17 馬車の行方
ルビーはもうそれ以上何をどういえばいいのか分からず、そのまま会話は途切れてしまった。
そこでルビーは、ロクサムを手伝おうと立ち上がった。燃えさかる火をただ眺めているのは手持ち無沙汰だったし、沈黙が気づまりでもあった。
ロクサムが何かをわかってくれたのか、何も伝わっていないのか、ややうつむいたその表情からはよくわからなかったが、手伝い始めたルビーをこの間のように拒むそぶりは見せなかった。
ただ黙々と、二人はゴミを燃やした。
一口にゴミといっても、その種類は様々だった。
怪力男がへし折った丸太のくずや、火の輪くぐりの燃え残りや、壊れた古い道具などの、興行中に出たゴミ。剥いたジャガイモの皮や伸びたタマネギの茎や毟った鳥の羽根などの、厨房から出たゴミ。団員の部屋から出た、布クズや食べカスのようなゴミ……。
中にはひどい臭いのする得体のしれない袋などもあった。
燃えにくそうなものや中身のわからないものについては、よく燃える薪を混ぜて火の勢いを良くしておいてから、タイミングを見計らって炎の中心あたりを目がけて投入する。
そうやってあらかたのゴミをやっつけ終わったところで、もう一度捜しに来た例の女の人にまた見つかった。
ルビーはすぐさまその場から引きずっていかれ、こっぴどく叱られた。
「あんた何? ちょっとの間になんでこんなにゴミ臭くなってるのよ。このままじゃ着替えさせられないじゃないの」
湯を使う日ではあったが、まだ準備ができていなかったため、ルビーは井戸のそばに連れていかれて、この前みたいにまた頭から水をぶっかけられた。
といって、きょうは昼間だったから特に寒くはなかった。
「あんたさあ……」
女の人はルビーの頭に遠慮も何もなくざぶざぶ水をかけながら、言った。
「こぶ男に構うの、もうよしなさいよ」
「どうして?」
「勘違いさせて、変に期待させてしまったら可哀想じゃないの。それと、あの子をロクサムって呼ぶのも変だからやめなよ」
「勘違いってどういう意味? それにロクサムって名前は変じゃないもの。いい名前だわ」
「勘違いじゃなきゃ別にいいんだけどね」
女の人は、ふんと鼻を鳴らした。
「あんな醜男町じゅうを走りまわって探したってほかに見つかりゃしないだろうよ。人魚も物好きなこった」
勢いよく桶の水を浴びせられながら、ルビーは視線だけ少し上げてちらりと女の人を見た。なんだろう。やっぱり、この女の人の言い方は何か好きになれない気がする。
ルビーの沈黙を同意と受け取ったのか、女の人は話を続けた。
「ロクサムっていうのは人の名前じゃなくて、10年ちょい前に一座がこぶ男を拾ったどっかの町の名称だよ。あの頃はまだ、あたしたちも定住してなかったからね。ちょうど海の向こうの国に招待されて大きな船で渡って、その国で巡業してた頃だよ。
拾ったっていうか、一応、座長が金を出して買ったんだけどね。二束三文だったみたいだけどね。こぶ男は、実の両親に売られて見世物小屋に来たんだ。変わった姿で生まれてきて、普通に育たないだろうといって、やっかいばらいのためにさ。小さかったから本人は覚えてないみたいだけど」
「ロクサムは、お母さんがつけてくれた名前だって、言ってたわ」
「巡業中にあの子の面倒をみてたのが、先々代の舞姫でね。それともその前の代の舞姫だったかな? どっちにしろ、病気だったからその年か翌年あたりの冬に、どこかの町で死んでしまったんだ。
こぶ男は記憶が混乱してるみたいで、それを母親だと信じてるみたいだね。でもロクサムってのはどっかの町の名前で間違いないから」
「でも……」
そう呼んでほしいとロクサムは言ったのだ。それが本当にこの女の人の言うように、お母さんがつけた名前ではなく町の名前だったとしても、呼んではいけない理由にはならないと、ルビーは思う。
「ロクサムは、ロクサムよ」
へえ、と女の人は呆れ顔になってルビーを見た。
「まあ、あんたがこぶ男をなんて呼ぼうが勝手だけどね。変だっていうのだけ、覚えておきなよ。あたしは忠告はしたからね」
着替えるように言われて出された服は、ボタンのついた白いブラウスと黒無地のフレアスカートだった。町の仕立て屋が立体的に作る類の服で、見世物小屋では着ている人をあまり見たことはない。スカートと共布の黒いベストまでついていた。ベストの前のボタンは白っぽい銀色で、控えめな光を放っていた。
靴だけは、お下がりだよ、と言って舞姫がくれた小さな焦茶の革靴を、白い靴下の上からもう一度履いた。
ルビーを乗せた四頭立ての馬車は、見世物小屋の正門から、町へ向けて走り出した。
馬車に乗り込むとき振り返ってみると、舞姫とナイフ投げが心配そうにこちらを見ていた。きょうは公演のない日だったからブランコ乗りはいなかった。
ロクサムの姿も見当たらなかった。多分どこかで用事を言いつけられて一心不乱に働いているのだろう。
馬車にはルビーと座長のほかに副座長も乗っていた。そしてなぜか、他の幹部の人間も乗っていた。一人は経理と呼ばれ、もう一人は広報と呼ばれている男だった。
そして、向かったのはなぜか町のお役所などではなく、アシュレイが夕食になって出てきた、あの貴婦人の屋敷だった。
貴婦人はきょうも黒いベールのついた帽子をかぶって顔を隠していた。
彼女はルビーの姿をひと目見るなり、満足そうに微笑んで、座長を見た。
「よかった。用意させた服、あつらえたようにぴったりだわ」
「恐れ入ります、奥さま」
座長はうやうやしく返事をした。
貴婦人は首を傾げた。
「でも、髪がぐしゃぐしゃではなくて。いらっしゃい、人魚。髪をすいてあげる」
ルビーはわけがわからずに、座長を見た。
座長はルビーの視線を無視し、貴婦人に向かって揉み手をした。
「それより奥さま、まず、いかほどでお考えでいらっしゃるのかを、お聞かせ願えますか?」
「そういう無粋な話は執事に任せてあるから、彼と話し合ってちょうだい」
貴婦人の横にいた執事が一歩前に出てきて、一礼をした。
「こちらのテーブルへどうぞ。お願いした書類はご用意いただけましたか?」
「書類でしたらここに」
副座長が頷いて、革の鞄の中からノートやら紙やらを出してきて、促されたテーブルの上に並べた。
「どういうこと?」
ルビーはもう一度座長を見た。
貴婦人が、おっとりとした口調で言った。
「まだ教えてもらってないのね、人魚。あなたは見世物小屋を出て、わたくしのところに来ることになったのよ」
「聞いてません」
ルビーはその場に突っ立ったまま、座長を睨んだ。
少し苛立った口調で、座長は説明した。
「ごくつぶしを養っていけるほど、見世物小屋には余裕がないんだ」
「ごくつぶしじゃありません。空中ブランコを習うって言いました。下働きの仕事だってなんだってします」
「洗濯女が言っていたらしいぞ。おまえに手伝わせたら失敗ばかりでかえって仕事の手間が増えて困るそうだ」
「あたしはちゃんとやってます」
「籠をひっくり返して洗い終えた衣類を落として、洗い直しをさせたそうじゃないか。仕事を途中で放り出して食事に行ってしまうとも聞いたぞ」
「あらまあ」
貴婦人が、会話に割って入ってきた。
「人魚は仕事をさせたら失敗ばかりなのね。お屋敷の小間使いが務まるかしら」
「違います。あたしは……」
こちらを見る貴婦人の目が笑っているのをルビーは感じた。どこか面白がっている口調だった。
座長があたふたと、自分の失言を取り繕おうとする。
「せっ、洗濯は苦手のようですが、厨房では問題なく作業できていたようです。奥さまが心配されるほど無能というわけではないかと……」
「そうね」
貴婦人は、優雅な仕草で首をかしげた。
「人魚が空中ブランコを習うという話が出ていたの?」
「ブランコ乗りはあたしに教えてくれるって言いました」
「そうなの? 座長さん」
噴き出す額の汗を、座長はハンカチでぬぐった。
焦る座長を見て、貴婦人は微笑んだ。
「そうなのね。ブランコ乗りは、人魚に軽業を教えるって言ったのね」
「し、しかし恐れながら奥さま、空中ブランコはそんなに簡単に習得できるものでは……」
「どれぐらいかかるものなの?」
「最低でも公演に出すまでには半年、いえ1年ぐらいはかかるかと。それ以前に素養がなければ無駄でしょうし」
「人魚は素養がなかったの? 座長さんは確認したのね?」
「いえ──。しかし、奥さまが人魚買い取りのお話を持ってきてくださったゆえ、あえてそれを確認する必要はないと判断させていただきまして……」
「あたしは習いたいって言ったわ、空中ブランコ」
「おまえは黙っていなさい」
人魚の言葉をたしなめておいてから、貴婦人に向かって座長は言った。
「奥さまにお貸ししている間に、人魚は人間になってしまったわけでして。一座としては、多大な損失であったわけです。
いえ、日頃よりごひいきいただいていることにつきましては、感謝の言葉もないぐらいでして、人魚の購入は結構な投資ではありましたが、奥さまにご援助いただいていることを考え合わせて、今回のことはそのまま何も申すまいと思ってはいたのですが……。
ありがたいことに、奥さまの方からこういったお話をいただけたということで、つつしんでお受けしようと考えている次第でございます」
貴婦人は座長の言葉を黙って聞いていたが、振り向いてルビーを見た。
「人魚。あなたがどうしたいのかを教えてくれる? 見世物小屋に残りたい?」
ルビーはベール越しの貴婦人の顔を見つめて頷いた。
「あたし、空中ブランコがやりたいんです」
隣から座長が怖い顔で睨んで来たが、ルビーは知らん顔をした。
「では、こうしましょう」
貴婦人は、一座の人たちとルビーを順番に見回した。
「最初におはなしさせていただいたとおり、人魚はわたくしのところで引き取ります。そして、ここから見世物小屋に通えばいいわ。空中ブランコの見習いとして」
「は?」
座長も副座長も、あんぐりと口を開けた。
「見習い期間中はお給料はなくて結構。ですけれども、契約はきちんとしていただいて、人魚が晴れて舞台に立てるほどになったら、相応のお給料を出してくださいね」
「し……しかし……」
「人魚は歳は幾つなの?」
その質問には、広報担当がノートの記録を確認して、事務的な口調で回答する。
「人魚は15歳です」
16歳よ。ルビーは声には出さず、口の中でだけ、そうつぶやいた。
「見世物小屋の軽業も、いずれ代替わりが必要になるんでしょう? ひょっとしたら人魚が次代ブランコ乗りを名乗ることになるかもしれないわ。楽しみではなくて?」
「奥さま、ですが、見世物小屋に通うとなると……その、人魚は奥さまの小間使いの仕事をするのではないのですか」
「わたくしは気晴らしの相手がほしいだけ。人魚は異国の娘なのでしょう?」
不意に、黒い手袋に包まれた貴婦人の手が、ルビーの頭に伸び、その髪を撫でた。
びっくりして見返すルビーに、貴婦人は微笑みかけた。
「わたくしも赤い髪のものを何人か知っているけれども、こんなに燃えるような見事な赤は初めて。珍しい話を聞かせてちょうだいね、人魚。見世物小屋での出来事も、いろいろ聞きたいわ」
貴婦人の言葉に、座長は再びぎょっとした顔になる。
人魚を水槽に閉じ込めて、あわや溺れさせるところだったことが、彼はやましいのだ。ルビーが話せば、それは外部の人間の知るところになる。
しかし彼はすばやく気を取り直した様子で、満面の笑を浮かべた。
「奥さまがそれでよろしければ、いかようにも」
副座長とともに勧められた椅子に腰をおろしながら、座長は前かがみになって切り出した。
「では、譲渡契約の話に移らせていただきたいのですが」
「今後、見世物小屋に通うことになるのなら、契約に人魚も立ち会った方がいいわね」
貴婦人の一言で、ルビーはそのまま売買契約の場に同席することになった。
直接の対話交渉は、副座長と執事の間で執り行われた。
貴婦人側が開示を要求したため、夏の初めにルビーが見世物小屋に売られてきたときの金額を記した帳簿を、経理係が執事に渡す。
確認の上、金額が話し合われた。
そののち、細かな条件について取り決めがなされる。
貴婦人側に譲渡後、軽業の修業のため通わせるので、一座はそれを受け入れること。
一人前の軽業を習得したのち、正当な契約による給料の支払いをすること。
万一人魚が、人間からもとの人魚に変身してしまった場合も、一度譲渡した権利を見世物一座側は主張しないこと。
一方、一座側からも条件が提示された。
軽業修業中もしくは契約による興行中に起こるかもしれない万一の落下事故及びその他の事故による怪我や死亡において、貴婦人側は医療費や賠償金等を一切請求しないこと。
契約は滞りなく終了し、馬車を駆って見世物小屋の人たちは帰ってしまった。
ルビーはぽつねんと、取り残された。