33 言霊の魔術
さっきまでアントワーヌ・エルミラーレンだった男は、不審げに周囲を見回した。
「これは何の騒ぎだ?」
散乱した食器と、床に伸びた少年の姿が視界に入ったのか、男は顔をしかめた。
「ジョヴァンニ。おまえなのか? 一体おまえ、何をやらかしたんだ?」
気を失ったままの少年からの返答はない。
廊下の向こうから、早足で近づいてくる足音が聞こえた。
開いたままのドアから、いつかルビーが見たことのある、太った男が大股で入ってきた。あいかわらず下町の庶民が着るような、ありふれた服を着ている。
その後ろには、急いでついてきたらしいこの屋敷の執事の姿があった。
「首相!」
太った男の姿を見た貴婦人が、驚きの声を上げる。
「どうなさったのですか? なぜまたここに?」
「なぜここに、ではないだろう」
太った男はつかつかと貴婦人に歩み寄る。
「逃亡奴隷の事件に巻き込まれたと聞いて、ゆうべの外出についてあんたが濡れ衣を着せられていてはいけないと思って、駆けつけたんだがね。来てみたら、とんでもない不穏な気配を感じたから、取るものもとりあえず中に入らせていただいたんだが……さっきまで、屋敷に何か来ていただろう。何がいたのだ?」
「アントワーヌ・エルミラーレン王兄殿下の孫君がお越しでした」
ゆったりと微笑む気配を見せて、貴婦人は答えた。
「ですが、あなたにお会いしたくないとおっしゃって、先ほど帰られました」
「何が起こったか、聞かせてもらえるかな?」
貴婦人は頷いた。
「別の部屋にご案内しますわ。ここは片付けさせます」
「場所を移すほどのこともなかろう。ああ、椅子を借りるよ」
カルナーナの首相は、さっき貴婦人が座っていた椅子を適当な位置まで動かして、どっかりと座った。
それから執事の方を向いて、きびきびと言った。
「わしに構わず、片づけを始めてくれ。そちらの若い兵には念のため、ベッドと医者を。残りの者には──」
ぐるりと周囲を見回しながら、太った男はぐいと身を乗り出した。
「話を聞こうじゃないか」
貴婦人とブランコ乗りの短い説明だけで、この場に居合わせただれよりも正確に、首相は状況を理解したらしい。
しかも、ある程度の魔法の残滓のようなものを、この太った男は読み取れるらしかった。
さっき皆の前で劇的な変身を遂げた眼鏡の男にも、首相は手短に説明を求めた。
意識の上でずっとここにいたのかどうか。ここで起こっていたことを全部覚えているかどうか。意識があったとして、違和感がなかったどうか。違和感があったとしたら、いつからそれは始まっていたのか。違和感が始まったころ、淡い金髪でグレイの瞳の貴族的な風貌の軍人に──軍服を着ているとは限らないがそのような容貌の男に──接触したかどうか。
眼鏡の副長がかけられた魔術は、移身交換の術というらしい。
単に相手の意識を乗っ取ってあやつるのではなく、周囲の人間にも疑問を抱かせず、入れ替わる。
入れ替わる相手に直接接触することで術をかける方法と、血のつながりを辿って意識を交換する方法の2つがある。
直接接触して入れ替わる場合は、不完全でちょっとしたことでも解けやすい術にしかならない。周囲の人間に対してうまく術がかからない場合もある。だが、血のつながりを辿ったものだと、ときとして非常に解除の難しい、強固な繋がりをつくることができるということだった。
特に、術をかける側が、強力な魔力の持ち主であった場合は。
アントワーヌ・エルミラーレンと名乗る貴族的な風貌の男と副長には、直接の接触はなかった。
「血のつながりってなんでしょうか?」
いまは温かみのある茶色い瞳を持つ眼鏡の男は、いぶかしげに首相に問い返す。
「おれは農家のせがれで、おれの家は何代も前からただの農民です。王侯貴族には縁もゆかりもありません」
「記録には残らなくともどこかで王族と血が混ざり合っているということだ。30代ほども前のことかもしれん。問題は、血のつながりは絶対なくならないことだ。つまり、おまえさんはまた、入れ替わりのターゲットにされる可能性がある」
さっきまでの自分の状態を思い出してか、男は青ざめる。
「どうすれば?」
肝心のところで、ところどころ記憶が抜け落ちているほかは、意識はほぼあった。
分隊の隊長とともにこの屋敷に捜査に入ったことも、ここに残ると申し出て、朝食に同席したことも、そのときに部下のジョヴァンニが見世物小屋の舞姫の話を熱心にしていたことも覚えている。
しかし、肝心の自分の言動が、あいまいで、ひどくあやふやだ。
喪服を着たこの見知らぬ貴族の女性に、求婚したらしい。
そんなことはまったく覚えていない。
部下に命じて、女性の愛人だという軽業師の男を斬り殺させようとしたらしい。あまつさえ、自分でも剣を抜いたということだった。
自分の仕事は治安の乱れを正すことであって、風紀の乱れを正すことではない。そんなことは、まったくもって大きなお世話だ。
意識が飛んでいる間、何の脈絡もなく、どこかの別の見知らぬ場所のベッドの上にいて、消毒液と薬品の臭いに囲まれてぼんやりしていたような記憶が混ざる。
意味がわからない。
「ふむ」
副長の問いかけに対し、首相は厳しい顔になる。
「一度、魔力で支配を受けてしまうと、そこから抜け出すのは非常に難しいのだよ。それはおまえさんの隊のほかの隊員も同じだ。皆、言霊の魔術で支配されてしまっている」
そこで首相は、不意にルビーを見た。
「人魚」
そう呼ばれ、ルビーはひるむ。
この人の目は、やはり怖い。
「おまえも、言霊の術を使っただろう」
「何のことですか?」
つい目をそらしたくなったが、どうにか持ちこたえる。
「名前を呼んで、名前で縛り、命ずる術だ」
「さっきの男に帰れと言ったことですか?」
「そうではない。ああいう化け物には言霊は利かん。後ろの若者だよ。さっきおまえさんは、そちらの若者に、図らずも強力な術をかけてしまったようだが」
首相はブランコ乗りに目をやった。
「何の言葉で縛ったのかね? 強い、そう、とても強い呪力だ。命ぜられたものは、決して逆らえなくなる。そうやって、魔は人を絶対的な支配下に置くのだ」
首相が言っているのはきっと、さっきの危険な男が、憲兵の少年の名前とともにブランコ乗りの名前を呼ぼうとしたときの話だ。男の声を遮り、自分の声だけを伝えた。
とっさのことだったし、必死だったから、自分が何を伝えたのかよく覚えていない。
ブランコ乗りが驚いた顔で、何か言いかけてやめたことだけ、覚えている。
ルビーは思い出そうとした。
「ロビンが声に出さず、伝えてきた内容のことですか?」
ブランコ乗りが助け船を出した。
「自分の意思以外で動いては駄目、だったと思います。つまり、自分の意思で動け、人の命令は聞くなってことですね」
一瞬、首相はぽかんとした顔をした。
「なんと……」
それから彼は片方の眉をあげ、にやりとした。
「束縛の呪術に、解放の呪文を乗せるとは、おもしろい」
打って変わって首相は愉快そうに言う。
「人は魔となるが、魔は人となるか。ふむ、わからんものだな。南の島で会ったときのことを覚えているか、人魚。おまえさんは、あのときに比べて、ずいぶんと人らしくなった」
「どういうことですか?」
「無意識にでも、人を呪力で縛るのを避けたということだよ。こちらに来てからおまえさんは、いろいろなことを学んだのだろう?」
鋭さを秘めた首相の目を見返そうとして、結局ルビーは目をそらした。この男の目は、人魚の長老やモリオンと名乗った少女の目と、ある意味同じだ。
何を見透かされるか、わかったものではない。
首相はルビーの肩越しに、その後ろに立つブランコ乗りを見た。
「アルトゥーロといったか。おまえさんに関しては問題はなかろう。おまえさんにかけられた術は、今後、守護の呪文としてしか働かんだろうからな。つまりおまえさんはもう、ほかのだれからも言霊の支配を受けることはないということだ。よかったじゃないか」
「……はあ」
よかったじゃないかといわれても、魔術だの呪術だのと普段は縁のない世界の人間にとって、ピンと来るはずもない。ブランコ乗りは、腑に落ちない顔で首を傾げただけだった。
ルビーはさっきブランコ乗りが言いかけた言葉の続きとともに、彼が自分のことをどう思っているのかが、ふと気になった。舞姫と同じように、人間の女の子だと思ってくれていたのが、いまは気味の悪い魔物だと思われているかもしれない。
アンクレットに力を抑え込まれる前は、ちょっとした力を、思うままに振るっていた。悪戯にも使ったことがあるし、人を怖がらせるのに利用したこともある。それでも、本当の意味で人を傷つけたり害したりは避けてきたつもりだったけど。
喉をふさいで息をできなくさせたのは、いま思えば結構悪質だったかもしれない、とも思う。あとで自分が窒息しそうになって、怖さを実感したせいもある。
自分のことのように舞姫が怒り狂ってくれたのは、びっくりしたけど嬉しかった。
それと同時に、あの浜辺でルビーが倒した男たちが、もしも舞姫の友だちだったら、やはり同じように彼女は怒り狂っていただろうな、とも思う。その場合、怒りの矛先は自分に向いていたはずだ。
あのときのルビーなら、だれがだれのために怒ろうと、虫に刺されたほどにも感じなかっただろうと思う。でもいまのルビーには、舞姫の怒りが自分に向くことを想像したら、結構痛い。胸のあたりに大きな棘が突き刺さる感じがする。
でもそれは、自分の胸の内側に火が灯るようなあたたかさと裏表だ。
不意にルビーはひらめいた。
そうだった! アンクレットのことを、この人に聞かなくちゃ!
魔法に詳しい人みたいだから、きっと何かわかるはずだ。
「さて」
ルビーの思惑などあずかり知らぬ首相は、憲兵の副長に向き直る。
「おまえさんが、魔術的支配から逃れるのは、さっきも言ったが容易ではない。わしの知っている確実で唯一の方法は、おまえを支配しあやつる相手を倒すことだ」
「エルミラーレン殿下の孫君を倒せと?」
副長は身震いをした。
「ほかの方法はないのですか?」
「ふむ、そうだな。その場しのぎの方法でしかないが、警察から移籍して、わしの護衛兵になるか? あれは、わしに会いたくなくて逃げたというから、おまえさんが官邸にくれば、出て来なくなるんじゃないか?」
「冗談じゃないです」
今度は副長は声を荒げた。
「いつ憑依されるかわからないようなあやふやな状態で、首相の護衛などできるわけがない。取り返しのつかないことになったら大変だ」
「あと方法があるとすれば、封印の魔術だな」
と、首相は再び厳しい目つきになる。
「だがこれは、大きな危険を伴う。異なる二つの魔術がおまえさんの中でぶつかり合うことになる。どんな悪影響が出るかわからんし、悪くすればおまえさんの命を奪う」
「……それにしてください」
そう返事をする前に、一瞬のためらいはあったかもしれない。だが、男の声には軍人としての誇りと、ゆるぎない決意がほの見えた。




