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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[二] 侯爵家と王族の男
32/110

32 入れ替わった男

「エルミラーレンさま、お顔をあげてください」

 返す貴婦人の声は、静かだった。

「あなたのなさろうとしていることは、意味がないことだとわたくしは思います。ブリュー家は爵位を返上しますの。領地は国に上納します。きのう、首相にもその旨お伝えしました」


「首相はそれをお認めに?」

 男は即座にそう問い返した。

 貴婦人はそれには 答えない。

 黙りこくった彼女の様子を見て、男の頬に、薄く笑みが浮かぶ。


「いや、そんなことが認められるわけがない。カルナーナには今、王が不在だ。つまり、新たに爵位を授与できる立場の者がいないのです。この意味がレディ・ブリューにはおわかりか? このままでは、アララーク連合での公的な式典などの参列者として名前を連ねる人材が不足してしまうのですよ。これは今後、連合国内でのカルナーナの発言力を狭めかねない、深刻な問題です」


 やはり貴婦人は何も答えない。

 彼は悦に入った顔で説明を続けた。


「もっとも、首相は王政復古も視野に入れているようですね。つまり、カルロ・セルヴィーニはいま、実権のない名前ばかりの王を求めています。ですが、まだ時期尚早であるともご判断のようです。かつて革命は成功したが、その直後の混迷期を経て、国民の亡き王への憧憬は強まりました。いまの首相が混迷を抑えて新政府による政策を軌道に乗せましたが、恒久的な国民の信頼を得るにはいまだ至っておりません。

 ところで、レディ・ブリュー──」


 男は立ち上がりながら、一度貴婦人を振り返り、それからゆっくりと他のものたちを見回した。


「わたしは実権のない名前ばかりの王には興味はありません。それよりも、自分だけの領地と領民がほしい」


 こちらに向き直った眼鏡男に対して危険を察知したのは、その場にいた他のだれよりも、ルビーが早かったと思う。


 男の紡ぐ声が、部屋の中に響き渡った。さっきと同じ不思議な韻律の声色が、少年とブランコ乗りの名前を紡ぐ。


ジョヴァンニ。

アルトゥーロ。

殺し合え。


 灰色の瞳がブランコ乗りの視線を捉えて覗き込み、その名前を呼ぶのとほとんど同時か、それよりも早く。

 ルビーは飛びつくようにしてブランコ乗りの腕をつかんだ。

『アート! あたしの声だけに集中して』


 ブランコ乗りが振り向いた。微かに驚いた表情の彼の、明るい茶色の瞳の中に、赤毛頭の白い顔が小さく二つ映るのが見える。

 さっきのあの妙な韻律を伴った不思議な声色が再び響きわたる。

「手にしたフォークで目の前の兵士ジョヴァンニの喉を刺せ、アルトゥーロ」

『自分の意思以外で動いては駄目』


「赤毛ちゃん……きみ……」

 ブランコ乗りの唇が、当惑したように動きかけて止まった。


 右足のアンクレットが熱い。これまでにない熱を放出している。びりびりと電流のような痺れが全身を覆い、つかんだ手からブランコ乗りの腕を伝って流れ出していく。


 ブランコ乗りの戸惑った顔の意味を、少し遅れてルビーは悟る。

 ルビーは声を発していなかった。

 にもかかわらず、つかんだ腕を伝わって、ルビーの声がブランコ乗りに届いて、その代わりに男の得体の知れない声を遮断したのだった。


 目の前で少年がサーベルをすらりと抜いた。

 ちゃんとした意識があるのかないのか、野生の獣のような敏捷な身のこなしでテーブルに飛び上がり、振りかぶりざまにまっすぐ斬りつけてくる。

 少年の足元で料理の皿が音を立てて飛び散り、中身を四方に撥ね飛ばしながら、床に落ちて割れる。


 ブランコ乗りは後ろに飛び退って攻撃を躱した。それとともに、彼につかまったままだったルビーを、力任せに反対の方向に突き飛ばす。ルビーはよろめいて、貴婦人の脚元に倒れかかった。

 貴婦人は自分も立ち上がりながら、ルビーを助け起こした。


 身を躱されて少年はつんのめったが、すぐに体勢を立て直し、再びゴムのように跳躍し、獰猛な猟犬の動きでブランコ乗りに斬りかかっていく。ブランコ乗りは今度は少年の足元に滑り込みながら、下から手を伸ばして剣の柄を直接つかみ、少年の動きを封じた。


 あっけなく勝負は決まる。

 ブランコ乗りは、つかんだ剣を少年からねじ切るようにしてもぎ取ると、立ち上がって副長を見る。少年はよろけて、スープの飛び散ったべとべとの床に尻もちをついた。


「こんなことは、やめさせてください」

「下郎が、わたしに命令するな」

 苛立ったように眼鏡男は吐き捨てた。

 彼はゆっくりとテーブルを回り込み、自分の腰にある長剣を抜き放つと、ブランコ乗りに向き直る。

 貴婦人は後ずさりながら無意識にか、ルビーをかばうように自分の後ろに押しやった。


 ブランコ乗りは剣を構えた男を一瞥すると、少年から取り上げた剣を構える代わりに、無造作に部屋の一番遠くに放り投げた。

 それから向き直って、静かな声で尋ねた。

「王家の血を引くあなたが、丸腰の無抵抗の国民を斬りますか?」

 相手が斬りかかってこないと思っているのか、それとも斬りかかってきてもよけられる自信があるのか、白刃を目の前にしながらも、落ち着き払っている。


 眼鏡男の顔に冷笑が浮かんだ。

「身の程知らずめ! 虫けらの分際で、カルナーナの国民を気取るか? もちろんわたしにはおまえを始末する理由はあるとも。わたしの大切な婚約者を甘言で籠絡し、なぐさみものにした罪は、死で贖ってもらう以外考えられないからね」


 狂人の言い草だった。

 言うなり眼鏡男は、鋭い動きで刃を振り下ろした。

 まともな会話が通じる気がしなかったせいか、だれがだれの婚約者なのか、という突っ込みをそこで入れる者はいない。


 言葉は狂人でも、身のこなしは機敏な軍人のものだ。

 鮮やかに繰り出される剣さばきを、ブランコ乗りは持ち前の身軽さで左右にかわしながらも、じりじりと部屋の隅に、さっき彼が剣を投げ捨てた場所まで追い詰められていく。


「剣を取ったらどうだ? 下郎」

 眼鏡男は見下した表情で、冷やかにブランコ乗りを見た。

「丸腰の相手を斬るのは手ごたえがなさ過ぎてつまらん。それとも剣など握ったこともないか?」


「アーティ! 右!」

 不意に貴婦人の叱責が飛んだ。右側から少年が転がって来て跳ね上がり、猿のように歯を剥き出して飛びかかったのだ。

 めくれ上がった唇から剥き出した犬歯が、ためらいもなくブランコ乗りの喉笛を狙う。目をカッと見開いた獰猛な表情は、さっき頬を紅潮させていた少年とは、別人の顔だ。


 ブランコ乗りは、軍人が同じタイミングで繰り出す鋭い切っ先をすんでのところでよけながらも、ぶんと腕を振り回して少年をなぎ払う。

 手加減する余裕はなかった。

 少年は激しく壁にぶつかって、ゴムまりのように跳ね返り、もんどりうって床に転がった。

 その音と、ほぼ同時に。


 バン!


 音を立てて開いたのは、廊下につづく両手開きの大きなドアだ。

 屋敷の警備兵が4人。

 その後ろには、少し前に退出したばかりの給仕係が、困惑顔で控えている。

 さっきまで部屋の中の音に聞き耳を立てていたのだろう。客人に遠慮して、すぐには入ってこられなかったのだろうが、何かが壁にぶつかる音で、異常と判断したらしい。


 4人の兵士を振り返る眼鏡男の顔に、再び冷笑が浮かぶ。

「おまえたち、そこにわたしの部下が伸びているだろう。この男はたったいま、わたしの部下を殴り倒したんだよ。見た目に似合わない、凶暴なやつだ。

 暴力を働いた狼藉者を、いまから手打ちにするだけだ。そこで黙って見ていなさい。部屋の調度を少々汚してしまうのは申し訳ないが、それ以外で、おまえたちのご主人に迷惑はかけないからね」


 男の言葉に、剣を抜いたばかりの4人の警備兵の間に、動揺が走る。

 が、彼らのうちの一人が意を決した様子で、正眼の構えで部屋に一歩踏み入れた。4人の中でもひときわ体格のいい、入道雲のような大男だ。岩石のようないかつい顔をした、スキンヘッドの強面こわもてだ。


 ブランコ乗りとの間に立ちはだかって自分に向き合う大入道の姿に、眼鏡男は目を細めた。


「おまわりさんには逆らうなと、お母さんから教えてもらわなかったのかね?」


 優しげな口調で、からかうように言うと、にんまりと笑う。


「逆らうと、業務執行妨害の罪に問われるよ。おまえの雇用主である侯爵令嬢にも罪が及ぶが、それでもいいのかね?」


 眼鏡男の言葉に、剣を構えた警備兵は少しひるんだ様子で、ちらりと貴婦人に目を走らせる。貴婦人が制止のそぶりを見せなかったため、自分の判断に託されたと解釈したのだろう。もう一度剣を構え直す。


「よせ!」

 後ろからブランコ乗りが入道雲を止めた。

「あっちによけてろ」

「しかし、アート……」

「あんたが巻き込まれるとあとが面倒だ。奥さまのところに行っててくれ」


 それからブランコ乗りは、さっき捨てた少年のサーベルを、仕方がなさそうに床から拾い上げ、困ったような顔で振り向いた。

「これでよろしいでしょうか、殿下?」

「剣を取ったな。そうだ。構えろ。構え方はわかるか? 剣を持つのは全く初めてというわけでものなさそうだな」

「本物の長剣を持つのは初めてですよ」

 困惑顔で、ブランコ乗りはそう返す。

「このようなものを庶民が持たずに済むようにしてくださるのが、警察の役目では?」

「おまえは反逆者だ。理由なく、いきなり警察に斬りかかってきたんだから、斬り捨てられても文句は言えないんだよ」

 歌でも歌いだしそうな楽しげな口調でつぶやいたかと思うと、次の瞬間、眼鏡男は風を切る早さで飛び出した。

 空を切ってうなる刃を、ブランコ乗りは少年の剣で受け止める。薄笑いを浮かべた男と違って、余裕があるようには見えなかったが、初めて持ったにしては危なげない動きで、眼鏡男の攻撃を受け止め、流しながら、身を躱す。

 剣と剣のぶつかり合う金属音が、静かな部屋の中に耳触りなぐらい大きく響いた。


「嘘つき! 卑怯者!」

 身を乗り出しながら、思わずルビーは叫んでいた。

「いきなり攻撃してきたのはそっちじゃないの!」

 言いながらルビーは、後ろ手にかばおうとする貴婦人を押しのけて、一歩前に出た。

「いまだって、アートは反撃してないわ。あんたが一方的に斬りつけてるだけじゃないの」


 剣を振るう、男の動きが止まった。

 温度のない灰色の目がこちらへ向いて、じろりとルビーを見る。

 口元に酷薄な笑みを浮かべたまま、冷たい視線がルビーの碧の瞳を深々と覗き込んできた。

 形のよい薄い唇が、ロビン……と動く。

 取り調べのときの貴婦人との会話から、その名前を聞かれていたのだろう。


 怖くない。

 影響はない。

 だって、それはルビーの本当の名前じゃない。


 ルビーはつかつかと男の前に歩み寄ると、眼鏡男の灰色の瞳を見上げて、強気に言い放った。

「アントワーヌ・エルミラーレン。本来のあなたの場所に、戻って」


 意識のない少年と貴婦人を除いたその場のすべての人間が、ぎょっとした顔でルビーを見た。


 あとで聞いたのだが、王位から追放されて何年も経っているとはいえ、カルナーナの王族の名前を呼び捨てにするなど、国民にとっては考えられない、とんでもない不敬であったらしい。

 しかも、男の祖父であるエルミラーレン公爵その人が、眼鏡男と同じアントワーヌ・エルミラーレンという名前だったのだ。

 アントワーヌ・エルミラーレン公爵は、カルナーナの最後の国王の異母兄であった。


 だが、その場でルビーを咎め立てするものはいなかった。


 男は薄く笑みを浮かべたままの顔で、「なるほど」と小さくつぶやいた。

 それからゆっくりと、サーベルを鞘に収めながら、貴婦人を振り返って、そこにいる誰にも意味のわからないことを言った。


「レディ・ブリュー。さすがというべきでしょうね。この少女はすでに、あなたの下僕しもべですか。それではわたしの言霊ではあやつれませんね。しかもよく訓練されているようだ。

 わたしは、ますますあなたのことが欲しくなりました。

 あなたにはもう、おわかりでしょうが、我々は人よりも、神や精霊に近い存在だ。カルナーナの国民は、この頃よく、魔物という蔑称を好んで使うようになりましたが、魔物ではありません。神と、神の眷属です。

 不届きにもあなたに触れたこの下民の男をわたしの兵士の手で始末し、あなたとあなたにつながる少女をすぐにでもこの場から連れ去りたかったのですが、残念なことに、きょうはもうタイムリミットが来たようです」


 男は振り返ると、ドアの外の廊下に目をやった。

「わたしのもっとも苦手とする人物が、ちょうどいま、この屋敷の門をくぐったようですね。ああ……いま近づいてくる。そのものに対面せぬうちに、きょうはもう、おいとまさせていただきましょう。

 近いうちに、またお伺いします。その日を楽しみにお待ちいただけたらと思います」


 ルビーの目の前で、王族を名乗っていた眼鏡の男が、いままさに劇的な変化を遂げようとしていた。見る見るうちに別人の姿になっていく。

 ごく淡い白っぽい金髪だった髪は、濃いダークブロンドのくせ毛に、ほとんど色のなかった灰色の瞳は、ごくありふれた茶色に、高貴さと陰険さを兼ね備えたような細おもての顔は、ハンサムだけどどちらかというと武骨な軍人の顔に。すらりとした長身はそのままだったけれども、ほっそりしていた肩や腕が2回りほども太くなり、制服の上からでも盛り上がった筋肉がわかるような逞しい体型に変わる。

 入れ替わりの術が解けたのだ。

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