19 悪い噂(※加筆部分)
あの日、すらりとした長身の若者は、手を差し伸べて、水槽に閉じ込められた少女を救い出した。
そのときロクサムはそれを手伝うことすらできず、ただ、見ているしかなかった。
手を取り合って水槽のわきに降り立った二人は美男美女で、本当にお似合いに見えた。
若者は咳き込む彼女の背中を叩いて水を吐き出させ、そのあとも心配そうに少女を労わっていた。
気位の高い少女は、助けた若者に微笑みかけようとはせず、すぐにその手を振り払ったのだけれど。
二人を見るロクサムの心は、きりきりと痛んだ。
自分はあの少女の隣に立つのにふさわしくない。ふさわしいのは、涼しげな目元をしたあの若者だ。だれが見てもそう思うに決まってる。
ごく当たり前の事実なのに、ロクサムの心はそれを納得できずにいる。そんなのは嫌だと、少女の一番近くにいるのは自分でなければ嫌だと、心のどこかがどうしようもなく駄々をこねていた。
ロクサムは少女を閉じ込めて溺れさせた水槽の水を運ばされた。わけもわからずがむしゃらに、何度も何度も桶で運んで水を入れた。少女が水槽に閉じ込められている間、ロクサムはどうしたらいいのかまったく思いつかず、途方に暮れて、周囲をうろうろするばかりだった。
若者はあとからやってきて、ためらうことなく、すぐさま少女を助け出した。
若者が助けに来なければ少女は死んでいたかもしれないというのに、少女と自分が似合うだの似合わないだの、ふさわしいだのふさわしくないだの、くだらない。そんなくだらない考えに捕われて落ち込んでいる自分がどうしようもなく利己的で駄目な人間に思えてきて、ロクサムはますます落ち込んだ。
しかし、ロクサムが全く予測しなかったことに、少女の生活はその日から激変した。
ブランコ乗りや舞姫が止めてくれたおかげもあってか、とりあえず座長は、何がなんでも少女を人魚に戻そうとすることはやめたみたいだったが、次の日から人魚は下働きとして働かされることになったのだ。
人魚を助け出したブランコ乗りは、その場で彼女を空中ブランコのパートナーにすると宣言し、少女はその場でそれを受け入れた──はずだった。
なのに、そんなことはまるで忘れ去られているようだった。翌日の早朝から厨房の仕事、洗濯、薪運び、掃除など、息をつく暇もなく少女は働かされていた。彼女はロクサムに負けないぐらいたくさんの下働きの仕事を言いつけられているみたいだった。
座長は人魚でなくなってしまった少女のことを、まだ怒っているらしい。
自分も忙しいロクサムには、少女を助けたくてもなすすべもない。ときどき視界を横切るその姿を横目で追い掛けるばかりだった。
忙しい一日は飛ぶように過ぎていく。
それは、夕刻が近づいて、ロクサムがちょうど風呂に薪をくべて女湯の準備を手伝っていたときだった。ちょうどそこへ、洗濯女が他の女たちとおしゃべりしながら通りかかった。
「きょうは人魚はあたしの言いつけを守って馬鹿みたいに洗濯してたよ」
洗濯女が面白そうに言うのが、薪を放り込んだロクサムの耳に届いた。
「いままでいい思いしてきたんだから、いい気味だね。明日は洗い終わったものを入れた籠を運んでいるところを転ばせてやるよ。そんで、最初からもう一度洗い直しをさせてやるから見ててごらんよ」
「そんなことできるの? さすがに人魚だって怒るんじゃない?」
「もし怒ったら、怒ったことでもっと叱りつけて、もう特別待遇なんかじゃなくて下っ端の下っ端だって思い知らせてやれるからいいのさ。とにかくあすはいいものを見せてやるから、その辺の物陰で見てなよ」
「わかった。うまくやりなよ」
「人魚が怒りだしたら加勢にいくからね。ちょうど見てたけどあんたは何もしちゃいない、転ばしただなんて言いがかりだって怒鳴りつけてやるよ」
女たちは口々にそう言うと、意地悪な楽しみのためか、顔を見合わせて笑い合った。
すぐにでも知らせに行きたかったが、風呂係が薪をもっと運んでくるように言ったので、ロクサムは取りに行かなければならなくなった。おまけに人魚がいまどこにいるのか全然わからない。
見世物一座の小屋のある敷地は広く、後ろは小高い丘の中腹にまで広がっている。
奥の方では皆の食料用のニワトリを放し飼いにしていたりもするのだ。ロクサムはそちらに手伝いに行くことはないが、もしも人魚がそのあたりまで行くように言われていたら、見つけようもない。
「おおい、湯がぬるいぞう。早く熱くしてくれえ」
男湯の方から早くも催促の声が聞こえてきている。
座員は男の数の方が多い。男湯はもう使われ始めているようだった。
それに。
薪を運びながらロクサムは思い直す。
溺れかけた少女を手をこまねいて見ているだけだった自分が、いまさらどんな顔をして、そんなささやかな危機を告げに行けるというのだろう。
どのみちもう、合わせる顔などないのだと、自嘲気味にロクサムは考えた。
ところが、その何日か後──。
ロクサムが建物の裏手の焼却場でゴミを燃やしていると、少女はどこからかやってきて、彼の隣にちょこんと座った。ロクサムはうろたえたが、少女は、まるでそこが当たり前の彼女の場所だとでも言いたげな表情で、ロクサムの顔を見上げた。
見た目は綺麗な女の子の姿をしているのに、中身はまるで忠実な番犬か何かのようだ。胸の内にひろがっていく苦味を噛みしめながら、ロクサムはそう考える。
たとえ少女が気にしていなくても、自分はもう、彼女の信頼に値する存在ではないのに。
少女は舞姫に借りたという袖のないシャツを着て、ほとんど脚全体が剥き出しになってしまうショートパンツを履いていた。何日かの過酷な労働で少し痩せたのか、少女の手足はますますほっそりとして頼りなげに見えた。
仕事がきついんじゃないかと思わず尋ねたロクサムに、少女は何でもないと言って笑い、仕事にもっと慣れたらロクサムを手伝いに来ると答えた。
洗濯女の件についても聞いてみたが、何かあったのかそれともなかったのか、平気、の一言で軽く片付けられた。少女は、そんなことより違う話がしたいのだと言いたげだった。
溺れそうになった彼女を見殺しにするとわかっていて、ロクサムがなすすべもなく見ていたあの日のことが話題になると、彼女は自分も同じなのだと言った。
助けたかった大事な友だちを、自分のせいで死なせてしまったことがあるのだと、苦しげな声で少女は告白した。
少女の感じている胸の痛みは、苦しげな声とともに彼の胸にダイレクトに響いてくる。その苦しみは、蓋をされた水槽を前にした瞬間のロクサムの絶望感とシンクロして、不意に彼はひどく動揺した。
少女はまだ生きていたから、ロクサムはかろうじて、激しい後悔に苛まれることなくこうやって過ごすことができているのだ。
それはロクサムにとっては、ただ運がよかっただけなのだと、今さらのように気づく。けれども、どうすればいいのだろう。彼はこれまで他人に逆らってまで自分の意思を押し通したことなどなかった。生まれてこのかた、多分一度たりとも。
短い会話の中で、少女はとつとつと、けれども一貫してロクサムに訴え続けた。ずっとロクサムの仕事を手伝いたかったのだと。時間さえあればロクサムのところに来たかったのだと。会いたかったと。
見世物小屋に来て、ロクサムに会えてよかったと。ロクサムが自分を気にかけてくれているのが嬉しかったのだと。少女にとってロクサムは大切で、必要で、いまも失いたくない、かけがえのない友だちだと。
友だち、という言い方をされたときには彼の胸はちくりと痛んだけれども、素直な気持ちを打ち明けられるのは嬉しくもあった。
少女の紡ぐ一言一言には本当の気持ちがこもっていたから、心を揺さぶる力があった。やはり彼女は動物と同じなのだとロクサムは思う。ストレートで飾らない。本当のことしか伝えようとしてこない。だから少女の言葉を疑う必要がないことは、ロクサムにも理解できた。
けれどもそれと同時に、彼女のまっすぐな気持ちがロクサムには眩しくて、そしてそこまで思われる理由も全然わからなくて、どう返事をしたらいいのかさっぱりわからなくなる。
信頼に値しない人間を信頼してしまった動物の行く末は悲惨だ。ロクサムは生き物たちと心を通わせることはできたが、見世物小屋の動物の生殺与奪権は、常に座長が握ってきた。そしてそれを当り前だと思い込んでいた。座長に逆らってみようなどと、はなから考えてみたこともなかったのだ。
そんな無力な自分を少女が信じ続けてくれるよりも、ブランコ乗りのような頼りになる相手と親しくしていてくれた方が安心な気もする。
でもそれは、心が痛くて受け入れがたいことだとも思う。
ロクサムは自分の内側にあるもやもやとした醜い感情に気づいてしまった。どす黒い渇望のような、目をそむけたくなるような感情だ。そんなものを少女にぶつけたくはなかったし、知られたくもない。
返事に窮して無言でいたら、やがて寂しそうな顔になって、少女は黙った。
それでもやっぱりどうしたらいいかわからなくて、ロクサムは黙ったままだった。
それでも。
そのときにロクサムは、何か言うべきだったのだ。
これまで少女と一緒に過ごした時間が、自分にとってもすごく楽しいものだったとか、なんとか。
でなければ、ありがとう、の一言だけでもよかった。
その時間を最後に、少女は見世物小屋から別の場所に売られていってしまったのだから。
きゅうに決まったことらしく、座員のだれも前もって知らされていなかった
以前からささやかれていたという、少女の買い手である貴婦人についてのよくない噂は、そのあと少し遅れてロクサムの耳にも入ってきた。
舞姫とブランコ乗りとナイフ投げの3人とともに夕食会に呼ばれた夜、少女は他のメンバーよりも遅れて見世物小屋に戻ってきたのだった。
噂では、そのとき少女は貴婦人のベッドの相手をさせられていたから、戻ってくるのが遅れたのだという。そして、少女はそのために魔術で人魚の尻尾を奪われ、人間の姿にされたというのだ。
少女が姿を消した日に焼却場から少女を連れ去った雑用係の女が、通りがかりにその噂をロクサムの耳に入れていった。
「貴族は大体悪趣味だっていうからね」
一座を食事に呼んだのは、とある身分の高い女性だとロクサムは聞いていた。
ロクサムが不思議に思ったのがわかったのか、目の前の女は、聞くに堪えない憶測を展開させた。
「おおかた屋敷の下男かなんかの相手をさせて、自分は眺めてたんじゃないの? なんかそういう残酷な遊びがあるっていうじゃないの。まあ、自分の相手をさせたのかもしれないけどね。そういう趣味の人もいるっていう話だし。どちらにしても、あたしたち庶民には想像もつかないことだけどさ」
ロクサムが噂をそのまま信じたわけではない。カルナーナの市民は皆、無類の噂好きだったから、ときおり話を盛り過ぎてしまう。噂に尾びれ背びれがついて、元の話とは似ても似つかぬ脚色をされて、一人歩きすることがままあるのだ。
それに人間の姿に変わっても、ロクサムの知る限りでは、少女の中身は人魚のころと何も変わっていなかった。野草のように伸びやかで、野生動物のように誇り高いままだった。
それでも、そんなとんでもない噂のある相手のところに、人魚の少女が買われていったことだけは事実だった。少女の過酷な運命を思い、ロクサムはどうにもならない己の無力さにうちひしがれた。
売られた先で、辛い思いばかりをしていなければいい。せめてどこかで安らぎを得ることができていればいいと、彼はただそれだけを少女のために願った。