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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[二] 侯爵家と王族の男
27/110

27 グレイハートの3の弟子(※改稿部分)

 嗚咽はしばらく続いていたが、やがて小さくなり、いつしか止んだ。人の動く気配とともに、ブランコ乗りの声が聞こえた。

「水をどうぞ、奥さま」

「……ありがとう」

 深いため息とともに、静かに貴婦人は答えた。

「きょうのあなたは、とてもお行儀がいいのね」

「隣の部屋に人魚がいますので」


 自分が目をさましていることがまるでわかっているかのような口ぶりに、ルビーはどきどきした。


***


 水差しからコップに注いで渡された水を一口、口にして、ジゼル・ハマースタインは目の前の背の高い青年を見上げた。

「あの子は眠っているのでしょう?」

「庶民は気が小さいので、人が近くにいると落ち着かないんですよ」

 どこか言い訳めいたその返答に、彼女は笑みを漏らす。

「気になる女の子がすぐ近くで寝ていたら、それは落ち着かないでしょうね」


「女の人って、どうしてすぐそう、誰が誰を好きとかお似合いだとか、そういう話にしたがるんでしょう」

 アートは呆れ顔になる。

「さっき似たようなことを人魚にも言われたばかりです」

「彼女はなんて?」

「ぼくがあなたを好きなんだろうって」

「それで、あなたはなんて答えたの?」

「それが、返答に困るような言い方をされてしまったので……」


 そう答えながら、アートは小料理屋での人魚の言葉を思い返した。

 奥さまのことを好きなのね、と少女にいわれ、即座に否定したが、そのすぐあとで人魚の言葉に恋愛的な含みがないことに気づいた。

 それはどこまでも単純で根源的な言葉だ。その人が好きか。その人の存在を肯定するか。何かあったときに、その人の味方になり、支えになりたいと願うか。

 答えは多分、イエスなのだ。


 この奔放で享楽的な人の悪い女性は、芸人と顧客という立場的なことはさておいても、恋愛の対象としては自分などの手に負える相手ではない。そのことは重々承知していたし、自分の中でも折り合いをつけることはできていると思う。

 けれどもそれとはまったく関係なく。

 今、彼は、及ばずながら、ささやかながら、彼女の力になりたいと考えている。


 と、同時に。

 現実には、それと全く逆のことをしようとしている自分も自覚している。

 アートはきょう、彼女と過ごす時間を、ジゼルの屋敷への訪問を、これから起こるはずの事件に対しての、彼自身のアリバイのために利用しようとしているのだから。

 もし、そのことを後日彼女が知ったら、この人はそれをどう思うのだろう。

 もしも、後日そのことで咎め立てされたら、厚かましく、ずうずうしく、ひたすら許しを乞おう。

 アートはそう考えたが、彼女は自分が利用されたことを知っても、彼を咎めたりしないような気がした。


 優雅な仕草で小首をかしげながら、ジゼルは彼に聞き返した。

「返答に困るような言い方?」

「人魚が言うには、そのときの会話の中で、ぼくは人魚に頼みこんでいたらしいです。どうかあなたを悲しませるようなことはしないでくれって」

「そうだったの?」

「そんな自覚はなかった。でも、人魚にはそう聞こえていたみたいです」


「何の話をしていたの?」

「アララークのあらゆる国に偏在する貴族のことや、あなたの血筋のこと、あなたがその血統を厭わしく思われていることなどを」

「それはあなたの言うとおりだわ、アーティ。わたくしは、自分の中の貴族の血統が厭わしい。でも、それが事実かどうかということより、あの子の──人魚の前で、あなたがわたくしのことばかり話したことの方が問題だったのではなくて? 女の子を目の前にして、別の女性の話ばかりしていたら、だれだってその別の人の方に関心があるのだろうと思うわ」

「ぼくたちは二人で、あなたのことを話題にしていたのですよ。人魚はあなたのことを知りたがっていたんです」


「人魚がわたくしを悲しませるって、どういうこと?」

「あなたは人魚に言ったそうですね。人魚を手中に収めることで、あなたはぼくを従わせて意のままにできるんじゃないかと」

「言ったわ」

 どこか挑発するような強いまなざしで彼を見返しながら、ジゼルは口元に笑みを浮かべる。

 アートは穏やかな口調で返した。

「人魚がいようといまいと、いつでもぼくはあなたの(しもべ)ですよ」

「嘘ばっかり」


「ぼくは人魚にこういう意味のことを言ったらしいです。自分を曲げて、あなたの言いなりになることは、あなたを悲しませることだから、そうはならないでほしいと」

 彼女は黙っていた。

 アートは一度息を吸い込んで、それからゆっくりと言葉をつないだ。我知らず人魚に頼み込んでいた、ささやかなこの願いが、この人自身に対しても、少しでも伝わればいいと思いながら。

「ジゼルさま。あなたがご自分自身を傷つけること以外でしたら、ぼくはどんなことにでも従いましょう」


 少しの沈黙の後、ささやくような小さな声で彼女は答えた。

「ときおりわたくしは、自分自身をとても疎ましく感じるのよ」

「存じております。それでも、日々は過ぎていきます。あすはきょうよりも穏やかな日が巡ってくると、そう信じて祈ることなら、できるのではないですか?」

「きょうのあなたは、何か変だわ。いいえ、変なのはきっとわたくしの方ね。あなたの前で、取り乱してしまったりしたから……」


 もちろんアートは自分が彼女に対し、いつもと違う態度をとってしまっていることを自覚している。それでも彼はただ首を横に振る。

「今夜一晩ぐらいは亡くなられた方の小さな娘に戻ってその死を悼んでも、罰は当たらないのではないでしようか」

「いいえ、アーティ。やはりわたくしには、父を許すことはできないの」

 貴婦人は、低いがどこか激しい口調になって、そう言い返した。


  

 ほの暗い燭台のあかりの中、彼女の淡い茶色の瞳にもう一つの火がともる。心を映し出す暗い情熱の焔だ。

 ジゼルはアートから身を離し、姿勢を正してきちんと座り直し、感情を抑えた低い声で、話し始めた。


「貴族のつながりってね、アーティ、あなたも知っているでしょうけど、国を越えてお互いに血族としてつながっているの。魔力を持っているものも多いし、そういった力を使って秘密裏に情報を交わし合ったりしている。

 死んだ夫は武人だったわ。先の戦争で幾度も武勲を立てた人で、人望も厚かった。けれども爵位はなかったし、父はそれが気に入らなかったみたいだった。

 彼は、あと少しで戦争が終結するっていうところで、敵方に捕えられ、捕虜になって、そのまま釈放されることなく死んでしまった。アララークから提示された条約をカルナーナが受け入れる形で戦いが終結して、カルナーナが連邦の傘下に降ることが決まる少し前だったわ。

 水面下ではもう話が進んでいたから、いまさら捕虜になる理由も本当はなかったの。不透明な死だった。


 そして、遺品だと言われて骨のかけらが送られてきた。

 わたくし、戦争が終わりかけていたのに、なぜあの人が死んでしまったのかが知りたくて、術師を探したの。骨のかけらを()てもらおうと思って。といって、術師は大抵貴族とつながりがあるわ。だから、ごまかされるのは嫌だと思って、自分から町に出ていって、身分の隔てなく依頼を受ける、貴族とのつながりのない術師を探しまわったわ。

 そうしたら、一人の術師に出会ったの。それが思わぬ有能な術師だったから、知りたいと思っていたことのほかにもいろいろなことがわかったのよ。

 彼ね、拷問で死んだの。敵に捕らえられて、カルナーナの軍の中枢部に関する機密を聞き出そうとされたの。でも彼は最期まで口を割らなかった。


 夫の遺品は、カルナーナ政府筋にも送られてきていたみたいで、そちらも術師を呼んで調べたらしいわ。そうしたらやはり、彼が拷問死したという事実が明るみになったの。

 カルナーナの中枢では既に戦争を終結させる方向に動き始めていたから、夫は釈放される予定だった。彼が捕えられてカルナーナの機密を聞き出そうとされたことで、カルナーナ側は、アララークに疑念を抱いてしまったの。彼の死は、起こってはならない手違いとされていたけれども、本当はカルナーナの機密を聞き出して、停戦ではなく完全に国を解体して支配下においてしまおうとしているのではないかって。

 それをきっかけに、あやうく停戦協定が流れてしまうところだったけれども、首相は頭の固い老人たちを説き伏せて、改めて停戦にこぎつけた。それも、カルナーナの不利益にはならない形で。

 夫のことについては一度は首相から釈明と謝罪をいただいていたのだけれども、本当はね、ただの手違いでも、アララークの暴走ですらなかったのよ。


 彼を捕えたアララークの側の一部の貴族たちは裏でこの国の貴族たちとつながっていた。しかも、父ブリュー侯爵は、その首謀者だったわ。

 停戦条約を覆すための陰謀にわたくしの夫は巻き込まれ、利用されて死んでしまった。

 父はついでに血統の悪いわたくしの配偶者を始末できて、一石二鳥だとも考えていたみたいね。今度はちゃんと貴族の血統を継いだ男と結婚させようとも思っていたみたい。

 それから父のことは全部カルナーナの国にお任せして、ずっと会わずにいたのよ」


「ジゼルさま、術師というのは、遠いところで起こった出来事を、目の前にあるかのように見せることができるんですか?──ぼくは実際にはそういったものを目の当たりにした経験がないのですが」

「ええ」

「あなたはご主人が拷問死された場面を、その、ご覧になったんですか」

「ええ」

 ジゼルは物憂げに小さく頷いた。


「ただ、術師の言うには、そこまでは骨を送った側は織り込み済みで、その場面に限っては術で呼び出しやすくしているということだった。大抵の術師はそれで満足して帰っていくだろうからって。彼はたまたま、もう少し高度な術を扱うことができたので、送った側が意図していない周辺の物事まで、陰謀も含め、写し取って見せてくれたの。

 精度の高い魔術をあやつるものはごく限られているといわれているわ。その術師は自分のことを、グレイハートの3の弟子、とだけ名乗っていた。まだ自分の名前が持てないのだと言っていたわ」


「賢者グレイハートですか? 噂には聞いたことがあります。永らくどこの国にもどこの組織にも属さない賢人だったが、先だってアララーク連邦元首アルベルト・ウォルフ・メーレンの軍門に下ったとかどうとか」

「それでね、ロビンの──」

 言いかけて、ジゼルはアートを見上げて微笑んだ。

「ねえ、ところで、人魚にロビンって名前をつけたのよ」

「そうらしいですね。人魚が喜んでましたよ。得意げに自分で名乗っていました」

「まあ、あの子ったら可愛いわね。名前、気に入ってもらえてよかったわ」


***


 ちょうどそのとき。

 隣の部屋でおとなしく目を閉じていながらも、まだ目が覚めたままだったルビーは、彼の言葉にこっそり腹を立てていた。

 得意げにって、その言い方はないだろう。ブランコ乗りは、やっぱり失礼なやつだ。


「あのね、これはまだあの子に説明していないのですけれども、ロビンが座長さんと一緒に最初にここに来た夜にね、夫のことを調べるためにわたくしが探しだした術師の魔術と、同じ匂いがしたの。魔術そのものが同じだから同じ匂いだったのか、同じ人──つまりグレイハートの3の弟子──が関わっているからなのか、どちらが原因だったのかは、よく分からかったのだけれども」


「あのときは、あなたの様子も何か変でした」

「そうね。魔術について思い至ったのは後日で、そのときは気づかなかったの。ほかにも、はっきりしないことがいくつかあるのよ。だからロビンに聞こうと思ったのですけれども。ときおりあの子から、何かの魔力のようなものが満ちるのを感じることがあるのよ。いつもではないけれども──たとえばロビンが歌を歌っているときとか」


 ルビーは貴婦人が、アンクレットを見せてくれと言っていたことを思い出した。貴婦人はアンクレットが何かの魔力の源になっていることに気づいたのかもしれない。

 きょう、貴婦人の前で歌を歌っていたときに、アンクレットが何かの力を持って働きかけてきていたのは、ルビー自身、確かに感じていたことだった。


 緑樹の少女のいた南の島で見かけた白髪の賢者グレイハートのことも思い出した。でも彼は髪こそ真っ白だったけれどもまだ若者に見えた。” 永らくどこの国にもどこの組織にも属さない”というほど長く生きた人にには見えなかった。

 もうひとつの疑問は、3の弟子という言葉だった。3の弟子というからには、1の弟子と2の弟子もどこかにいるんだろうか?


***


「ぼくにはそういうものは一切感じられないので、よくわかりませんが。ところで人魚に歌を習わせるそうですね。それも150日で1000曲覚えるようにって。結構無茶ではありませんか?」

「ロビンはなんて言っていて?」

「あなたと約束したと。150日で1000曲歌えるようになったら、自由にしてもらえると。その代わり、それができなければ、あなたのものになると」


 ジゼルは微笑んだ。

「もしもロビンが自由を手に入れ損ねたら、そのときはまた、あなたがあの子を助けにいらっしゃいな」

 本人は気づいているのかいないのか、人魚の話になると、ジゼルの表情から翳りは薄れ、和やかで穏やかな顔になる。どこかほっとした心地でその顔を見返しながら、アートは軽い調子で請け負った。

「ぼくなどがあなたにとって、人魚の代わりになるのでしたら、いつでも、喜んで」


 が、そのあとで、すこし考えて彼は言い加えた。

「ですが、どちらかというとぼくは、人魚が自力で自由を勝ち取る手助けがしたいかな。人魚に知っている限りの歌を伝えてもいいでしょうか?」

 ジゼルは人魚に惹かれているようではあったが、さりとてあの少女を傷つけてまで手に入れたいと思っているわけでもなさそうだった。それよりもむしろ、少女の歌声が聞きたくて、そんなことを思いついたのではないか。アートは、ふとそんな風に思ったのだ。

 窺うように彼女の顔を覗き込むと、彼の憶測を裏づけるかのように、柔らかな微笑みが返ってくる。

「もちろんよ。でも、アーティ、あなた、歌なんて歌えるの?」


「普通に。プロの歌い手ではありませんから上手くはありませんが。幼いころに、母に歌ってもらった子守唄ぐらいなら、歌えますよ。……よろしければ子守唄、あなたにいまお聞かせしましょう。どうぞ聴きながら横になって、身体を休めてください、ジゼルさま。こうしてそばについておりますから」


 ジゼルは彼に促されるまま、横になった。アートはベッドのふちに腰を下ろしたまま、大きな手で包むように彼女の頬に触れ、そっと髪に触れ、それからゆっくりと髪を撫でてきた。

 あやすような、なだめるようなその手つきが心地よくて、ジゼルは静かに目を閉じる。


「こんな風に、ただ髪を撫でられていて心地いいなんて、不思議ね。でも、あなたはきょうはどこで眠るの?」

「ここでこうやって、あなたを見ています。疲れたら、長椅子に移動してしまうかもしれませんが」

「歌ではなく、話をして聞かせて。静かなあなたの声が好きなの」

「話ですか? そんなに話し上手ではありませんよ」


 何の話をするか少し迷ったあと、アートは口を開いた。

「では、子守歌代わりに、しがないブランコ乗りの身の上話でも、少しお聞かせしましょうか。あなたが少しご自分のお話をしてくださったお返しに。ただし、ぼくの話は少々退屈かもしれませんので、よければ聞きながら、そのままお眠りください」

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