビーだって彼らと同じなのだ。ロクサムといるとルビーも、ほっとすると同時に嬉しくなってくる。できれば同じ気持ちをわかちあいたいのもあって、ルビーはゾウと仲良くなりたいのだ。


 水運びがどんなにきつくても、ゾウの喉の渇きが治まるまで、ロクサムは桶を抱えて何度でも往復する。餌となる大量の干し草を何度も運び、果物や野菜のくずを厨房からもらってきては与えている。

 ゾウ舎が臭くならないように、深く掘った穴に、大量のフンをこまめに捨て、上からオガクズをかける。

 ロクサムが苦労して運んできた餌を、猛獣使いはときどき横から取り上げる。特に果物やニンジンなどのゾウの好物をロクサムが厨房からもらってきたときは、できるだけ自分で餌やりをすることに決めているようだった。けれども、ルビーが見たところ、本当はだれが自分の面倒を見てくれているのかを、ゾウはわかっているように思えた。

 ゾウは人間が思っているよりも、ずっと賢いのだ。



 ライオンや犬たちには、屠殺場とさつじょうからくず肉が毎日届く。ロクサムはやはり何往復もして、餌を運ぶ。

 重いし、ひどい臭いがする。屠殺場とさつじょうから来た餌を運んだあとは、ロクサムは井戸の水で汚れた腕を念入りにばしゃばしゃ洗っている。

 風呂に入れる予定の日でも、ロクサムはほかの人たちがみんな湯を使ったあとでないと使わせてもらえなかったから、いつも冷たい水を使っている。

 季節は秋に変わって、急に肌寒くなってきていたけれども、ロクサムの日課は変わらない。


 動物たちには好かれているロクサムだったけど、最初は人間の友だちはいないのかとルビーは思っていた。

 でも何日かロクサムにくっついて回っているうちに、厩係(うまやがかり)の老人とは打ち解けて話をすることを知った。


 厩係は、ちょっと異様な風体だ。白髪混じりのもしゃもしゃの髪の毛が爆発するように頭を覆っていて、同じような灰色の髭が口全体を覆い隠している。人間は彼を見ると大抵びっくりするけれども、彼は馬たちにはとても好かれている。

 そして、ほかの人たちと違って、ロクサムに一切動物の世話を押し付けたりしない。馬の餌やりも掃除も蹄の状態のチェックも背中にブラシをかけて毛並みを整えてやることも、こともなげに、全部自分でやってしまうのだ。


 ロクサムは、ルビー以外なら、彼と話すときだけは、どもったり詰まったりせず、普通に話せた。ロクサムは老人を尊敬しているようだった。

 ルビーもすぐに、老人のことが好きになった。

 あまりしゃべらない人だったけど、ロクサムと同じように暖かい空気を持っている。


 ルビーは一応老人にも、知っている歌はないかと聞いてみた。

 彼は「船乗りの歌」というのを歌ってくれたが、「ヨーソロー、ヨーソロー」という部分以外は全部ハミングだった。歌詞は忘れたと言われた。

 貴婦人からの条件は、カルナーナの言葉で歌詞がついていること、だったので、これはボツだ。


 厩に馬は4頭いた。馬が舞台に立つことはない。みんな馬車を引くために用意されている馬だ。馬はロクサムにも懐いていたが、最初はルビーのことを警戒していて、からかったり意地悪をしてきたりした。髪の毛を引っ張ったり、突然鼻面を伸ばしてきて、ルビーだけに通せんぼしたりする。

 けれどもしばらくしたら馴染んで、ふさふさしたたてがみをルビーに撫でさせてくれるぐらいにはなった。




 ロクサムと話をしているとき、ついルビーがロクサムの顔のすぐ近くに顔を寄せて覗き込みながら笑いかけようとすると、ロクサムは怒ったような顔をしてそっぽを向く。

 でもルビーの方は、なんとなくロクサムの顔を覗き込みたくなってしまうのだ。

 そのたびにそっぽを向かれるので、うっとうしいと思われているのかな、と、ちょっと気になった。


 以前ブランコ乗りが自分に対してしていたような態度を、ルビーはロクサムに取っているのかもしれない。

 意味もなく彼を見たり、意味もなく笑いかけたりしていて、自分でも変だと思う。

 でも、ルビーはロクサムに笑い返してほしいだけなのだ。


 ルビーが水槽に閉じ込められた日みたいに、ロクサムはあからさまにルビーを拒否するような態度を見せることはない。でも、ルビーが人魚だったときと比べて、なんだか距離ができたような気がする。


 でもきょうは、ゾウの世話を手伝わせてくれるとロクサムが言ったから、いつになくルビーはうきうきしている。

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