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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[一] 怪物の島と南の国 
18/110

18 ロクサムの苦悩(※加筆部分)

 ロクサムが毎日世話をしていた人魚の少女は、ある日、見世物小屋の後援者の一人である貴婦人の夕食会に招かれていった。

 その日選ばれたメンバーは、少女の他には舞姫、ブランコ乗り、ナイフ投げの3人だった。

 3人とも一座の中では中心になる華やかな人たちで、ロクサムは近寄ったこともなければ口を利いたこともない。


 ブランコ乗りは以前から人魚の少女のことを気に入っている様子で、少女が大ホールの控室にいるときにはしょっちゅうそばに行って話しかけていた。また、少女が小さい方の小屋に見世物に出されているときも、ひまを見つけて足を運んでいるようだった。けれどもロクサムの見たところ、少女はニコリともせず、ブランコ乗りはいつもつっけんどんにあしらわれていた。


 ところが、そんな気難しい人魚の少女は、なぜか世話係のロクサムには意外なぐらい屈託なく打ち解けてきた。

 ロクサムは普段から馬や羊やゾウなどの動物にはやたら好かれる性質たちだったから、もしかすると少女は本質的に、人間というよりも動物に近いのかもしれなかった。

 身体の半分が魚だからなのか、あの少女には野生動物みたいなところがある。普通の人間と違って気位が高いのだ。


 ロクサムは醜い容姿のために、小さいときから人から敬遠されて育ってきた。

 馬鹿にして笑い物にするものたちもいれば、可哀想にと同情の目を向けてくる人もいた。反応はさまざまだったが、彼に対してどこか身構えてかかるという点では共通していた。

 一方、動物は人間と違って、人の容姿の良し悪しを気にしない。ロクサムの背中が不自然な形に曲がっていても、目がやぶにらみで変な顔をしていても、手足が短くて全体のバランスがおかしくても、動物たちには関係ない。嫌がったり気持ち悪がったりすることも、逆に過剰に同情したりすることもなく、自然に接してくれる。

 その代わり動物は、自分たちが正しく適切に扱われることを要求するのだ。彼らにとってのルールを守って真摯に接することができるならば、彼らとの信頼関係を築くことはそんなに難しいことではない。


 期せずして人魚の少女からの屈託のない信頼を得ることになり、戸惑っていたロクサムだったが、相手を気位の高い野生動物の一種だと思うことで、とりあえずは自分を納得させてきたのだった。

 けれども、近頃どうにもそう思えなくなってきている。

 なぜなら、少女は人間の声で、人間の言葉を話すのだ。鈴を振るような声で、流麗なしゃべり方で。そして、よく通るその澄んだ声で彼の名を呼ぶのだ。動物は、どんなに信頼を寄せてくれても、彼を名前で呼んでくれたりはしない。


 一度ロクサムは、少女との距離の取り方を間違えて、怒らせてしまったことがある。

 人間の女の子を呼ぶように、親しみを込めて赤毛ちゃんと呼んでいいかと聞いたら、絶対嫌だと撥ねつけられた。

 ブランコ乗りがそう呼んでいるのを聞いて、可愛い呼び名だとロクサムは思ったのだった。しかし、その呼び方は少女の気に入らないものであったらしい。

 でも、そのあとで彼女はそっと、自分の名前を教えてくれた。それとともに、決してその名で呼んではいけないと、固く戒められたのだったが。決して呼んではいけない名前を教えてもらったことの意味が、ロクサムには未だにわからずにいる。


 その日以来、少女は彼をロクサムと、名前で呼んでくれるようになった。軽やかな、耳に快い優しい声で、少女は無邪気に彼の名前を呼ぶ。


 また、人魚は尻尾以外は顔も仕草も人間の少女そのものだ。それも格別綺麗な女の子の姿をしている。

 肌は陶器のように白くてすべすべだったし、髪は燃え上がる炎の色。瞳の色は鮮やかな深いみどりだった。まるで澄み切った綺麗な湖のおもてのような色だ。昔巡業中にどこかの北の森で見て、心に残っている色だった。

 控えめなふくらみを持った胸元だけは布で覆い隠していたが、いつも剥き出しのままの肩と腕は白くたおやかで、思わず見とれるぐらい綺麗だ。細い首、華奢な肩、すんなりと伸びた綺麗な白い腕。細い腰から鮮やかな赤い魚の尾にかけてのなめらかなシルエットは、優美で幻想的ですらある。

 ロクサムと同じ異形フリークであるにもかかわらず、少女は彼とは対照的に、とても美しかった。


 だから少女がお得意さんの夕食会に招待されたのは、考えてみたら別に不思議なことでもなんでもない。

 だが、見世物小屋の一座の他の大勢の芸人たちを飛び越えて新入りの少女がいきなり、一座の花形である舞姫やブランコ乗りやナイフ投げとともに呼ばれたのだ。周囲にはそれをやっかむ声もちらほら上がっていた。


 そして、ロクサムの胸もそのときから、なぜだかちくちくと痛み始めた。

 これまで意識もしていなかった微かな仲間意識が壊れたのを、ロクサムは心のどこかで感じていた。少女は自分とは違うのだと、異形ではあってもその可憐さと完璧さゆえに、たくさんの人々に愛され受け入れられる存在なのだと思い知らされたのだ。


 あの日の夜、少女は、貴婦人の招待を受けた他のメンバーより少し遅れて戻ってきた。

 そのときちょうどロクサムは、その日に出た最後のゴミをもう一度焼き終わって、ゴミ焼場の火の番をしていたところだったから、少女が帰って来たときの様子はよく知らない。



 その翌朝。

 ロクサムはいつものように、朝食の盆を人魚の部屋まで運んだ。昼食と夕食を人魚の部屋まで運ぶ係は別にいたが、朝のうちはロクサムも少しなら時間が取れたし、世話をしている立場としては人魚の体調を知る必要もあったので、いつも自分で持っていくことにしていた。


 いつもの朝とは違って、少女はまだ眠っていた。白いシーツにくるまって、小さく寝息を立てながら。きらきら光る赤い髪が、白い小さな顔をとりまいて寝台の上に広がっていた。シーツから頼りなげな肩と細い腕が覗いている。

 少女の枕元に食べ物の入ったトレイを置いたあと、声をかけて起こそうかどうしようかロクサムは迷った。ゆうべの慣れない外出で、少女は疲れ切って寝ているのかもしれない。だからそっとしておいてあげた方がいいのかも。でも、起こさずこのまま出ていくと、朝食は温かいうちに食べたかったとあとで思うかもしれない。


 すやすやと眠る少女を前にロクサムが思案していると、少女は不意に寝がえりを打った。少女が横を向いた拍子にシーツがめくれ、その剥き出しの両脚が、ロクサムの目に飛び込んでくる。


脚?


 ぎょっとして、ロクサムはもう一度目を凝らした。

 そこにあるはずの、赤い小さなうろこに覆われた尻尾がない。代わりに、サラサラの絹のワンピースの裾から、すんなりとした形のよい2本の白い脚がのぞいていた。

 ちょうど左の足首に宝石のように赤いつるんとした石でできたアンクレットがはめられている。その赤と白のコントラストが目に鮮やかで、ロクサムはなぜか見てはいけないものを見てしまった気がして、うろたえた。


 慌てた彼は、転がり出るようにして人魚の部屋を飛び出した。人魚だと思っていた少女は、彼の知らないうちに人間になってしまっていた。それとももともと人魚は仮の姿なのか。あの異形は、眠っているときだけ人間の姿に戻るとかいう呪いなのだろうか?


 逃げ出したあとも、人魚の綺麗な白い脚が目の前にちらついてなぜか離れず、彼を悩ませた。

 あどけない寝顔も、綺麗な腕も、綺麗な脚も、本当は彼なんかが見てはいけない、そばに近づくこともできない特別なもののような気がした。理由のよくわからないちくちくとした痛みは、少女が人魚ではないと知ったときから、一層強くロクサムの胸の内を蝕んだ。だから、その痛みとともに、ロクサムはさっき見た光景を心の内から追い出そうとした。


 なのに人魚の姿は、ロクサムの頭の中に強く焼き付いてしまっていた。無防備に眠る少女の寝顔とともに、透き通るような白い2本の脚が何度も脳裏に浮かんできて、ドキドキと動悸がして、止まらなくなる。

 その日は下働きの仕事を早々に切り上げて興行に合流するように言われ、鳥女と一緒にチップの箱を持って客席を回ったが、ロクサムは気もそぞろで、どんな客が座っていて、だれがどれだけチップを入れてくれたのかもよく覚えていない。



 ロクサム以外にも少女のところに確認に行ったものがいたのだろう。

 さらにその翌日にはもう、人魚が人間の娘になってしまったことは、一座の間に広く知れ渡っていた。

 座員たちのあいだでひそひそとささやかれている噂の内容までは、ロクサムの耳には届かなかったけれども、人魚の話で持ちきりになっていることは雰囲気でなんとなくわかった。


 それでもロクサムの忙しい毎日に、何か変化があるわけではない。

 きのうの朝と同じように、朝食を運んで行ったとき、少女はまだ眠っていた。

 きょうは、少女が眠っていてくれていることに、なぜだかロクサムはほっとした。


 きのうの朝食はまったく手つかずのまま枕元のローチェストに置かれていた。少女はあれからまだ、ずっと眠り続けているらしい。

 どこか悪いんだろうか? 大きな変身をしたせい? 急に心配になったロクサムだったが、彼に出来ることは何もない。古いトレイをよけて、代わりに新しい朝食を置くと、黙って部屋をあとにした。


 ところがいつの間にか少女は目を覚まし、起き出していた。

 自分の足で部屋を抜け出し、知らないうちに大ホールまでやって来ていたのだった。

 昼の興行のあと、きのうと同じように鳥女とチップを集めて回っていると、客席のどこかから、ロクサム、と無邪気に彼を呼ぶ声が耳に届いた。

 すぐに人魚の声だとわかる。ハイトーンの柔らかな声は喧騒の中でもとてもよく通ったし、彼をロクサムと呼ぶのは少女だけだったからだ。


 でも彼は、人魚の少女の方を見ることができなかった。一度そちらを向いたら最後、自分はどこまでもその姿を目で追ってしまうような気がした。現にいまも、目で追うことはなくても、少女の声のした方ばかりに気を取られてしまう。そんな風に少女の気配をしつこく追ってしまう自分が嫌だった。ロクサムは少女を見ないようにして、次の列に急いだ。


 そのころには自分の胸の痛みの正体を、ロクサムは理解しかけていた。

 少女はもう、ロクサムにとって、いままでのように仲良くできる相手ではないのだ。これから少女の世界は外に向かって広がっていって、きっと自分は見向きもされなくなる。

 馬車で出かける直前、少女は舞姫と楽しそうに会話を交わしていた。あの華やかで美しい社交家の女性は、きっとロクサムなどよりもたくさんの楽しい話題を人魚に振ってあげられる。ブランコ乗りだって、普段からあんなにたくさんの女の人に騒がれているのだから、少女も今回のことで一度打ち解けて話すようになったら、きっと彼のことを魅力的だと思うようになるに違いない。


 これまで少女とロクサムは、上手く釣り合いのとれた関係だった。自由に動けない少女のために、ロクサムは朝食や水を運び、外の世界の様子を話し、懸命に気晴らしの方法を考えた。一方で、これまで話し相手のいなかったロクサムにとっても、少女との会話は大きな楽しみになっていた。

 そのちょうどいいギブ・アンド・テイクの関係は、少女の世界が広がり、本来の彼女にふさわしい仲間を得ることによって、バランスを失っていく。しかも彼女は自分の足で歩けるようになった。何を見るのも何を知るのも、これからは好きな場所で、好きな方法で、彼女自身のペースでやっていけるのだ。これまでのロクサムとのちょうどいい関係は、決定的に終わりを告げたのだ。


 そう思うとロクサムは、息が詰まるぐらい苦しくなった。

 でも、どうしようもないことだ。しつこくつきまとって嫌われるよりも、せめてこれまでのことを感謝されたままでいよう。


 彼が何かするたび、食事や水や、ちょっとしたものを彼女のもとに運んでいくたび、無邪気に目を輝かせて、ありがとう、と言ってくれた少女の顔が思い浮かんで、ロクサムはまた息が止まりそうになる。

 ロクサムが思いつく楽しみなど、大したことではなかったのに、ほんのちょっとしたことでも、少女はとても嬉しそうな顔をした。

 道端で摘んできた小さな花をたった1輪手渡すだけでも、綺麗、と言って大げさなぐらい少女は喜んでくれた。

 けれどもこれからは、そんなささやかな驚きを彼女に届けて喜ばれることも、もうない。これまでは巣から落ちたヒナ鳥の世話をしていただけだと思って、巣立ちを喜び、割りきらなければならない。


 ところが、そんな彼のあきらめの境地になどお構いなく。

 少女はその日のうちに、自分からロクサムを追いかけてきたのだった。

 少女が歩けるようになって真っ先にしたことは、可憐な花を見ることでも新しい友だちを見つけに行くことでもなく、ロクサムを探すことだった。


 全く予想もしていなかったロクサムは戸惑って、うじうじと考えつづけていたことをそのまま少女にぶつけてしまい、少女を怒らせた。

「あたしたち、友だちじゃなかったの?」

 そう問い返す少女の声は心底傷ついている様子で、ロクサムをさらに動揺させた。

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