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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[二] 侯爵家と王族の男
29/110

29 隠し階段(※改稿部分)

「でも、そうね……」

 楽しげに忍び笑いを漏らす男に、容赦のない一撃を与えておいてから、ジゼルはなおも記憶を探る。

「ワルシュティン侯爵は、当時の求婚者の中にいらしたと思うわ。……そのワルシュティン侯爵がどうかして?」


「奥さま、どうぞもう一度横になられて、楽な姿勢で話をお聞きください。奥さまがかしこまっておいでですと、ぼくも話しづらいです」

 つねられたことなど歯牙にもかけない様子の男は、柔らかな声で、柔らかな仕草で微笑んだ。


「ワルシュティン卿は、あなたをお連れになった日のほかに、その前日と前々日と、合わせて3日間続けて見世物小屋に通っておいででした。ぼくのパートナーは最初の日に観客の中から卿の姿を見つけ、非常におびえておりました。卿はとても背が高かったので、人ごみの中でもよく目立っていました。

 ぼくは彼女に興行を休ませるように交渉しましたが、座長はうんと言わず、彼女も座長に逆らうことができず、3日とも軽業の演目に出演しました。そして、3日目に事故は起こりました」


「あの日、ブランコを結わえている横の縄紐が、突然ほどけたように見えたわ」


「ええ。その直接の原因は今でもわかりません。紐は前の晩に親方とぼくとでチェックして、強くしっかりと固定されていることを確認したばかりでした。

 ぼくはあらゆる可能性について考えました。

 貴族の中には不思議な力を使うものがいるという話を聞いたことがありましたので、あの男が何かしたのではないかとも思いました。彼女は何かの口封じのために殺されてしまったのではないかと。でも、ほんとうに偶然の、ただの事故だったのかもしれません。

 あるいは貴族のその男の力が原因でも偶然でもなく、夜中にだれかが大ホールに忍びこんで天井に登って、縄を緩めたのではないだろうかとも考えました。

 結論は出ないままでした。

 果たして口封じの必要な出来事があったのかどうかすら、わからなかったのです」


 静かな口調で彼は話す。感情を抑えた、淡々とした声で。


「彼女とぼくが出会ったあの奴隷商人の館で、最初に彼女を買っていったのがワルシュティン卿でした。そのときは、買われて3日で彼女は売り戻されてきました。

 戻ってきたとき、彼女は身体のあちこちに、ひどい怪我をしていました。そして、長く伸ばしていつも丁寧に結わえていた彼女の髪は、短く刈り込まれてしまっていて、まるで案山子の頭についている麦わらのような髪型になってしまっていました。

 何があったのかは知りません。

 周囲の大人が訳知り顔に言いました。貴族の残酷な遊びに使われて、用済みになったから安値で買い戻されてきたんだ、と。


 あとになってからも、彼女はそのときの詳しい事情については何も説明してくれませんでした。ぼくも聞きませんでした。何をどう聞いたらいいのかわからなかったのもあります。

 いまのぼくなら、それとなく水を向けてみるなどという試みもできたと思います。でも、当時のぼくには、彼女を傷つけずにうまく話を聞く自信がなかったのです。

 見世物小屋で再会してからぼくは彼女に、髪をまた伸ばすように頼みました。長い髪がとてもよく似合っていたから、最初に出会ったときみたいにまた伸ばしてほしいと言ったんです。

 2年の間に髪はずいぶん伸びて、髪の長さに比例するように、ゆっくりとではありましたが、だんだんとまた、彼女に笑顔が増えていきました。

 でも結局、髪がいつかのように腰まで届く長さになることは、2度とありませんでした」

 語り終えた彼は、口をつぐんだ。


「知らなかったわ。」

 言葉とともに、深いため息がこぼれた。

「わたくしには、あなた方二人は、とても幸せそうに見えていたのよ。だってずっと見つめ合っていたでしょう?」

 見上げるジゼルに、彼は頷き返す。

「あのときは、観客の方を見ないように、ぼくの方だけ見て演技に集中するように、彼女に言いました。1日目と2日目に比べて、3日目はそれがとてもよくできていたのだと思います」


「そのあと、ワルシュティン卿はどうなったの?」

 ささやくような小さい声で彼女は聞いた。

「あなた、調べたのでしょう?」


「ワルシュティン卿の最期については、おそらく首相がご存じではと思います」

「彼は死んだの?」

「おそらく。彼は悪評高い領主の1人であったらしく、表向きの記録では暴徒に襲われて亡くなったことになっています。けれども調べたところ、彼の謎の死には、どうも首相が一枚かんでいるようでした」

「首相が?」


「ぼくの話には関係ありませんが、近頃思わぬところで立て続けに首相の名前を耳にするんですが……。あの方は国じゅうを走りまわって、一体いま、何をなさっておいでなのでしょうか。

 話を戻します……。


 調べてその領主が不審死を遂げていることと、首相が関わっていることまではつきとめたのですが、ぼくにはそれ以上の真実には近づくすべはありませんでした。

 生きていれば、どうやってか彼に真実を問うことができたのかもしれません。──いえ、武人でもない無力なぼくなどでは極悪非道な領主の所業をあばきたてようとしても、返り討ちに遭う公算の方が大きかったかもしれませんが。

 ワルシュティン卿は亡くなり、もと領地はいまは国有地として役人が管理をしているようです。もとより領民に好かれている領主ではなかったので、そこに住む人たちは中央から派遣されてきた官吏を歓迎し、統治は上手く進んでいるようすでした」


「知らなかったわ」

 他に言葉も思いつかず、もう一度、ジゼルはそう繰り返した。


「きょうはジゼルさま、あなたが卿に何のかかわりも持たないということを、改めて確認できてよかったです。あるときあなたが再び見世物小屋サーカスにやってきて、座長を通して資金援助を始め、運営にも関わりを持つようになってから、少なくとも──」

 アートは次の言葉を、少し言い淀んだ。

「一抹の疑念を拭い去ることが、どうしてもできずにいたので……」

「あら、そう言い切れるの? もしもわたくしが──」

 ジゼルの言葉を、男は柔らかく遮った。

「駄目ですよ、奥さま。そんな風に思わせぶりになさっても。そう言い切れます」


 再び沈黙が下りた。

 ジゼルは自分に言い聞かせるような声で、小さくつぶやいた。

「あなたがロビンを気にしているのは、その少女に境遇が重なるからなのね」

「どうなんでしょう。ぼくの知っていた彼女と年のころが同じなので、どうしても重ねて見てしまう部分はあるのかもしれないです。顔や雰囲気が特に似ているわけではないのですが。いや、似てなくはないのかな……」


「その女の子は博識で、本を読むのが好きだったのでしょう。ロビンは字も書けないし、計算もできないみたいよ」


「彼女はどちらかというと物静かな、おとなしい少女でした。でも、内側に静かな情熱を秘めていた。自分ではない外側の世界のことにいつも興味を持っていて、世界中に満ちているいろいろな謎に迫りたいと考えていたようです。自然界のこと、天体のこと、社会のこと、人間の歴史のこと……。さまざまなものごとに対する興味と情熱が彼女をつき動かしていて、ひどいことが──多分口には出せないようなひどいことが彼女の身に起きたにもかかわらず、彼女の心に消えぬ火を灯し続けているようでした。


 人魚は彼女とタイプは違いますが、関心が自分以外に向いているところは似ているように思います。女の子っぽくないっていうのかな。

 大抵の女の子って着飾ったりおしゃれしたりに夢中で、そういう自分を誉めてもらったり認めてもらえると、単純に喜ぶじゃないですか。人魚は髪はいつもぐしゃぐしゃだし、身なりは一切選り好みをしないし、アクセサリーにも興味がないし、ぼくが誉めても反応がないどころかどうやら反感を持たれているようで……そのくせ空中ブランコを習うという話に突然飛びついてきたりで……なんていうのか、驚かされます」


***


 夢うつつで途切れ途切れに二人の会話の断片を拾っていたルビーの記憶は、そのあたりでふっつりと途絶えている。

 貴婦人が笑いを含んだ声で、ブランコ乗りに何か言っていたような気がするが、最後のあたりはほとんど覚えていない。

 睡魔の波は今度こそ大きくルビーを巻き込んでとらえ、どこか遠くの夢の海にさらっていったのだった。


 夢の中でルビーは、舞台の大天井(おおてんじょう)をびゅんびゅん飛び回るブランコ乗りの姿を眺めていた。と思ったら、その白い影が不意に隣の壁を突き抜けて、ルビーの部屋の中にまでやってきた。


 窓からちょうど月明かりが差し込んで、ブランコ乗りがやってきたのと反対の壁に、何かで切り取ったかのような四角い空洞ができているのが見えた。空洞の向こうはどうやら階段になっているらしかった。

 ブランコ乗りはちいさな火のともった燭台を片手に、いままさに壁の階段を下ってどこかに降りていこうとしているところらしかった。

 不思議そうにそれを見ているルビーに、ブランコ乗りが、振り返って言った。


「これは夢だよ、赤毛ちゃん。眠って起きたらこの夢のことは忘れるんだ。いいね。夏の夜は短い。ぐっすりおやすみ」

 壁の向こうにブランコ乗りは消え、カタンと小さな音がして、それとともに空洞が閉じた。

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