28 落ちた少女(※改稿部分)
「ぼくは、少しの間だけ奴隷だったことがあるんですよ。いや、正確には買い手がつく前に解放されましたから、未登録の状態でしたが」
アートが話し始めてすぐに、ジゼルはさっきまで閉じていた目をまた開けてしまった。
そこで彼は一旦言葉を切り、彼女の白い額から頬にかけてをそっと撫でた。しばらくしてジゼルは再び目を閉じる。
そこで彼は、彼女の瞼を覆うようにして、彼女の目元に静かに手を置いた。それから、ゆっくりとした口調で再び話し始める。
「父は国の中央にある町の結構裕福な商人で、ぼくはその3番目の息子でした。年の離れた母親違いの兄が二人いました。ぼくは妾腹の子だったのですが、実の母に死に別れ、父親のもとに引き取られました。
父の正妻である母は──引き取られたときにその人を母と呼ぶように言われたのですが──家に入ってきたぼくを疎ましく思っていたようです。それでも父が生きていたときは、何事もなく生活しておりました。
ところがぼくが14歳になったばかりのころ、父が突然死んでしまいました。
そのどさくさにまぎれて、母はぼくを奴隷商人に売ったんです。帰り道がわからないように目隠しをされて、どこか見知らぬ別の町に連れて行かれました。そして、ほかの多くの買われてきた人たちと一緒に、何日間かをどこかの館で過ごしました。
大きな建物で、建物の1階部分がそのまま奴隷市場になっているような場所でした。中庭はありましたが、外が全く見えないので、どこに連れてこられたのかがまったくわかりませんでした。
ですが、上の兄がぼくを探し出して、買い戻しに駆けつけてくれました。うちは大きな商家だったので、ツテがいろいろあったらしいです。兄はもう何年も前に成人して一人前の商人として働いていて、その頃にはもう結構な人脈をつくることができていたようです。
それでも奴隷商人というのは、秘密結社のような独自の組織をつくっているらしく、足取りをたどるのに非常に苦労したそうです。
ひとまず家に戻ってはきたんですが、謝ってくれている兄たちの後ろで、ものすごい形相で母がぼくを睨んでいました。あの顔は、一度見たら忘れられません。
それでぼくは家を出ました。そのまま家にいたら、今度は売り飛ばされるぐらいでは済まない、食事に毒を盛られるんじゃないかって真剣に思いましたから。
女性は対処を間違えるととんでもない恐ろしいものになるというのは、父が最期に残してくれた教訓だったと思っています。
そしてぼくは、見世物小屋に行って空中ブランコを始めたんです。といっていきなり空中技はできませんので、まずは頼みこんで、ブランコ乗りの親方に弟子入りを果たしました。
親方というのがまた、昔堅気のなかなか厳しい人だったのですが……」
「そこ、つながらないわ」
それまで大人しく黙って聞いていたジゼルは、不意にアートの言葉を遮って指摘してきた。
彼女が瞼を開く感触を手のひらに感じ、アートはその手を目元から額にそっと移す。
彼女はやはり目を見開いて、アートを見上げてきた。
「どうしてまっすぐ見世物小屋に行ったの?」
「……いま、お話しします。また少し、時間がさかのぼりますが」
アートは苦笑し、話を続ける。
「奴隷商人の館で、ぼくは一人の少女に出会いました。ありていにいいますと、ぼくはその女の子に恋しました」
その説明が的確なのかどうか、アート自身にもわからなかった。理由もなく心が動いたことだけが事実だ。だが、理由づけがあった方が目の前の女性には理解しやすいのではと思い、恋心だと、そう説明する。
「彼女はぼくと同じころにそこにやってきたのですが、買い手もなく何日もの間、館の中をぶらぶらしていたぼくと違って、彼女にはすぐに売られていってしまいました。でも、最初の日と次の日ぐらいに、たくさん話をしたのを覚えています。年が近かったことと、住んでいた町がたまたま隣どうしだったことで意気投合したのもありました。商品として1階の店に降ろされるときに何人かの同じ年頃のものたちと一緒に同じブースに置かれていたので、話しやすかったのもありました」
ジゼルに誘導されて語り始めた形になった少女の話だった。けれども、話しながらアートは、自分が本当に彼女に聞いてもらいたいのは、継母の話でもなく兄の話でもなく、この少女の話であったことに気づく。
「すんなりとした手足の、ほっそりとした少女でした。そばかすがあって鼻が低くて口は大きめだったけど、素朴な雰囲気を持っていて、笑うととてもキュートでした。亜麻色の長い髪が自慢で、大事に手入れしていました」
ジゼルのくっきりとした綺麗な目は見開かれたまま、じっとこちらを見ている。子守唄がわりにもならない話をうっかり始めてしまった気まずさから、アートは彼女から視線を外し、ぼんやりと燭台の明かりに目をやり、それから目を閉じた。
「書物を読むのが好きだと言っていて、博識でした。学者になるのが夢だったけれども、父親が悪人に騙されて身ぐるみ持って行かれ、自分は売られてしまい、上級学校に行くことができなくなったと残念がっていました。忙しい商人に買われて働きながら経理の勉強ができたら幸運かもしれない、などと語っていました。でなければ大きな病院で何か人の役に立つことが学べるような仕事ができたらと」
目を閉じれば大きな口を開けて笑う彼女のその素朴な笑顔を、動くその姿を、仕草を、声を、夢見るように語っていた言葉を、いまでも生々しい質感を伴って、アートは思い出すことができる。どうしようもなく無力な自分と向き合うはめになった、苦い記憶とともに。
「ですが……」
彼は一度言葉に詰まり、しばらく黙っていたが、やがて、ぎごちなく会話を再開した。
「彼女が買われていったのは、そのどちらでもない見世物小屋でした。それは、兄がぼくを見つけ出して訪ねて来てくれた日の、前日のことでした」
「アーティ。あなたの話に矛盾を見つけたわ。あなたは最初、その女の子にはすぐに買い手がついたと言わなかった? 彼女が買われていったのは本当に、お兄さまがあなたをお迎えにいらした日の前の日だったの?」
彼が話の続きを始めるまで、静かに黙って待ってくれていたジゼルだったが、すぐにそう指摘してきた。
「……本当ですよ」
どう返答しようかしばし迷ったあと、アートは低い声でゆっくりと言った。
「最初彼女は買われていって、すぐに──3日後ぐらいに戻ってきたのです。そのあと座長がやってきて、今度は彼女は見世物小屋に買われていきました」
「全部話して」
目を開けたジゼルは、アートの頬に手を伸ばして触れてきた。それからおもむろに身を起こすと、座っている彼の顔を、至近距離から覗き込んでくる。
「彼女に何があったの?」
ジゼルがとても注意深くここまでの彼の話に耳を傾けてくれていたことを感じ、申し訳なく思うとともに、いたたまれない気持ちでアートは謝罪した。
「奥さま、どうやらぼくは、子守唄代わりにはそぐわない話を始めてしまったようです」
「構わないわ。わたくしが聞きたくて質問したの。何があったのか教えてくれる? 昼間わたくしがロビンに話したことと、関係があるの?」
「昼間? 昼間の話がどうかされましたか?」
怪訝そうな顔になるアートに、ジゼルは重ねて尋ねる。
「ロビンから聞いてないの?」
「何をですか?」
「では、人魚はあなたに話さなかったのね。5年前にわたくしが見世物小屋に行って、あなたの空中ブランコのパートナーの落下事故をたまたま目撃してしまったということよ」
アートは目を見開いて、ジゼルを見返した。
しばらくそのまま固まっていた彼は、やがて思いなおしたようにかぶりを振り、ゆっくりと低い声で言った。
「聞いていません。人魚からは、何も」
二人の間に、息が詰まるような沈黙がおりた。アートもジゼルも押し黙ったまま、次に相手が口を開くのを待っていた。
先に口を開いたのはアートだった。彼は、吐く息とともに、物思いにふけるような低い声で、まるで独り言のようにつぶやいた。
「では、あのときのご婦人は、やはりジゼルさま、あなただったのですね」
「どういうこと?」
対するジゼルの声にも戸惑いが滲む。
「奥さまのお察しのとおり、そのとき落ちた少女は、いまお話しした少女と同一人物です。ぼくは彼女の行方を訪ねて捜し回り、あの見世物小屋にたどり着いたのです。彼女は見世物小屋でぼくとともに軽業を習い、空中ブランコの曲芸師になりました。ところで奥さま、5年前にあなたが見世物小屋にいらしたときのお連れの紳士のお名前を覚えておいでですか?」
「どうだったかしら? 少し待ってちょうだいね。思い出してみるわ」
ジゼルはその顔に戸惑いを浮かべたまま、考え込んでしまった。
しばらく待って、アートは水を向けてみる。
「……ワルシュティン卿ではありませんでしたか?」
「そうね」
ジゼルは首を傾げながら、ともかく肯定の言葉を返したが、やはり腑に落ちていない表情のままだ。
「言われれば、となりにいたのはその人だったような気がするわ」
はっきりとは思いだせないらしい。
「覚えてらっしゃらないんですか?」
思わずアートは、少々呆れた口調になる。
困った顔で、ジゼルは額に手を当てた。
しばらく考えていた彼女は、諦めたように一つため息をついて彼に向き直った。
「だって……あのころは、求婚者たちが引きも切らず次々と押し寄せてきていて、大抵の男性はわたくしには顔があるやらないやらで……あの日その方のお誘いをお受けしたのもその方への関心というよりは、見世物小屋などという庶民の通う場所にお誘いくださったのが珍しくて……相手の男性については本当にどうでもよかったのですもの。……笑わないでちょうだい、アーティ」
ジゼルは最後にそう言って、アートをにらんできた。
ああ、この人はこういう人だった、という感想とともに、肩の力が抜け、気づけば笑いがこみあげてきたのだった。
夫の凄惨な死が彼女の人となりに影を落としているとはいえ、この女性は本質的には自由気ままで限りなく放縦なのだ。
笑いながら、あなたらしい、と答えると、伸びてきた手に思いっきり背中をつねられ、アートは顔をしかめた。




