30 逃亡奴隷
翌朝、慌ただしさの中でルビーは目を覚ました。
町娘の服で、白い頭巾もかぶったままで、しかも靴までしっかり履いたままの姿で眠っていたことに、目が覚めて初めてルビーは気づいた。
さっきから、使用人たちがばたばたとせわしなく階段を登ったり下ったりする足音が響いてきていた。
ルビーはベッドから降り、スカートのしわを軽く伸ばしてから、歩いていってドアを開け、そっと廊下を覗いた。
2階の廊下の手すり越しに、1階のホールが見下ろせた。
ものものしい制服を着た憲兵たちが、溢れるように吹き抜けのホールに渦巻いて入ってくるところだった。
彼らは入ってくるなりびしりと列を揃え、気をつけの姿勢になった。皆すらりとした刀身の長いサーベルを帯びている。
隣のドアがパタンと開いて、貴婦人が姿を現した。
いつものシンプルな黒いドレスに黒いベールをかぶっていたが、髪を整える時間はなかったらしく、ベールの下から栗色の豊かな髪が、ゆるく波打ちながら腰のあたりまで流れ落ちていた。
廊下の奥から別の扉が開いて、執事が姿を現した。彼は無言で貴婦人に合流し、つき従った。
貴婦人は階段を降りかけて、一度振り返った。
「ロビン、あなたもいらっしゃいな。警察の方が、何か聞かれたいそうよ。気づいたことがあればあなたからもお話を」
階段を降り切って、執事とルビーを両脇に従えた貴婦人は、優雅な仕草でリーダーらしき黒髭の男の正面に立つ。
「朝早くからのお役目ご苦労様です。当主のジゼル・ハマースタインです」
黒髭男も自分の名を名乗り、挨拶を始めた。
自分は○○町治安課市民担当○○第1分隊隊長を務めさせていただいております。治安の乱れを正し、女子供でも不安なく出歩ける町の実現を目指し、日々奮闘しておりますところであり……。
長ったらしい挨拶だったので、その後半をルビーは聞き流した。
「……奥さまにはまだ休みのところお出迎えいただいて、まことに申し訳ございません」
最後の一言だけ、普通の挨拶に聞こえることを、髭男は言った。
貴婦人は頷き、確認した。
「ほかの使用人も、すべてこちらに呼んだ方がよろしくて? あと、客人を一人泊めているのですけれど、彼の証言も必要かしら?」
「きゃくじん……」
後ろに整列していた年若い憲兵が思わず口を開きかけ、黒髭男にジロリと睨まれて、慌てて居住いを正した。
「失礼ですが、どなたをお泊めでしょうか、奥さま」
「見世物小屋の──」
おもむろに貴婦人が口を開いたその瞬間、兵の間にびりりと緊張が走った。
「──ブランコ師のアルトゥーロ・ロガール氏が滞在中ですの」
先刻、一同の間を走りぬけた緊張は、貴婦人の次の言葉で途端に緩んだ。
先ほど口を開きかけた年若い憲兵が、再び口を開いた。
「では、アルトゥーロ・ロガールはシロですね」
「余計なことは言わんでいい」
黒髭男は、振り返って部下を怒鳴ったのち、貴婦人に向き直る。
「屋敷の人たちすべてに、我々の目の前に集まるようにおっしゃっていただけますか? それから念のため、屋敷の中を一通り見せていただきたい。……ロガール氏にも、少々お話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「何がありましたの?」
「説明はのちほど。まずは我々の捜査にご協力をお願いします」
腰は低かったが、有無を言わさぬ口調だった。
使用人はすべて1階のロビーに集められ、その間に憲兵たちは隊長に号令をかけられ、幾班かに分かれて屋敷に散っていった。
「あの、隊長さん……」
ホールに立って部下の背中を見送る髭男に、貴婦人は声をかけた。
「屋敷には開かずの間が多くあります。もう何年も鍵をかけたまま、使われていない使用人部屋ですとか。亡くなった夫の書斎ですとか。もし必要でしたら、執事に鍵を持たせて案内させましょう」
「はい、ああ、いえ……」
髭男は少し迷っているようだった。
「われわれとしては、本当は奥さまを疑っているわけではないのです。ですが、見世物小屋の座長が、ハロルド・レヴィンとハマースタインの奥さまに交流があったから、調べてくれと申してきておりまして……」
貴婦人は首を傾げた。
「ハロルド・レヴィンがどうかして?」
「逃亡しました」
「まあ……」
貴婦人は目を丸くする。
「外部に手引きしたものがいるはずです。やつの最近の交友関係から洗っているところでして……」
カチャリと2階の階段わきのドアが開く音がしたため、髭男は話を中断した。
ブランコ乗りだった。先ほど貴婦人が姿を現したのと同じドアから出てきて、ゆっくりと階段を下りてくる。
ひどく眠たげな顔で使用人の後ろに回ったブランコ乗りを、貴婦人は呼んだ。
「アーティ、こちらへ。隊長さんに紹介するわ」
ブランコ乗りは眠たげな顔のまま前に出てきて無言で貴婦人の傍らに立った。
貴婦人に紹介されて、ブランコ乗りはアルトゥーロですと短く名乗り、頭を下げた。
髭男は何も言わず、ブランコ乗りを嫌そうな顔で見た。
事情聴取はホールわきの会議用のテーブルのついた応接室を1室開放して、一人ずつ行われた。
話を聞き終った使用人から順に放免されて屋敷での仕事に戻っていったが、ルビーは執事とともに、貴婦人の傍らで、一人一人に形式的な質問を繰り返す髭男を見ていた。
ルビーもブランコ乗りも、真っ先に事情聴取を受けていた。そのとき自分たちが聞かれた内容と違って、他の使用人たちに対する聴取は、形だけのごく短いものであることが見て取れた。
ブランコ乗りは、最初の方の自分の聴取が済むと、眠いから失礼しますとだけ言って、2階の部屋にさっさと引っ込んでしまい、ここにはいない。
全員とやり取りを終えると、髭男は椅子に座ったままで顔を上げた。
「屋敷には不審なものが逃げ込んだと見られる形跡はありませんでした。善良な市民のみなさんのご協力に、警察は感謝いたします。あとは、きのうの夕方奥さまのところを出発した側仕えの少女とロガール氏が、夕食のために入った店に確かにいたという裏づけがとれれば、聞き込みは完了です」
横から副長らしき憲兵が口をはさむ。
「隊長、店は深夜まで営業する居酒屋です。この時間にはまだ、だれも出勤していない可能性が高い。昼近くともなれば、仕込みの者などが出てくるでしょうが」
副長は黒髭の隊長と対照的に、全体に色素の薄い、怜悧な印象の眼鏡の男だった。
髭男は頷いた。
「部下を一人、いえ、二人こちらに残します。奥さまにはお手数ですが、裏づけと確認がしっかりとれるまで、ロガール氏をここにとどめ置くようご協力願えますか。部下にロガール氏を見張らせていただきます。お目障りかとは思いますが、遅くとも昼過ぎには結論が出ると思いますので」
「わかりました」
「それからこれは……少々差し出がましいようですが……」
髭男は少々ためらってから口を開いた。
「あのような賤しい芸人との火遊びは、感心いたしませんな。亡くなられたあなたのご主人が、さぞお嘆きではないかと……」
ルビーは男の濃い髭に覆われた口元をじっと見た。
賤しい芸人とはどういった意味だろう。いい言葉ではない。
ただ、目の前でどこか所在なげに髭をいじっている男は、親切心とかそういうものから言っているらしい。本人にしてみれば悪意はないつもりなのだ。
貴婦人がルビーの肩に手をかけたので、ルビーは振り向いた。ルビーは貴婦人の口の両端が微かに釣り上がるのを見た。
「隊長さんは、主人をご存じですの?」
髭男も副長も気づくはずもなかったが、この声は、貴婦人が面白がっているときの口調だ。
あのベールの下にいま彼女は、人の悪い笑顔を隠しているのだ。
「いえ直接には。ですがご夫君の武功については聞き及んでおります」
「主人とわたくしは、身分違いの恋でしたの。隊長さんは、身分違いの恋について、いかがお考えでしょう?」
「カルナーナは自由な平等国家です」
ぴしりと姿勢を正し、髭男は答えた。
「身分違いなどという言葉は存在し得ません」
「では、奴隷についてはいかがお考えですか?」
「わたしは現在の政府の見解と立場を同じくしております。奴隷制度は必要悪であるとの考えです。また、カルナーナは発達した商業国でもあります。国家が今後も滞りなく富み栄えていくことが最優先事項になりますので、古くから築き上げてきた制度を改革するには、慎重を要します。しかし、奴隷に関しての救済的法律は、いまのところ、なかなかうまく機能を始めているのではないでしょうか」
「隊長さんは、職業に貴賎はあるとお考えですか? 見世物小屋の芸人は賤しい職業のものだと?」
「だって見世物ですよ? 国を守るのでもなければ作物や工芸品を育てつくるのでもない。食事を提供するわけでもなければ、教壇から人を教え導くのでもない。人々の下世話な好奇心を満たすためだけの仕事ではないですか? 春を売るのだって平気な連中だ。女は娼婦と同じ、男はゴロツキと同じだ。むしろわたしが問いたい。それは、誇りをもって従事できる職業なんですか?」
できる、と言い返したくてルビーは口がむずむずした。だって見世物小屋のみんなは、昼夜を問わず、観客のいない所でも、地道に鍛錬を積んでいるのだ。怪力男だって、箱女だって、いっぱい訓練して、練習して、技のレベルを維持しているのだ。
ブランコ乗りだってそうだ。命がけの空中技を、誇りを持てないなどと一刀両断されては立つ瀬がない。
が、肩にかかる貴婦人の手は、少しだけまた、ルビーを後ろに引き寄せる。
見上げると、やはり貴婦人は口元に楽しげな微笑みを浮かべている。
「隊長さんは、逃亡した奴隷についてはいかがお考えでしょう。あなたのおっしゃる”賤しい職業”に好んで従事していたとお考えですか?」
「それは……」
髭男は少し考え、答えた。
「好んでいたら、逃亡はせんでしょうな。しかし……単に奴隷でいるのが嫌になっただけかもしれません」
「カルナーナの警察は、非常に優秀であると聞き及んでおります。ハロルド・レヴィンが捕えられるのは時間の問題でしょう。ですけれども、もし彼が、好んで芸人をしていたのではないとすれば、彼には情状酌量の余地があるということにはなりませんか?」
「それは……なんとも……」
「ハロルドは自分で職業を選択できません。”賤しい芸人”をやめたいと思っても、きっと逃げ出す以外道がなかったのですわ」
「し……しかし……」
髭男は口ごもりながらも反論を試みる。
「失礼ながら、奥さま、いまと昔では事情が違います。違法な手段を取らなくとも、合法的に自由市民の権利を獲得できる道はあるはずです。それを怠って、楽に自由を手に入れようとするものが我が物顔にのさばり始めると、国の治安が乱れかねません」
「ハロルドは10年間見世物小屋にいたそうですわ。警察の方たちは彼の交友関係を洗ってらっしゃるそうですが、彼はそんなに外に出歩いていたのかしら? 飲みに出たことが? 買い物に? 誰かに会いに?
ハロルドがここを訪れるのは、他のみなさんと一緒にこちらがディナーに招待さしあげたとき、座長さんに伴われての訪問だけですのよ? 自分から訪ねてきたことは一度もありません。彼は、見世物小屋の外で散財している様子はないのではありませんか? だからさほどの交流のないわたくしのところを、座長さんは思いつかれたのでは?
彼がずっとつつましく暮らしてきたのでしたら、8年前の法改正のときからもらっていたはずの賃金を貯めて、自由を買い取ることも可能だったのではないでしょうか? なのに彼は、どうして逃げたのでしょうね」
貴婦人はさも不思議そうにそう言って、首を傾げた。
「隊長さん、もう一度質問してもよろしくて? カルナーナには果たして、身分違いの恋は本当に存在しないのかしら? どうお思いになられます?」
「う……それは……」
髭男は、ますます言葉に詰まる。
代わって隣に控えていた副長が、貴婦人の言葉を受けた。
「奥さま。あなたはご自分がハロルド・レヴィンと恋仲であると、そうおっしゃられてるのでしょうか?」
「いいえ、まったく」
貴婦人は首を横に振った。
「そんなことは申しておりません。彼はよき友人の一人です。ですので、友人としてお願いがありますの。彼が本当に自由になる権利を持たなかったのか、持たないのでしたらなぜなのか、彼のお給料はどこに消えたのか、きちんと調べていただけませんか?」
「しかし……それは、わたしどもの管轄ではありません」
髭男は、ハンカチを取り出し、額の汗をぬぐった。
「カルナーナは自由と平等の国なのでしょう」
確かめるように、貴婦人は問いかける。
「それとも、共和制元年の式典で詠われたという建国の辞は、おためごかしなのかしら?」
たじろぐ髭男に代わって、横から副長が答えた。
「わかりました、奥さま。納税管理課に調査依頼の書類を送っておきます。しかしながら、わたくしからも、一つ忠告させていただきます。奥さまがそのように、逃亡奴隷に対する擁護とも取られかねない発言をされると、せっかく晴れた疑いを、またかぶることになりはしませんかね。奥さまは、ハロルド・レヴィンの逃亡に、本当に関与されてないのですか?」
「そうですね」
ルビーの見上げる貴婦人の口元がまた、楽しげにほころんだ。
「このように彼の自由を擁護する発言をしますと、警察の皆さんを混乱させてしまうかもしれませんね。その点につきましては浅慮でありましたこと、お詫び申し上げます。ですが、少し考えていただければご理解いただけるのではないかと思うのですが、もしもわたくしが積極的にハロルドを自由にしたいなら、盗み出すなどという面倒で手間のかかることはいたしません。堂々と買い取りますわ。夫が残してくれた遺産が、余るほどにあるのですもの。見世物小屋の座長さんにもそうお伝えくださいな」
髭男は今度は、貴婦人を嫌そうに見た。




