22 貴婦人の真実
「あたし、誰かが誰かを意のままにするとか、支配するとか、そういう目的のための道具として使われたくありません」
貴婦人は何も答えず、ルビーの視線を静かに受け止めて、ゆったりと微笑んだ。
なおもルビーは貴婦人を睨みつけていたが、そのうちだんだん居心地悪くなってきた。
貴婦人の目の中に、さっきの座長を見ていたときのような、あきらかに面白がっている様子が見て取れたからだ。
「あの……奥さま?」
ルビーは困惑して眉をひそめ、恐る恐る尋ねた。
「ひょっとして、あたしをからかったんですか?」
「人魚。おかけなさい」
貴婦人はおっとりと立ち上がり、歩み寄って倒れた椅子を直し、ルビーを促した。
「一つ、宿題があるわ。あなたは質問し、わたくしは答える。その答えの中に真実は、何割ぐらい含まれていると思う?」
「何割、ですか?」
座ろうとはせず立ったままで聞き返すルビーに、貴婦人は頷いた。
「そう。わかっているとは思うけれど、質問に対する答えって、大体は、全部本当だとか、全部が嘘だとかではないのよ。
本当のことを言いたくない場合もあるかもしれないし、もしかすると嘘の中には、意図的についた嘘ではないものも含まれているかもしれないわ。また、ほとんど本当でも、ほんの少し誇張が入っているかもしれない。話を面白くするためだけに、何の悪気もなく大げさに話す人だって世の中にはいるでしょう。
まあ、中には、ひたすら正直に生きることを自分に課しながら日々過ごしている人もいるのかもしれないし、そういう人についてはその限りではないかもしれませんけれども」
「奥さまは人の反応を見るために、話に嘘を混ぜるんですか?」
「あら、人魚にはそう見えたのかしら」
「わかりません。けど、あたしを使ってブランコ乗りを本当に思い通りにしたいのだったら、わざわざあたしにそのことを告げること自体が変です」
それに、そもそも座長にこの話を持ちかけた時点では、ブランコ乗りがルビーを水槽から助け出してくれたことも、空中ブランコを教えるといったことも、貴婦人は知らなかったはずだ。あの夜、彼が単なる気まぐれでここにやってきたのではないという保証はどこにもない。
貴婦人にとって、ルビーが何かの切り札になるかもしれないと考えるだけの材料は、どう考えても少なすぎる。
「よくできました」
貴婦人は今度は、にっこりと笑った。
「でも、裏には裏があるかもしれなくてよ。それは警戒なさいな。そこを見定めたいと考えるなら、相手が何を規範に動いているのかをよく観察することね。大体の人間は、言うことは矛盾していても、比較的、行動は正直だから」
「行動は──」の言葉とともに貴婦人の両手がすっと伸び、ルビーの肩を包んだ。貴婦人の目が笑いを含んでルビーを覗き込む。
「ではここで、もう一つ別の答えを用意しましょう」
佇んだまま戸惑った顔で見返すルビーを、貴婦人は強引に椅子に座らせた。
「わたくしは、ひと目見てあなたが気に入ったのよ、人魚。あなたはとても愛らしくて可憐だわ。紅い髪は炎のようだし、瞳はまるで宝石のよう。白い肌はきめ細やかで、透き通る真珠のよう。あなたを手に入れたのは、座長さんのためでもアーティのためでもなく、本当に、ただ単に、あなたを手にいれたくなっただけなの。そばに置いて、好きなときに眺めて、好きなときにこうやって触れるため」
肩に置かれていた貴婦人の手が、ルビーの唇にそっと触れ、それから両頬を包んだ。その白い美しい顔が、ゆっくりと近づいてくる。
キスされる?
思った瞬間、ルビーは慌てて後ろに下がりながら、貴婦人の肩を両腕で押し戻していた。
さっき貴婦人が直したばかりの椅子が、もう一度音を立てて床に倒れた。
「舞姫が──」
「舞姫が、なあに?」
貴婦人は、ルビーに押し戻されたことを気にする風もなく、ごく自然に身を引いて、首を傾げた。
「舞姫が、そういうことは好きな人とするものだって、言ってました」
自分の意見として言えないところは、我ながら弱いと思う。
けれどもルビーには正直そういう実感はない。誰かが自分に触れてくることも、自分が誰かに触れることも、何かの感慨を沸き起こさせるような出来事ではない気がした。
それでも、舞姫が言った言葉の意味をルビーは受け取りたいと感じていたし、舞姫が言っていたように、ブランコ乗りの行動のたとえ10分の1でも自分の窮地を救うためのものであったとしたら、それを進んで無に帰するようなことを、ルビーは望まない。
それとともに、もうロクサムに構うなと言った、あの女の人の言葉も思い出す。
たき火のそばでしょんぼりと肩を丸めていたロクサムのことを思うと、ルビーの胸は痛んだ。突然この屋敷にルビーが売られてきてしまったことを知ったら、きっとロクサムは心配する。心配させているだろうことがどうしようもなく苦しかったし、いたたまれない。できるなら屋敷を飛び出して、自分は無事だと告げに行きたかった。
けれどもロクサムに触れたり手をつないだりすることで、いまの苛立ちに解決がつくとも、苦しい気持ちが解消されるとも、ルビーには思えなかった。
「あら」
そのままうつむいてしまったルビーに、柔らかく貴婦人は笑いかけた。
「わたくしはあなたが好きよ、人魚」
「お、奥さまは、ブランコ乗りのことが好きなんじゃないんですか?」
「わたくしは、美しいものは何でも好き。だって美しいものはとても、目を楽しませてくれるのですもの。庭に咲いているバラの花も。朝露に輝く野の草も。夜明けの空も、綺麗な湖も、よく走る馬も。それに、有能な人も好き。たとえば今のカルナーナ首相のカルロみたいに」
「カルロ首相……ですか?」
「ええ。彼は、3年前に締結されたアララーク連邦との停戦条約を、結果的にカルナーナに有利に運んだわ。その実績だけでも、彼の手腕は確かなものだとわたくしは思ってる。あれだけ武力の差が歴然としていたにもかかわらずよ」
3年前のことなどルビーは知らなかったから、武力の差が歴然としていたといわれても何のことだかわからない。
ただ、ナイフ投げの話を聞いていたときも感じていたことだったけれども、カルナーナの首相というのは国民から結構好かれているような印象だ。
ルビーの第一印象は、ただ怖い人、というものでしかなかったのだけれども。
「とはいえ、彼は少なくとも見た目は失格だわね」
太り過ぎてしまったという首相の外見についての所見をつらつらと述べながら、貴婦人は屈みこんで、倒れた椅子をもう一度もとの位置に戻した。
「おかけなさいな、人魚。もう少しだけ、お話ししましょうね。嫌がる相手に無理強いするのはわたくしの方も楽しくないですから、そんなに心配しないで」
ルビーがもう一度椅子に腰を下ろすと、貴婦人も自分の席に戻った。
そのあと、貴婦人の話は首相から、首相の周囲にいる要人たちの話に、さらに側近らの制服の話に移っていき、ほどなく”ハリー”と”アーティ”の話へ飛んだというわけだった。
それらを聞きながらルビーの困惑は、次第に深いものになっていくのだった。
「ハルの過去については謎なの。これは噂ですけれどもね、10年前、市場で彼を見かけた見世物小屋の座長さんに、彼は自分から得意技を売り込んだらしいわ。つまりそのとき既に、ナイフ投げの達人であったというわけ。それよりも昔のことはだれも知らないのよ。わたくしも、さりげなく聞き出そうとして、はぐらかされたわ。どこかの傭兵部隊にでもいたのかしら。それともだれか身分の高い人のボディガードでもやっていたのかしらね。彼、脇腹に、抉れたような、ひどい傷あとがあるのよ。昔、何があったのかしらね」
そんなことを問われても、ルビーにわかるはずもない。
「ハルはカルナーナの出身ではないと思うの。普段は口数の少ない人だけれど、しゃべると微かに異国訛りがあるでしょう」
そこで貴婦人は、考え込むように少し首をかしげた。
「そういえば人魚、あなたもそうだわね。あなたがの話す言葉は、どこか遠い国を吹く風の香りがする」
異国訛りといわれても、自分ではよくわからなかった。黙って見返すルビーに、貴婦人は頷いた。
微笑んだ貴婦人は、今度はブランコ乗りの話を始めた。
「アーティに出会ったのは、いまから5年ぐらい前のこと。わたくしが最初に見世物小屋に足を運んだのが、5年前のその日だった。その頃わたくしはまだ未婚で、あの日はある男性の友人に誘われて、生まれて初めて見世物小屋に出かけたの。同じ日にハリーも出演していたのかもしれないけれども、そちらはよく覚えていない。だって、その日初めて見たブランコの空中技の中で、アーティのパートナーが間違って落下するところを目撃してしまったのですもの」
それまで黙って聞いていたルビーは、ぎょっとして顔を上げた。
「ブランコの横木を結わえてあるロープが突然ほどけて外れたの。彼女はつかんだブランコの横木から滑り落ちて、そのまま一気に真下に落下して、舞台の床に叩きつけられたのよ。
大きな衝撃音がしたわ。床には次の催し物のための道具が用意されていて、その上に叩きつけられた彼女はぐじゃぐじゃに潰れてしまった。潰れた彼女は客席から見ると、どうしてかしら、わたくしにはとても綺麗に見えたの。まるで舞台の床に、真っ赤な大輪の花が咲いたみたいだった」
強張った表情のルビーに気づいているのかいないのか、貴婦人は淡々とした声で話を続ける。
「客席は大騒ぎになったわ。皆立ちあがって後ろに逃げようとして大混乱だった。
わたくしは隣の席の友人に抱えられて他の客とともに席を去るように促されたけれども、立ち止まって振り返って、舞台の天井にいるアーティを見ていたの。
遠かったけど、ちょうど斜めから光が差してきていて、彼の顔を照らしていたからよく見えた。目を見開いたまま固まって、茫然とした表情で床の一点を見つめていたわ。まるで魂が、その一点に吸い取られてしまったように。
その頃は彼、まだ子どもだったのよ。ちょうど今のあなたぐらいの歳。もう背はずいぶんと高かったけれども、目元にあどけなさの残る、柔らかな頬をしたほっそりとした少年だった。パートナーの少女と最初に並んでお辞儀をしたとき、好一対といった印象で、とても可愛らしかったわ。
恋人同士だったのかしら? わたくし、そのときの話はアーティにしてみたことがないから、聞いてみたことはないの。でも、見つめ合って微笑み合っていたから、恋人同士のように見えたわ」
「あの……奥さま?」
ルビーはこわごわ口をはさんだ。
「どうして、その話をあたしに?」
ブランコ乗り本人に対してすら話したことがないという話を、貴婦人はなぜ今、ルビーに話すのだろう。
「これが、三つめの答えだからよ。つまりね」
ゆっくりと貴婦人は言葉をつないだ。
「わたくしにも、わからないの。なぜ見世物小屋の人たちのことが気にかかるのか、どんなふうに関わりたいのか。関わっていきたいのか。明確なビジョンがあるわけではないのよ」
貴婦人はそこで言葉をとぎらせると、お茶の入ったカップをそっと持ち上げた。
そのまま彼女は動きを止め、テラスの手すりの外を見おろした。
この沈黙を、ルビーはきょう初めて気まずいと感じた。
やがて貴婦人は、考え込むような顔で、ひとり言のようにつぶやいた。
「アーティは人魚をパートナーにすると言ったのね。そのあとで、人魚が自由の身になったら、という条件をつけた。死んでしまったあの少女は、多分奴隷だったのだわ」




