26 侯爵の死(※改稿部分)
帰りの馬車の中で、ルビーの記憶は途切れている。
車輪がくるくる回る振動が心地よくて、前のめりに御者台にもたれているうちにうとうとしてしまい、街の灯りが流れて行く夜の景色は、そのままふっつりとブラックアウトしてしまった。
当然いつ屋敷に帰りついたのかもわからなかったし、いつベッドまで運ばれたのかも全然覚えていない。
「人魚は相当疲れていたみたいですよ。まだ店にいるうちから、まぶたが半分落ちそうになっていた」
ああ、これはブランコ乗りの声だ。
広くてふかふかのベッドの上で、うとうとしながらルビーは考える。
「こっちとあっち、続き部屋になっているんですね。これまで気づかなかったな」
「扉をふさいでいた家具を移動したの」
ドアがパタン、パタンと閉じたり開いたりする音がした。一度声が遠くなって、それから元に戻る。貴婦人の声だ。
「以前侍女頭が使っていた部屋なのよ。何かあったらすぐに様子を見に行けるから、ちょうどいいと思って」
軽快な調子のブランコ乗りの声と対照的に、貴婦人の声はなぜか物憂げで、少しくぐもって聞こえる。夢心地のふわふわした気分の中で、ルビーは眠りの波に引き込まれては押し戻されを繰り返しながら、聞くともなく二人の会話を聞いていた。
***
アートは人魚の少女が眠る隣室へと続くドアを、何度か開閉してみた。音を立ててパタンと閉じてみたあと、ゆっくり静かに開いてみる。閉じるときはほぼ無音で閉じられたが、長く使っていなかった扉はどこかが錆びついているのか、開くときにだけ、微かにギギギ、という音を立てた。
最後は後ろ手にドアを半開きにしたまま、アートはこの屋敷の女主人であるジゼル・ハマースタインに向き直った。
「何かあったらって、何が起こるというのですか?」
「あら、アーティ。このお屋敷がからくりと抜け道だらけなのを、あなたなら知っているでしょう?」
髪をほどいてベッドに腰かけた女主人は、首をかしげて聞き返してきた。アートを見返す顔には微笑みが浮かんでいるが、その笑顔はどこか翳りを帯びている。
「以前やめさせた使用人が忍び込んで悪事を働こうと思えば簡単なのよ」
「警備をもっと増やされてはいかがですか?」
「信用できる相手を見極めるのは難しいわ」
彼女は視線を自分の手元に落し、静かに首を振る。
「以前の使用人の中にも、父の息のかかった者たちが、どれだけ多く紛れ込んでいたことか」
「以前はお父上に見張られてでもいたのですか?」
アートの問いかけに、答えはなかった。彼は少しだけ待ったが、結局質問はそのままにしておいて会話を続ける。
「現在は信頼のおける少数精鋭の警備というわけですね。それにしても人数が少なすぎる。逆に、内部の事情を知らない賊の類に目をつけられるんじゃないかと心配になります」
「そうかもしれないわね。それでも、いまの気心の知れた人達ばかりの中に、新しい使用人を入れるのは億劫なの」
「人魚を招き入れたばかりの人の言葉とも思えませんが」
「だってあの子、とても可愛いのですもの」
ジゼルは含み笑いをした。今度の微笑みには翳りはなく、どこか楽しそうだ。
アートはあきれ顔で、肩を竦めた。
「理由はそこですか。いっそ警備のものたちも、綺麗どころで揃えてみてはいかがですか? オーディションでも開催されて」
「なら、アーティ、あなたが警備兵として雇われてくれる?」
「とても魅力的なお誘いですが、ぼくは無力な一般庶民ですから、警備兵は務まらないと思います」
そこで彼は、ふと思いついたというように、ナイフ投げの話題を振った。
「そうだ、ハルなんかどうです? ナイフの技は実戦向きではないでしょうか」
ジゼルは微笑んだ。心の内を見せない、いつものアルカイックな微笑だ。
「わたくしにとっては悪くない話だけれど、ハリーを手に入れるためには見世物小屋からお金で買い取るしかないわ。それってきっと、彼のプライドを傷つけてしまう。それに一度警備兵として雇ってしまったら、ベッドに誘っても絶対拒まれそう。職務のうちではありません、とか何とか言って」
ジゼルの言葉に、アートはくすりと笑う。堅物のハルの頑なな態度は容易に想像できた。むしろあの男が、目の前の淫蕩な女性と気が合っているらしい事実の方が不思議に思える。
だが、アートにはわからない何かの理由があるのだろう、とも思う。男と女のことは、多分傍から見るほど単純ではないのだ。
「プライドの高い男というのは面倒だな。昼間はあなたを護衛して、夜はあなたをこの腕に抱く。ぼくだったら最高の生活だと思うところですけれどね」
「相変わらず調子がいいのね、アーティ」
たしなめる口調で、ジゼルはアートの言葉をさらりとかわした。
アートはジゼルのそばまで歩み寄って床に片膝をつき、恭しくその手を取って、彼女を見上げた。
「思わぬ日にあなたにお声をかけていただけて、ぼくはきょう、浮かれていたんですよ」
アートはかがみこんで、その白い手の甲にそっと口づけた。それから唇を手首に滑らせ、その内側にもう一度口づける。
ジゼルは拒む様子もなくされるがままになっていた。しかし、その仕草にはどこか投げやりなけだるさが滲み出ている。不穏な違和感を感じ、アートは顔を上げた。
彼女のくっきりとした切れ長の目が、静かに彼を見返した。その視線に潜むのは、物憂さ。それに、形容しがたいある種の諦念だ。
アートは再び彼女の手元に視線を落とす。普段から屋敷に閉じこもったままの貴婦人の、黒い手袋で包みこんで日光に当たることのない手は、青い血管が透けて見えそうなほど、病的に白い。
「でも、あなたはきょうは、少し疲れているようだ」
少し考えて、アートは一石投じた。
「ブリューの領地までの往復は強行軍だったのでしょう? この時間までに行って戻ってこられたということは、馬車ではなく、早馬を飛ばして行かれたのではないですか?」
「知っていたの? アーティ」
ジゼルの反応は顕著だった。途端にさっと手をひっこめ、とがめる口調になる。
「はい」
アートは頷いた。
「いつもの喪服姿のあなたはとても蠱惑的ですが、きょうお出かけになったときの、乗馬服のあなたも見たかったな。勇ましくて、さぞ素敵だったろうにと思います」
彼の軽口に対する返事はない。
彼女の顔から微笑みは消え、黙って睨むように彼を見おろしている。だが、さっきの投げやりな態度よりはいい。アートはこっそりそう考えながら、質問の続きを投げかけた。
「首相の急用とは、お父上のことではなかったのですか?」
「……ええ、そうよ」
ややあって、ふう、と肩の力を抜いて、小さくジゼルはつぶやいた。
「臨終だったの」
アートは瞑目した。ではやはり、彼の予想は当たっていたらしい。カルナーナの首相の急用とは、間違いなくこの件だった。
彼は頭を垂れて、短く哀悼の意を口にした。
「奥さまに、お悔やみ申し上げます」
「よして」
彼女の声が強張った。
「……無理に結界を越えようとしたそうよ。隣国のアドリアルの領主と連絡を取ろうとしたらしいの。でも、ひょっとしたら覚悟の上だったのではないかと、首相はおっしゃっていたわ」
「結界ですか?」
「父が幽閉されていたという噂は、聞いたことはあるのでしょう?
父は一見、領土にある自分の屋敷で静かに暮らしていたけれども、幽閉は事実よ。強力な術師の結界の中での生活を余儀なくされていたの。結界を越えると彼を死に導く強い術が掛けられていた。そうやって見張っていなければ、他国と連絡を取って、カルナーナにとって不利な方向に状況を動かそうとしかねない人だったから。戦争はもう、終わっているのに。
しかも、カルナーナの民主化から既に20余年経っているというのに、王制や貴族政治の復権を夢見ていたのよ、あの人は」
「お父上のご臨終には、間に合われたんですか?」
「ええ」
もう一つ、ジゼルはため息をついた。
「カルナーナの首相は、いつだってそういう細かいところにまで気を配る人ですもの。あの抜け目なさがわたくしは嫌い。術師に延命の術を命じて、わたくしの到着を待たせていた。わたくし、父の最期に間に合うかどうかなんて、ほんとにどうでもよかったのに。そんなくだらないことで、有能な術師を消耗させることはなかったのに」
「くだらなくはないと思いますが」
「そう、そうね。わたくし父の最期を涼しい顔して笑って見送ったわ。自分のあとを継いで女侯爵を名乗ってほしいという父の最期の言葉を冷やかに撥ねつけたとき、少しだけ胸のつかえがとれた気がした」
アートは一瞬返事に窮した。
彼女の顔に浮かぶのはどう見ても傷ついた人間の表情で、溜飲を下げた人間のそれではない。
しかも、父親の死に際に和解の道ではなく断絶を選んだ直後に、何も事情を知らぬ男を招き入れ、抱かれようとしていた。それも、投げやりに。自罰的に。
彼は顔をしかめ、浮かんだ言葉を口にした。
「それはきっと、胸が痛んだの間違いです」
自分などが言うべき言葉ではないという思いがちらりと胸をよぎる。とはいえ、口をつぐむ気にはなれなかった。
分に過ぎた口を利いてしまった理由の一つには、多少のいらだちもあったかもしれない。
快楽の道具にされることには文句はない。お互いさまだと思うからだ。しかし、全く楽しんでいない女性を相手にするのは本意ではない。
「わかった風な口を利かないで!」
はたして、ジゼルは声を荒げた。
「あの父がわたくしの夫に何をしたか、あなたは知らないからそんな風に言えるんだわ! わたくし、戦争が終わってすべての後始末について首相にお任せすると決めたあとも、本当は自分の手で夫の敵を取るべきなのではないかと考えて、どこかでずっと迷っていたのよ」
さっきまでのけだるさをかなぐり捨てた彼女の口から、せきを切ったように言葉があふれ出る。
「でも迷っているうちに父は死んでしまった。終わってしまったわ。もう、本当に終わってしまった。もう迷うことも惑うこともなく、わたくしは解放された。
でも、これでよかったの? きょうわたくしが父に対してできたことは、ほんの少しの意趣返しでしかなかった。ささやかな、仇を討つなんていえないぐらいちっぽけなものでしかなかったのに」
少し迷ったが、アートは立ち上がり、ジゼルの隣に腰をおろした。
彼女の細い肩に両手をかけて、そっと引き寄せる。性的なニュアンスとして受け取られないよう気を遣ったつもりだったが、うまくできているのかはわからない。
第一彼は、これまで彼女をそんな風に、壊れもののように扱ったことがなかった。
この年上の未亡人はいつでも彼の軽口も賛辞も熱意をも、余裕たっぷりにあしらってきていたからだ。
それでも彼は、彼女を包む腕にそっと力を込める。
「それでよかったとぼくは思います」
両腕の中の彼女は固くこわばっていた。アートは自然になだめる口調になる。
「人の死に対してよかったなどと言うべきではないのかもしれませんが、少なくともあなたがご自分の手を汚すことなく終わってよかったと、ぼくは思います」
「だって、なら、夫の──あの人の無念はだれが晴らすの?」
「静かに、ジゼルさま。人魚が目を覚まします」
より一層抱え込むようにして腕の中に包みながら、囁くような低い声で、アートは彼女の言葉を遮った。隣の部屋につながるドアは開けてある。人魚は今眠っているが、声は多分隣の部屋まで筒抜けのはずだ。
「先の戦争では、あなたのご主人に限らず多くの軍人が亡くなったのではないのですか? お父上の罪状をぼくは存じませんが、首相の計らいによって結果的に命を落とされることになったのだとしたら、贖罪は終わったと考えることはできませんか?」
「あなたが悪いのよ、アーティ。あなたが変なことを言うから」
「申し訳ありません」
「言うことはそれだけ?」
「お許しください、奥さま。先ほどは、愚かなことを申しました」
アートは彼女を腕に抱きしめたまま、静かに謝罪した。
「父親の死に対して娘の胸が痛まないわけなどないというのは、愚か者の勝手な空想です」
ジゼルは細い肩を震わせ、アートの腕から身をもぎ放そうとした。彼が腕を離さずにいたら、固めたこぶしで強く胸を叩かれた。何度も繰り返し、怒りにまかせて。
構わず彼は彼女をさらに引き寄せ、抱きすくめた。
やがて彼女は彼の腕の中で、静かに嗚咽を漏らし始めた。
***
さっきまでうとうとしながら二人の会話を聞いていたルビーだったが、貴婦人がただならぬ口調でアートに食ってかかったあたりから、だんだん意識がはっきりしてきた。
そして、隣の部屋から貴婦人のすすり泣きが聞こえてきたころには、ルビーの目はすっかり覚めてしまったのだった。
どうしよう?
起き上がって隣の部屋に顔を出して、目を覚ましてしまったことを告げるべきだろうか?
でも、きっと、とても気まずい。
とてもとても気まずい。
ルビーは迷って、起き上がる代わりにもう一度寝てしまうことにした。
ところが、続いて始まった貴婦人の話は、直接ルビーにも関わってくることだったので、そのあとルビーはますます眠れなくなるという悪循環に陥ることになるのだった。




