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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[二] 侯爵家と王族の男
23/110

23 歌と名づけ

 執事が貴婦人の部屋をノックしたのは、歌を聴かせてちょうだいと貴婦人に言われて、ルビーが歌っているときだった。

「続けなさい」

 執事がドアを開けて入ってきても、ルビーは歌い続けるように言われた。


 歌は、遠い北の海で、ルビーが小さかった頃、歌の好きな人魚が歌って聴かせてくれたものだった。古い感じのする哀切を帯びたメロディーで、歌詞は今の言葉ではない古い言葉だったから、歌うルビーすらも意味のわからないフレーズがたくさんあった。


 ルビーは普段から、そんなに歌う人魚ではなかったが、よく歌う仲間から、一つだけ忠告を受けていた。


「水の中でもよく通る人魚の声は、海の表に出てから思い切り張り上げると、周りの生き物の意識を切り裂くことがあるから加減しなさい。特に歌を歌うときは、声が響き過ぎないように、小さな声で歌うのよ。海鳥が声に驚いて、波の間に落ちてしまっては可哀想でしょう?」


 けれどもいまは、声の加減をする必要はなかった。

 なぜなら、左足のアンクレットがまた熱を持ち、ルビーの声が大きくなるのを阻んだからだ。といって、今回は痛みのようなものはなかった。


 ルビーが歌うことを思いついたのは、「人魚は、ほかに何かできることはないの?」と問われたためだ。

「わたくしと寝所をともにするつもりがないのなら、別の何かで楽しませてくれることができなくてはね」

 貴婦人はそう無茶振りしてきたのだった。


 ルビーは見世物小屋から来たのに何もできない。軽業もできなければ犬を操って芸をさせることもできないし、変な乗り物を乗りこなすこともできない。

 できません、というのは簡単だった。でも、できないといって貴婦人が許してくれるような気もしなかった。懸命にルビーはいまの自分でもできることが何かないかを頭の中で探し、そして、歌うことを思いついたのだった。


 自分の歌声を聞きながらルビーは、懐かしい北の果ての海の底を思い出していた。

 耳で覚えた歌詞は、特に集中しなくても口元からこぼれ出た。歌いながらルビーはかつてこの歌を聴かせてくれた歌声の主の姿を思い描こうと記憶を探っていた。


 この歌を歌っていたのは、どのお姉さまだったかしら? 

 透き通る水の揺らめきの中を泳ぐ、さまざまな仲間の姿をルビーは思い浮かべた。

 人魚の髪の色は千差万別だった。金色や銀色などの明るい色の髪の人魚もいれば、海藻のような暗い色のものもいる。

 皮膚の色もさまざまだ。ルビーと似たような白い肌の人魚もいるけれども、金色っぽい肌や、ごく淡いオリーブグリーンの肌の色の仲間もいる。

 尻尾の色はもっと色とりどりで華やかだ。人魚の尻尾は一見優美だが、水を泳ぐときは、鞭のように力強くしなる。

 優美で力強い尻尾を使って、ほの暗い水の底を軽やかに泳ぐ仲間の姿を、ルビーは夢想した。


 突然のノックの音に、ルビーの夢想は中断された。

 失礼します、の声とともに執事は部屋の中を通り抜け、テラスまでやってきた。


「どうかしら? 人魚はなかなかよい声だと思わないこと?」

 手すりにもたれてルビーを見ていた貴婦人は、執事を振り返って、満足そうに言った。

「人魚のために、家庭教師を手配してくれる? 身だしなみと礼儀作法を教えてくれる人と、読み書き計算を教えてくれる人。それに声楽の先生も」

「承知いたしました、奥さま」

 

 こんなことはばかげていると、年老いた執事が異を唱えるのではないかとルビーは考えたが、彼は澄ました顔のままで、恭しくお辞儀をしただけだった。


「でも、この歌はわたくしの知らない歌。綺麗な声だけど、それに綺麗な歌だけれど、言葉も変だし意味がよくわからない。人魚、あなたはこの国で歌われている歌を覚えなければいけなくてよ」

 貴婦人が話しかけてきたので、ルビーは歌うのをやめて、貴婦人の言葉に耳を傾けた。


「いいことを思いついたわ。今から150日の時間をあげるから、その間に人魚は1000の歌を覚えなさい。流行りの歌でも昔から歌われている歌でもどちらでもいいし、小さな子どもに歌って聞かせる子守唄のようなものでもかまわない。そしてわたくしに歌って聴かせて。声楽の先生には、できれば毎日来てもらいましょうね。先生から教わってもいいし、ほかのだれにどこで教えてもらってもいいわ。150日の間に歌を覚えたら、褒賞として、あなたに自由を与えましょう。その代わり、150日間で1000曲が果たせなかったら、そのとき人魚はわたくしのものになるの。どうかしら?」


 どうかしらと聞かれても……。

 ルビーは戸惑って貴婦人を見た。貴婦人がそうすると宣言しているのに、ルビーに選択の余地はあるんだろうか?


 ルビーの疑問に、貴婦人はすぐに答えをくれた。

「もちろんこの思いつきがあなたの気に入らなければ、なしにしましょう。歌はゆっくりと少しずつ覚えればいいわ。お給料は最初にお話ししたように1日につき10エキュー出しましょう。10エキューを全部貯金にあてることはできないと思いますから、実際には4年以上かかるでしょうけど、いずれは自由を手に入れることもできるでしょう。あなたと、見世物小屋の人たちがそれまで待てればの話ですけれどもね。

 それから、あなたに名前をつけなければね。人魚でないのにいつまでも人魚、ではおかしいわ」


「奥さま──」

 話が長くなりそうだと感じたのか、それまで黙っていた執事が口を開いた。

「急なお客さまがお見えです」

 執事の言葉に、貴婦人はいぶかしげに眉を上げた。

「どなた? ブランコ乗りではないの?」

「いえ、見世物小屋のものではなく」

 執事は一度言葉を切って、貴婦人を見た。

「カルロ・セルヴィーニ様が」

「まあ、首相が?」

 貴婦人は首を傾げた。

「何のご用かしら。それにしても、本当にあの方は前触れもなく突然いらっしゃるのね。いいわ。客間にお通ししてくれる? それとお茶をお出ししてね」

「客間には既にご案内いたしております。ただいまお茶も用意させていただいておりますので、ほどなく準備が整うかと。のちほど奥さまもお越しください」

 執事はもう一度、お辞儀をして、屋敷の中に戻っていった。


 貴婦人は振り返ってルビーを見た。

「いい名前があるの。これからはロビン(コマドリ)と名乗るといいわ。小さくて歌声が綺麗で、頭の部分が炎のように濃いオレンジ色をした可憐な鳥なのよ。今度図鑑を見せてあげるわね」


 貴婦人の柔らかな声で最初にその名前を呼ばれたとき、ルビーはぎくりとした。ロビンという言葉の響きが、ルビーと非常によく似ていたためだ。

 しかしルビーはすぐさま、はい、と頷いた。


「歌のこと、考えておいてね、ロビン」

「あの、それでしたら、お受けします」

 ルビーが即答したので、貴婦人は目を丸くした。

「いいの? 考える時間はあるのよ?」

「お受けするのが正解だと思います」

 さっき貴婦人が出した三つの答えについて順番に思いを巡らせながら、ルビーはそう答えた。


 貴婦人の三つの答えには多分、ちょっとずつの真実が含まれているのだと思う。真実とそうでない部分の比率についてはルビーにはわからなかったが、少なくとも執事とのいまのやり取りで、きょうブランコ乗りをここに呼んでいることだけは、本当のことなのだと知った。

 貴婦人を退屈させれば、彼女はルビーを餌に、ブランコ乗りを好きなときに呼びつけようとするかもしれない。また、ナイフ投げや舞姫についても、彼らが自分を気にかけてくれていることを貴婦人が知れば、同じように考えるかもしれなかった。

 ルビーが賭けに乗る方が、貴婦人は状況をスリリングだと思ってくれそうな気がした。1000曲覚えるのは容易なことではないだろう。けれども貴婦人の提示した猶予期間は100日ではなく150日だ。ルビーの勝算をつぶすつもりで持ち出した条件ではない気がした。

「では、いいのね、ロビン」

 ルビーの目に明確な意思を読み取って、貴婦人は微笑んだ。

「それとね。さっきのあなたの質問に対して、まだ四つめの答えが残っているのよ。でもいまはお客さまがお見えだから、アンクレットの話と合わせて、またのちほどね」

 貴婦人は部屋に戻ると、ベールのついた黒い帽子をかぶり直した。それから黒いレースの手袋を両手に嵌め、部屋を出て行った。

 取り残されたルビーはもう一度テラスに出て、大きな黄色い花の咲いている中庭を眺めおろした。

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