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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[二] 侯爵家と王族の男
21/110

21 自由の値段

 貴婦人がお茶を淹れ終ってルビーと向かい合わせにテラスの小さなテーブルについてやっと、ルビーは質問を口にすることを許された。


 まず、自分の置かれた状況がわからない。

 また、このお茶のあと、どこに行かなければいけないかも何をしなければいけないかもさっぱりわからなかった。貴婦人はゆっくりなどと言ってはいたが、ルビーとしてはここで質問の時間がどれだけ取れるのかがわからなかったから、頑張ってなるべく上手くまとめて聞くしかない。

 聞きたいことはいろいろあった。


 貴婦人はカップを持ち上げて優雅な仕草でお茶をひと口飲んでから、逆に聞き返してきた。

「なあに? 人魚はわたくしの提案が不満だったの?」

「不満とかではなくて」

 懸命に考えて、ルビーは何とか言葉を紡ぎ出す。

「どうしてあたしを買い取って、なのに見世物小屋に通わせるとかおっしゃったの?」


「あなたを買い取ったのは、あなたを手に入れたかったから。軽業を習うように言ったのは、あなたがそれを希望していたから。ほかに質問は?」

「答えになってません」

「どうして答えになっていないと思うの?」

「何のために奥さまは、そうなされたいと思ったんですか?」

「では人魚。どうしてわたくしがあの見世物小屋に関わっているのかあなたにわかる?」

「えーと……わかりません」


「見世物小屋に関わっているのはわたくしの楽しみのためで、あなたを買い取ったのはその一環っていうのかしら。座長さんたちをはじめとした小屋を切り回している人たちと上手くやっていくために、いい方法だと思ったからよ」

 貴婦人は微笑んだ。

「わたくしはよい顧客でありたいの。なぜって、座長さんたちはとても愉快な方たちでしょう?」


 ルビーは顔をしかめた。

「あの人愉快ですか?」

「人魚は座長さんが嫌いなの?」

「少なくともあたしにとっては愉快な相手じゃないわ。奥さまは、座長の力の及ばない安全な場所から見ているだけだから、そんな風に言えるんだと思います」


「まあ、そうね。あなたの言うことはわからないでもないわ。確かにわたくしは外側から見ているだけですものね」

 薄茶色の瞳が笑いを含んで、ルビーの碧の目を覗き込んできた。


「でも、それを言うなら今は、座長さんではなくてわたくしが、あなたにとっては不愉快な相手ってことになるのではなくて? だって今は、わたくしが、実質上のあなたの生殺与奪権を握っているのですもの」


 ルビーは黙っていた。「奥さまがあたしを殺そうとなさらないのでしたら別に不愉快じゃありません」と答えるのも変だし、どう返事をすればいいのかわからなかったのだ。

 以前舞姫が説明してくれた話によると、所有者が奴隷を殺した場合の罰則はあるにはあるが、軽い場合は罰金で済むということだった。悪くても禁固刑になるぐらいだそうで、死刑や終身刑のような重い刑罰は科せられない。だから、所有者が変わったからといって、絶対に殺されないという保証はないと考えていい。

 貴婦人はルビーの沈黙を気にする風もなく、楽しげに話を続ける。


「だけど、わかりやすい相手というのは見ていて楽しいものよ。にこやかにほほ笑みを交わしながら、腹の底では何を考えているのか全然わからない人たちばかり相手にしていると疲れてしまうの。人魚がいい子にしていたら、そのうちそういう人たちにも会わせてあげることになるかもしれないわね。もし興味があれば、ですけれども。

 とにかくわたくしにとっては、座長さんはとても楽で愉快な相手。たとえばね、さっき座長さんの前で、あなたにいろいろ聞きたいって言ったときに、彼、いやぁな顔を見せたでしょう。座長さんが気にするような出来事が、最近見世物小屋であったと思うのだけれど。何があったのか教えてくれる? それはあなたが人魚でなくなってしまったことと関係あるの?」


 一度言葉を切ってルビーの表情を見た貴婦人は、口元に笑みを浮かべた。

「あるのね」


 貴婦人に促されてルビーは、水槽に閉じ込められたときのことを説明した。

 それを聞きながら貴婦人は、細かい質問を次々とぶつけてきた。

 おかげで最初はごく手短に済ませるつもりで話し始めた出来事だったにもかかわらず、気づけば特に言うつもりのなかった細かい点まで説明させられていた。


 閉じ込められた水槽は大ホールでの興行のときにつかわれる水槽で、高さがルビーの身長よりも高く、幅も奥行きも相当なものであったこと。それはどこかの職人に高額で特注してつくらせたガラス製であること。その日水は、何人もの男手によって水槽いっぱいになみなみと張られたこと。重い板で蓋をされてさらにその上から重しをのせられたこと。


 たくさんの人が集まって来て、好奇心いっぱいに水槽の中のルビーを見ていたこと。ルビーに対して座長がとても怒っていたこと。舞姫が座長に対して怒って首を絞めようとつかみかかっていったこと。ナイフ投げは舞姫を止めようとしていたこと。ルビーが溺れかけたとき、ブランコ乗りがやってきて、ナイフ投げと一緒にルビーを水槽から助け出してくれたこと。


 水槽の中で息ができなくなったときに、左足のアンクレットが何か作用したためであったような気がしたことについても、気がつけば話してしまっていた。

 なんでそんなことまで話しているのか、ルビーは自分でも不思議だったが、貴婦人の質問にイエスかノーで答えているうちに知らずその話になってしまっていたのだった。


 それを聞いた貴婦人は考え込む顔になった。

「そのアンクレット、あとで見せてね」

「どうしてですか?」

「知りたいことがあるのよ」

「アンクレットは外せません」

 ルビーがそう答えたら、即座に言われた。

「では、アンクレットを嵌めた脚を見せてちょうだい」


 それから貴婦人は話の続きを促した。

 ルビーは、ブランコ乗りが助けてくれたとき、彼が座長に対して半ば勢いでルビーに空中ブランコを教えると言い出したことを話した。後日訂正されて、教えるのはいいけれど舞台に出す許可は簡単には出せないと言われたことも話した。

 貴婦人がルビーを軽業師にしたいと本気で考えているのだとしたら、彼の決意はルビーの将来の展望への妨げとなる。本当なら真っ先に説明をしておかなければいけないことでもあった。


 ブランコ乗りに関する話となると、貴婦人は面白そうに目を輝かせて聞いていて、最後に言った。

「ではアーティは、あなたを空中ブランコのパートナーにするには、あなたが自由の身になることが条件だと言っているのね。それは大変だこと。人魚、あなたは自由をどうやって(あがな)うつもりなの?」


「後出しの条件は無効だって、あたしは言いたかったんですけど」

 そう、ルビーは口を尖らせた。

 あのとき、いやにきっぱりとブランコ乗りが言ったから、ルビーは気圧されてしまい、反論できなかったのだ。

「あたし、奥さまがあたしに対して支払われた金額が、どういったものなのかよくわからないんです。仮にそれを借金と考えたら、どれだけ働けばお返しできますか?」


 貴婦人はルビーに貨幣の単位と大体の基準を教えてくれた。

 貴婦人が見世物小屋に出したルビーの買い取り金額は1万4000エキュー。

 奴隷市場で売り買いされる普通の労働者としての成人男性が相場では200エキューぐらいだから、ルビー一人の値段で平均的な成人男性が70人買えてしまうという恐ろしい値段だった。


 市場の人買いから見世物小屋がルビーを買ったときの値段は1万5000エキューだったことも教えてもらった。人魚という生き物の希少価値と、他に競り落とそうとするものがいたせいで、そのときの値はどんどんつり上がっていったらしい。


 自由を労働で買い取る場合、どれだけかかるかについても貴婦人は計算してくれた。


 たとえば見世物小屋の下働きや、野良仕事などの日雇いの仕事で雇用主が労働者に支払わなければいけない最低賃金というのがこの国では定められていて、それは一日まるまる働いた分で2エキューからとされている。これは1日2食、朝食と夕食を、飢えることなく食べられる値段から計算されているらしい。

 もちろんこれは最低賃金だから、もっともらっている人もたくさんいるということだったが、最低賃金の10分の1が義務として奴隷に支払われる金額で、0・2エキューということになる。


もしもルビーがこの最低賃金で一年中一日も休まず働きつづけたとして、それをすべて借金返済に充てるとして、利子について考えないで計算しても、完済までに200年近くかかってしまう計算になるということだった。


 聞いて驚くルビーに貴婦人は微笑んで言った。

「さすがに1日0・2エキューしか出せないということはないの。ここではきちんと働く使用人には1日10エキューは出しています」


 貴婦人はここで言葉を切って、「1日10エキュー毎日稼いで、それを全部使って1万4000エキューを返済するとしたら何年かかるかを計算してみて」と言った。

 「できない」とルビーは首を振った。そうしたら貴婦人は4年弱だと答えを教えてくれて、そのあと「人魚は字は読めるの?」と聞いてきた。それにもルビーは首を振る。すると貴婦人はきっぱりとした口調でこう告げた。


「家庭教師が必要ね」

「家庭教師?」

「ええ。読み書きと計算と、基本の礼儀作法を教える先生を呼んで、人魚を教育してもらうの」

「何のために?」

「あなたにきちんと仕事をしてもらうために」


「あたしはここで何の仕事をするんですか? それって字が読めたり計算ができたりする必要があるんですか?」

「ええ、もちろん必要よ」

「でも、あの……」

 ルビーは沸き上がる疑問を口にする。


「毎日見世物小屋に通って軽業の練習をして、他にも家庭教師にいろいろ教わるとしたら、あたしはいつ仕事をするんですか? 奥さまやお屋敷のみなさんが寝静まってからですか?」


「あら、見世物小屋に通うのだって、あなたの仕事のうちだし、家庭教師について勉強するのだってそうよ。だってあなたはわたくしの気晴らしのためにここに来たのですもの。わたくしが楽しいと思えることを、あなたはしなければいけないの。覚えておいてね」


「奥さまが楽しいことって、あたしが見世物小屋に通うことがですか?」

 なおも腑に落ちないという顔のルビーに、貴婦人は微笑んだ。


「さっき言ったわ。見世物小屋と関わることは、わたくしの楽しみの一つなの。でも、そうね、何も座長さんを喜ばせるためだけにあなたを買い取ったわけではないのよ。わたくしがあなたを手に入れたいと考えた本当の動機を教えてあげましょうか?」


 ルビーは目を見開いて、貴婦人を見返した。


「あなたを買い取った一番大きな理由はね、人魚、あなたを一人屋敷に残して他の人たちを帰した夜に、アーティが迎えにやってきたでしょう。彼があなたに関心があるみたいだから、わたくし、あなたを手元に置きたくなってしまったの。あのとき、あなたがどうして泣いていたのかを彼は知りたがったわ。だからわたくしは思わせぶりに、人魚はとっても純情なのねって言ったの。そうしたら彼、らしくもなく動揺してた。いつもは憎らしいぐらい落ち着き払っているのにね。あの夜の彼は、見ていて本当に面白かったわ」


 そのときのことを思い出していたのか、貴婦人は目を閉じて少し小さな声でゆっくりと話していたが、不意に目を開けて、ルビーを覗き込んできた。


「ハルと違ってアーティは自由民だから、わたくしの意のままにはならないの。でなくとも彼は気ままなんですもの。でも、こうしてあなたを手に入れたことで、彼をわたくしに従わせることができるかもしれないわ」


 そこで貴婦人は一度言葉を切って、その反応を窺うようにルビーを見た。


「きょうも夕食に招待したのよ。さっき使いをやって、あなたを買い取ったことを教えたから、きっと慌ててやってくることでしょう」


従わせる?


 最初はよくわからなかった貴婦人の言葉の意味が、ゆっくりと、ルビーの頭の中に浸み込んできた。

 ルビーは立ち上がり、貴婦人を睨みつけた。

 ガタン、と椅子が大きな音を立てて後ろに倒れ、テーブルの上のカップがカタカタと揺れた。

※すごくアバウトですが1エキュー=1000円程度の換算で。

EU貨幣がユーロに決まる前、単位名としてエキューも候補に挙がっていたらしいです。

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