31 求婚者
「カルナーナの自由と平等など、もちろんおためごかしですよ」
男は優雅な仕草で朝食に出された魚のスープをひとさじ口に運ぶと、貴婦人を見て微笑んだ。
チャコールグレイの軍服を着ているが、白っぽい金髪をしていて肌も白く、全体的に白っぽい男だ。整った面立ちではあるが、顎が尖っていて険のある印象の顔だ。陰気な印象の淡いグレイの目が、眼鏡越しに細められる。
「本来の自由というのは、我が隊長のような全体主義者が大きな顔をしているところには存在しません。しかも、ああいった輩ほど、声高に自由、自由と言いたがる。身分の違いがないなどというのは、現実離れした、乱暴な意見もいいところです。……失礼、ハマースタインの奥さまも、奴隷解放論者でしたでしょうか」
「わたくしが奴隷解放論者ですか?」
おっとりとした声で、貴婦人は返す。
「副長さんは、なぜそんな風にお考えですの?」
「違うのですか? さきほどは、ずいぶん逃亡奴隷に同情的な発言をされていたようですが」
絶妙な角度に首を傾げた男の横顔に、ルビーはちらりと目をやる。
厭味ったらしい気取った仕草は、ブランコ乗りとどっこいどっこいだ。陰険な雰囲気も加味されている分、どちらがより厭味ったらしいかの軍配はこっちの眼鏡男の方に上がる気さえする。
誉め言葉に変換すれば、洗練されている、という言い方もできるのだろう。
要するに彼らは、自分の仕草や動きに無自覚ではないのだ。常に誰かに見られていることに慣れ切った身のこなしをする。人気芸人であるブランコ乗りがそうである理由はルビーにもなんとなくわかるが、目の前の眼鏡の軍人がなぜこんなふうにもったいぶった仕草でテーブルについているのかは不明だった。
ハマースタインの屋敷に二人残すことを決めたのは隊長だったが、副長は自ら自分が残ると言い出した。疑いは晴れたと言い切る隊長に反して、まだ疑いが残っている、とでも言いたげだった。
残されたもう一人の兵は、さっきアルトゥーロ・ロガールはシロですねと言いかけて隊長に叱られていた若い憲兵だった。こちらは自分で申し出たわけではなく、隊長に指名された。
若いというよりも中級学校を卒業したばかりの少年兵だ。小柄なので支給された制服が身に合っていない。ふっくらとした頬の、丸みのある幼さの残る面立ちをしている。
屋敷に残った二人を、貴婦人は朝食に誘った。
「軽い食事と飲み物を用意させますので、ご一緒にいかがですか」
二人は食堂に通された。
ルビーとブランコ乗りも食事に同席することになった。
ルビーはこっそり執事に「使用人がお客さんとの食事に同席するのはおかしくないですか?」と尋ねた。そうしたら、「ロビンさんはジゼルさまのお話し相手というお立場ですからおかしくありません」と返された。
「ただ、その服は会食にはふさわしくないので、違うものに着替えたほうがいいですね」とアドバイスをもらった。服については何がいいのか自分ではわからなかったので、自室のクローゼットに用意されていたものの中から選んでもらってそれに着替えた。
「マナーがよくわからないんですが」と小声で相談したら、「では、難しいものは出さないように料理長に伝えておきましょう」と言われ、にっこりされた。
その執事の指示かどうか、紅茶とともに出された朝食のメニューは手でちぎってもよい三日月形のソフトなパンと、スプーンとフォークで食べることのできるスープ仕立ての魚と野菜の料理だった。果物は盛り合わせの形ではなく、フォークを使って食べやすいようにカットされ、あらかじめ一人ずつ別の皿に盛り付けられていた。
ブランコ乗りはさっきまで二度寝を決め込んでいたものの、若い方の憲兵が律儀にも5分おきに様子を見に来るので、あきらめて起き出してきていた。
若い憲兵は、隊長に言いつけられたことを忠実に守ろうとする、よく言えばまじめな、悪く言えば融通の利かないタイプらしかった。
貴婦人は、いつものように黒ずくめの服で、テーブルの端っこの席に座っている。さっきまで流れるままに背中で波打っていた豊かな栗色の髪は、今はきちんと結いあげられて黒いベールつきの帽子の中に隠れてしまっている。黒いベールをしっかりと口元まで降ろし、襟元の詰まった黒い服を着て、黒いレースの手袋をして、明るい南向きの食堂の中で、貴婦人はまるで影そのもののようにも見えた。
貴婦人は朝食はとらない習慣らしく、彼女の目の前には料理の皿は運ばれてこない。給仕係の淹れたお茶を、時折思い出したように、ゆっくりと口に運ぶだけだ。
テーブルではさっきから副長が会話の主導権を握っていた。
彼は主に貴婦人に話しかけていたので、ブランコ乗りと憲兵の少年とルビーの3人は、2人の会話を黙って聞いていた。
席はブランコ乗りと眼鏡男が向かい合わせで、眼鏡男の隣が少年、少年の向かいがルビーでルビーの隣がブランコ乗り。ブランコ乗りと眼鏡男の向こう側の隅っこに、貴婦人が座っている。
奴隷解放論者ではないのかという眼鏡男の問いかけに、貴婦人は特に気を悪くした様子もなく、相変わらずおっとりとした口調で答える。
「わたくしは友人を心配しているだけですわ」
「なぜ奴隷などを友人に」
「見世物小屋の座長さんとは以前より懇意にさせていただいておりますの。ハロルド・レヴィンは一流のナイフ投げですのよ。副長さんは、彼の流麗なナイフの技をごらんになったことはありませんの?」
「見世物のナイフ技など、子どもだましでしょう。実戦の剣術には比べるべくもない。失礼ですがハマースタインの奥さまは──」
言いかけて彼は一旦言葉を切り、別の呼び名に言い直す。
「ブリュー侯爵ご令嬢は、だまされておいでなのでは?」
眼鏡男のとなりで、少年がびっくりした顔で貴婦人を見た。
眼鏡男は部下の様子に気づいて振り返る。
「この方はブリュー侯爵のご令嬢の、ジゼル・ブリューさまだよ。カルナーナの貴族の中でもとても身分の高いお方だ。本来ならこんな町はずれの鄙びた屋敷で一介の兵卒や見世物小屋の曲芸師などと一緒に食事をされるような方ではないのだがね」
貴婦人は、本当に不思議そうな様子で眼鏡男に尋ねた。
「失礼ですが、どこかでお会いしたことが?」
「侯爵令嬢は、かつての求婚者をお忘れですか?」
その言葉に、ルビーの向かいの少年は2度目のびっくり顔になって、今度は眼鏡男を見上げる。
ルビーはちらりと隣のブランコ乗りを見た。ゆうべ聞こえてきた会話が夢でないなら、貴婦人はかつての求婚者たちの顔など、まるきり忘れているに違いない。
ブランコ乗りは知らん顔で、スープを飲み、ちぎったパンを口に運んでいた。目の前で交わされている会話には、聞こえてはいても特に興味ないといった態度だった。
ルビーの視線に気づいたブランコ乗りは、しかし、「朝食のメニューにしてはきょうのこれは少し重いと思わない?」などと、眼鏡男の話とは全く関係のないことを小さくささやいてきた。
ルビーはブランコ乗りの言葉を聞き流した。
「そういえばだね、ロガールくん、見世物小屋といえば……」
眼鏡男は、不意にブランコ乗りに話を振る。
「レイ・フランチェスカ・マルティーネは元気かね。ああ、いまはレイラと名乗っているのだったかな」
ブランコ乗りは、いぶかしげに眼鏡男を見た。
「レイラがどうかしましたか?」
「いや、知り合いの愛人だったころの彼女をわたしは、少々知っているものでね。わたしの知り合いにちょっとした物好きがいて、彼女の面倒をみていたんだが、彼女は独立したいと言い出して、その者のところから町に出て行ってしまった。しかし、結局きちんと独立はできなかったようだったね。見世物小屋の世話になるぐらいだったら、知り合いのところにいた方が、好きなだけ舞いも舞えて、いい暮らしができていたと思うんだが……」
思わぬところで舞姫の名前を聞いて、ルビーは少しびっくりする。
気さくでさっぱりしていて、けれども面倒見のよいところもある舞姫とは、貴婦人の夕食に一緒に呼ばれたことがきっかけで親しく話をするようになった。ルビーが見習いに格下げになってからの何日かの間、同じ部屋に泊めてもらって、服も貸してもらった。ずいぶんと世話になった。
舞姫は座長からもう、ルビーが貴婦人に売り渡されてしまったことを聞いているだろうか。心配してくれているのではないだろうか。
ルビーは売られて、ナイフ投げはいきなりどこかに逃亡して、ブランコ乗りは興行を休んでここにいて、舞姫はいま、見世物小屋で一人かもしれない。彼女は、ナイフ投げの逃亡について、彼から事前に何か聞かされて知っていたりするのだろうか? そう思い至るとともに、見世物小屋の座長や警察の人たちからも同じように推察されて、厳しい追及を受けているのではないかと、ふと気になった。
眼鏡男は舞姫を、知り合いの愛人だったと言った。
好きな人とだけ寝るべきだよ、と言った舞姫の言葉をルビーはよく覚えている。あれは自分の体験とその悔恨に基づいた言葉だと、聞いたときに何となく思った。
眼鏡男の知り合いだという人との決別も、いまの生き方も、舞姫は後悔していないだろうし、自ら選びとったものだという自負もあるようにルビーには感じられる。
でも、目の前の嫌みな眼鏡男も、さっきの髭男と同じように見世物小屋に対しては否定的なのだ。
見世物小屋のことが全体的に誤解されているのか、それとも何の根拠もなくイメージだけで蔑んでいるのかはわからないが、とにかくルビーはむかついて、頭の中で反論の言葉を探そうとした。
そのとき。
「ぼく、知っています! 」
横から少年兵が口をはさんだ。
「舞姫のレイラさんですよね。政府の高官に囲われていたけれども、ダンスを極めたいという願いからその人と決別して町に下り、見世物小屋で一躍人気者になったっていう……。自分の道をつき進むレイラさん、かっこいいですよね」
頬を紅潮させ、少年は熱弁した。
「姉と一緒に興行を観に行ったこともあります。綺麗で躍動的で神秘的で……とにかく別格の、特別な舞いなんですよ。ぼく、一遍でファンになりました。そうだ、ロガールさん、姉はあなたのファンなんです。一緒に食事したことを話したら、姉はうらやましがるだろうな……」
見世物小屋を揶揄するような陰湿な空気が、一気に吹き飛んだ。
ブランコ乗りは苦笑しつつ、少年に軽く目礼をする。
「どうもそれは、光栄です。お姉さんに、よろしくお伝えください。舞姫には、あなたがファンだということをお伝えします。舞姫もきっと光栄に思うことでしょう」
「ぼく、あなたのことも知っています。たくさんのご婦人と浮き名を流されていることとか。……最近でしたら女占い師のマリア・リベルテとのことが、噂になっていますよ」
一度は陰湿な空気を吹き飛ばした少年の演説だったが、ブランコ乗りにとって、少々雲行きが怪しい。
「まあ」
案の定、貴婦人が面白そうに口をはさんできた。
「アーティ、あなた、女占い師の方と親しいの? 占いだなんて楽しそうね。ぜひ紹介していただきたいわ」
「すみません。姉が購読しているタブロイド紙に載っていたんです。ゴシップなので、根も葉もない嘘も混ざっていると思います」
うっかり発言だったことに気づいた少年は、首をすくめ、急いで話題を変えた。
「ところで副長、あなたは政府の高官の方とお知り合いなのですか? どこで知り合われたのです?」
「そう。わたくしも、それをお聞きしたいわ」
貴婦人もそう、口を添えた。
「副長さん、あなたには確かに見おぼえがあります。さっきから、思い出そうとしているのですけれども……」
貴婦人は、そう首を傾げた。ベール越しの視線は、おそらく眼鏡男をまじまじと見ているのであろう。
「かつてのわたくしの求婚者ということでしたら、貴族か貴族のご子息かと思うのですが、その貴族のご子息が、中央の軍でも海軍でもない町警察に、しかも将校ではなく一兵卒としていらっしゃるのは、どうしてですの?」
「お察しの通り、今のわたしは貴族でも何でもありません」
男の形のよい薄い唇に、微かに苦味の混じる笑みが浮かぶ。
「わたしの名前はアントワーヌ・エルミラーレンです。父の名前はウィルヘルム・エルミラーレンで、祖父がエルミラーレン公爵だと言えば、思い出していただけるでしょうか?」
ルビーには全く聞き覚えのない名前だった。しかし、ブランコ乗りと少年は、同時にさっと眼鏡男を見た。
制止されるよりも早く、少年が驚きの声を上げる。
「それだとカルナーナの王様の子孫ってことじゃないですか。エルミラーレン公爵は、25年前の革命で処刑された王族の一人だ。でも、どうして隊にいるときは名前が違うのですか?」
「きみはまだ若いのに、歴史に詳しいんだね」
眼鏡男は妙に優しげな調子で返した。口調は柔らかいのに底に冷たさを隠しているような声に、ルビーはざらざらとした違和感のようなものを覚え、思わず顔を上げた。
少年兵は、全く気付いていない様子で、嬉しそうな顔になる。
「はいっ。入隊試験のため、歴史を一生懸命勉強しました」
眼鏡男は色のない目で隣の少年を見おろし、歌うような不思議な声で言った。
「だが、ジョヴァンニ、きみはここで耳にした、わたしの出自にまつわる話は、すべて忘れなければいけないよ」
「……はい」
少年は突然、魂の抜けたような抑揚のない声になって、無表情に頷いた。
ルビーは息をつめて、眼鏡男をじっと見た。男の言葉の中に、別の何かがこもっているのを感じたからだ。いまの声色はなんだったのだろう。布か何かでふき取るように、隣の少年の声の抑揚と表情を拭い去った。
不意に、ちりちりと首の後ろが焼けるような心地がした。ルビーの心のどこかが、この男は危険だと告げている。
しかし男は素知らぬ顔で、再び貴婦人に視線を移す。
「もちろん普段は町警察などにはおりません。中央で、名前は伏せて、とある陸軍部隊の副官を務めさせていただいております。きょうは、逃亡奴隷の件で、このお屋敷に取り調べが入るという話を小耳にはさみましたので、急遽、担当の部隊のメンバーの一人と入れ替わって、同行させていただきました。こうでもしなければ、社交界に出て来られないあなたにお目にかかる機会がなかなか持てないものですから。入れ替わったとはいえ、小さな分隊の副長に軍の副官は務まりませんので、表向きはわたしは急病で休養中ということになっておりますが」
「それはとても興味深いお話ね」
貴婦人の声はその言葉の通り、むしろ面白がっていて、妙に緊張したいまのルビーの心情とかけ離れている。
「あなたの横で急にぼんやりしてしまった坊やも、あなたの隊の隊長さんも、あなたがいつも行動を共にしている副長さんではなくて、きょう一日だけのにわか副長さんだと気づいていないみたいでしたわ。きょうはあなたは、本物の副長さんに似せて、姿かたちを変えていらっしゃるの? それとも姿かたちはもとのあなたのままで、分隊長さんたちを、催眠術にでもかけていらっしゃるの?」
「どちらでもないですよ」
男は唇の両端を吊り上げて、酷薄にも見える薄笑いを浮かべた。
「ただ命令をして、いうことをきかせるのです。それだけです」
「本物の副長さんはいまどちらに?」
「いま説明したと思いましたが。きょうはわたしと入れ替わって、陸軍司令部の医務室で休養中です。明日には何事もなく、町警察の副長として復帰していることでしょう。──いや、そんなことはどうでもいい」
アントワーヌ・エルミラーレン、エルミラーレン公爵の孫、と名乗った男は、ついとテーブルを立ち、貴婦人のもとに歩み寄ると、その足元に膝をついた。
「いまここで、名乗りをあげてしまいましたので、わたしがここを訪れた目的もお伝えしようと思います。食事中に席を立つ無作法はお許しください。レディ・ブリュー、わたしはきょう、あなたに求婚にまいりました。お父上の亡きあとの領地にお戻りになって、わたしと結婚していただけませんか?」




