20 ルビーの困惑
※警告:20話~22話あたりに若干のガールズラブ的表現が入ります。過激なものにはなり得ませんが、苦手な方はご注意ください。(物語中の恋愛要素についてはすべて男女間恋愛となります)
「ハリーは、そうね。生真面目な感じが好みなの。どこか死んだ主人にも似ている気がするわ。彼の方が主人よりずっとハンサムだけど。あのりりしい眉と、エキゾチックな顔立ちと、黒い髪と黒い瞳が好き。耳元で囁きかけてくるときの響きのいいバリトンの声も好き」
貴婦人は小首をかしげ、そう言った。
「アーティは綺麗な顔が好き。横顔なんて、有名な彫刻家の彫った完璧な彫像みたい。それに若いから肌に張りがあってとてもすべすべしてる。それと、しゃべり方や物腰がソフトね。彼にエスコートされてちやほやしてもらうのは、とってもいい気分」
少々困惑気味に、ルビーは貴婦人を見た。
いつの間に、こんな話になったんだろう。
最初は、貴婦人がどういう意図でルビーを買い取ったのかを質問していたはずだった。自分がここで何をしなければならないのかということも。
けれども話はいつの間にか長くなり、ルビーは自分の質問をさしはさむことができなくなってしまっている。
貴婦人との会話は、ルビーにはものすごく消耗するものだった。常に相手のペースに乗せられているという、拭い去りがたいこの感覚は一体なんだろう。
二人きりになって、困ったことにというか、やはりというか、ルビーは貴婦人に迫られた。
キスを迫られたルビーは苦し紛れに、奥さまはブランコ乗りが好きなんじゃないですか、と問いかけた。
ルビーの拒絶に貴婦人は食い下がることなくあっさりと身を引いたが、そのあと話はあらぬ方向に逸れ、脱線したまま戻ってくる気配がない。
ルビーの質問に対し、すぐに貴婦人が"ハリー"と"アーティ"の話を始めたわけではない。即座に返ってきた答えは、わたくしは美しいものはみんな好き、というものだった。
そのあと彼女はなぜか、人間ではなく屋敷の庭のバラの話を始めて、次にカルナーナ政府の要人たちの話に移った。
「首相のカルロは太り過ぎているから駄目。あれでも昔はまあまあハンサムだったんだけれど、あんなに贅肉がついてしまっては、すっかり興醒めだわ。補佐官は太りはしなかったけど、ここ数年で妙に老け顔になってしまったわね。国務長官はもともと顔が嫌い。彼、比較的女性人気は高いみたいだけど、わたくしの好みではないわ。濃過ぎる眉が暑苦しくて目ざわりなのですもの。
でも、首相のそばに控えている側近に、麗しい人が何人かいるのよ。首相はいつもラフな格好ばかりだけれど、側近の制服は襟がぎゅっと詰まっていてストイックでセクシーなの。とてもよい目の保養よ。人魚は見たことがあって?」
ルビーは黙って首を横に振った。
見たことなどあるわけがない。ルビーは陸に連れてこられてすぐに見世物小屋に売られて、そこからほとんど外に出ることなく過ごしてきた。そして、そういった場所には襟の詰まった制服を着た人間など、やってこないからだ。
いや、もしかしたら一度だけ、見たことがあるのかもしれない。
最初に南の島で捕まったときに。島じゅうにわらわらいた制服の男たち。そういえば、やたら襟のつまった服だった。あの中に"カルナーナ首相の側近の制服"を着ていた人も混ざっていたのかもしれない。黒い服の大群はルビーには虫みたいだとしか思えなかったし、ましてストイックだのセクシーだのという形容など思いつきもしなかったけれども。
「もちろん彼らはただの目の保養。わたくしは上流階級の人たちとは、いまはなるべく関わらずにいたいのよ。もう一度結婚させられるのはごめんですもの。自由気ままないまの暮らしががいいの。だから、見世物小屋のハリーとアーティは、いまのわたくしにはぴったりなの。絶対結婚を迫ってこない相手ですからね」
ちなみにハリーと貴婦人が呼んでいるのはナイフ投げのハルのことで、アーティはブランコ乗りのアートのことだ。
彼らにたくさん名前があるわけではない。この国の人たちはどうやら名前をいろいろと変形させて呼ぶらしいのだ。ハルは正確にはハロルド。アートはアルトゥーロが正しい言い方になるそうだ。
「二人ともとても素敵。だって、とても見目麗しいんですもの。鍛えてあるから筋肉質で、でも骨ががっちりしすぎでないところも素敵。ハルは逞しいけど、肉がつき過ぎているわけでもない引き締まった身体をしているし、アーティなんて、面差しにはまだどこか少年っぽさが残るのに、腹筋はとても固いのよ」
なぜいまルビーが困惑しているかというと、貴婦人の話がなんとなくだけれども、どんどん生々しい方向に進みそうな気がしているせいだ。
ブランコ乗りの腹筋がどれだけ固かろうが六つに割れていようがルビーには関係なかったし興味もない。ナイフ投げが二人きりのときに貴婦人に何を囁くのかなど、別に知りたくもない。
ところが貴婦人は、少し面白がっているような顔をして、ルビーの反応を窺いながら、さっきからルビーがどうにも反応に困るような話題ばかりを何度も振ってくるのだった。
ちなみにいまは、日差しもうららかな午後。場所は貴婦人の私室の南側にある白いテラスの白いテーブルと白いイス。テーブルの上には綺麗な朱の色のお茶とお菓子。ポットは白。カップもソーサーも白。
不思議な香りのするお茶をルビーがカップから飲み干すとすぐに、貴婦人はポットからお代わりを注いでくれる。
ルビーが貴婦人の部屋に通されてすぐに、貴婦人は人前ではずっと外さなかった黒いベールをとり去ってしまっていたから、いまは彼女がどんな表情をしているのかがよくわかる。
ベールをとった貴婦人は、最初イメージしていたよりもずいぶん若かった。20代半ばぐらいだろうか。綺麗に結った髪はつややかな栗色で、長い睫毛にくっきり縁取られたハシバミ色の切れ長の目が印象的な美女だった。ただし、どこかけだるげな笑みを常に口元に浮かべている。
もちろん人魚の長老とはまるで似ていない。人魚の長老は透き通るような青白い肌をしていて、その目の色は暗くて深くて何度覗き込んでも判別がつかない。貴婦人の目は、多少アンニュイであっても普通の人間の目だ。
けれども全く共通の何かでくくれないかというと、何か共通のトーンがあるような気もした。それが何かはルビーにはよくわからなかったのだけれども。
思えばこの部屋に連れて来られたときから、ある意味ルビーは困惑しっぱなしのような気もする。
他の使用人を下がらせたあと、ルビーをバルコニーの椅子に座らせておいて、貴婦人は手ずからお茶を淹れてくれたのだった。
人間の国に来てから日が浅いルビーでも、使用人と主人の、あるいは奴隷と所有者の関係の本質についてはなんとなく理解できている。前者は労働する側。後者は使役する側。のんびり座ってお茶を淹れてもらうなんてありえない。
ありえない事態だとわかってはいたけれども、ルビーはこれまで茶器なるものを見たことも触ったこともなかったし、お茶を淹れるということが何をどうすることなのかなどまるでわからなかったから、やります、とも言えず黙って見ているしかなかった。
第一焼きものの食器には怖くて触れない。割れるからだ。怪力男が大皿を20枚も30枚もまとめて割るから知っている。割れた皿を片づけたこともある。あれは不用意に触ると手を傷つけるから危ないのだ。
しかも目の前にある茶器は、怪力男が割るような雑なつくりの厚ぼったい素焼きの皿などではなく、華奢で薄くて綺麗な色に塗られて綺麗な模様付けがしてある。ポットもカップもその優美で繊細なフォルムは何かの芸術作品みたいだ。
見世物小屋の食事にみんなが使っている食器は、木でできたものがほとんどだった。座長をはじめ幹部の人間はときに真鍮製のものを使うこともあったが、どちらにせよ少々のことでは割れたりしなかったので、食器洗いは井戸の脇に置いた大きなざるの中にどんどん積み重ねて、かなり手荒にざぶざぶ洗っていった。目の前の食器を仮にあんな洗い方をしたら、確実に壊れてしまうだろう。
貴婦人は、ゆったりとした優雅なしぐさでお茶を淹れてくれた。ルビーはおっかなびっくりその様子を観察した。
今後こんな風に二人でお茶を飲む機会がまたあるのなら、次からは多分自分が淹れることになるだろうこともわかっていた。ぶつけたり割ったりせずに自分に上手く扱えるだろうか。やり方は見ただけでも覚えられなくもなさそうだったが、実は難しいコツやセオリーがある可能性もある。主人である貴婦人から教わるわけにはいかないから、あとで使用人の誰かを紹介してもらって教わるしかない。
といっても見世物小屋から馬車で連れてこられてそのまま貴婦人の屋敷に置き去りにされてからまだ、ルビーはほかの使用人に紹介してもらっていない。
貴婦人に連れられて3階建ての大きなお屋敷をぐるりと一通り案内してもらったあと、2階のホールのわきにある金属製の取っ手のついた豪奢なデザインの扉を開けて、そのまま貴婦人の部屋でお茶となった。
使用人は熱い湯と茶葉とお菓子を持ってきたあとすぐに下がり、二人きりにされてしまったのだ。
テーブルに案内してくれた使用人が部屋から退出するやいなや、待ち切れずにルビーは口を開いた。
「教えてください、奥さま。どうしてこんなお取り引きをなさったんですか?」
座長と貴婦人がやりとりしているときも、契約の書類が取り交わされている間も、長い廊下を歩いて大きな階段を上って下りて広いお屋敷を案内してもらいながらも、ずっと聞きたくて仕方のなかった質問だった。
「まあお座りなさいな。いま、お茶の準備をしますから。お話はお菓子をいただきながらゆっくりとね」
貴婦人は微笑して、椅子に座って待つようにルビーに言った。
そうして、ルビーにとって、とても長くてとても気疲れするお茶会が始まったのだった。




