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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[一] 怪物の島と南の国 
16/110

16 伝えたい気持ち

 足音に振り向いたロクサムは、心底びっくりしたという顔になる。

「しっ、仕事は、いいの?」

 ロクサムは、ルビーがここにやってきたばかりの頃のようにおどおどとルビーを見た。

「慣れないと、たっ、大変なんじゃない?」


「失敗して叱られてばかりよ」

 ルビーは微笑んだ。

「でも、何もできずにいるよりずっといいわ。尻尾が足になって動けるようになったから、ロクサムの仕事を手伝おうと思ってたのに、自分が言いつけられた用事で今のところいっぱいいっぱい。でも、もっと手際よくこなせるようになったら、手伝いに来るね」


「とっ、とっ、とととっ、とんでもない」

 ロクサムはゴミを持った手をぶんぶんと横に振った。

「しっ、心配してたんだ。洗濯女が、あんたのこと、いじめてやる、って言ってたから」

「平気」

 思い当たる節が2、3なくはなかったが、どれも流せるようなささやかな嫌がらせでしかなかった。


 2日目、洗濯を干すやり方を教えるからついて来いと言われ、洗い上がった荷物をかごいっぱいに入れて運んでいるときに、足を引っ掛けられて転ばされ、洗濯のやり直しを余儀なくされた。自分から足を出したことは知らん顔で、なんて鈍臭い子なんだろうと、文句を言われ、叱られた。

 また、最初の日も、次の日も、その次の日も、衣類の洗い上がりにいちゃもんをつけられて、洗濯のやりなおしを何度も命ぜられた。どんなに気をつけて洗っても、洗濯女は必ずいちゃもんをつけてくる。

 しかしルビーが途中で舞姫に呼び出されて行ってしまうため、最後は結局洗濯女が洗う羽目になった。そうでなくとも、ここ見世物小屋での仕事はどれも忙しく、ルビーへの嫌がらせの度が過ぎれば仕事の効率は落ち、結果自分に跳ね返ってくるのだ。


「おいら、ひどい勘違いしてたんだ。尻尾がなくなって、あんたが苦労するとか思ってなかったから……」

「別に苦労なんかしてないわ。ただ、ロクサムと話せる時間が全然取れなくて、どうしようって思ってたけど」

「なんで人魚さ……人魚は、おいらなんかと、話したいの?」

 人魚さん。危うくそう言いかけて、ロクサムは言い直した。

「なんでって、ロクサムこそ、どうしてそんなこと聞くの? あたしたち友だちでしょ?」


「けど、おいらはもう、あんたにしてあげられることは何もないよ。あんたは自分でどこにでも行けるから、トンボやチョウチョを取って来て見せる必要もないし、話し相手だって、別においらと話さなくたって好きな相手を選べるし。

 それに、おっ、おいら、座長がおいらに水を用意するように言って、あんたを水槽に閉じ込めたときも、何も助けてあげられなかった。ただ見てただけで」


「うん」

 ルビーはゴミの燃える大きな火の方を向いて、ロクサムの隣に、腰を下ろした。

 夏だったから火のそばは恐ろしく熱い。

 ゴミ焼きは煙の臭いが立ち込めるため、休演日にしかできなかったから、全部燃やすのに結構な時間がかかってしまう。

「あのね。ロクサムがそのことを気にしてたのは、あたし知ってる」


 水槽の周りを形相を変えてぐるぐるしていたロクサム。

 水槽の方を見ようとしなかったナイフ投げ。


 でも、彼らの惑いも苦しみも、ルビーを、自分以外のだれかを助けたいと思ってしまったことに端を発していて。

 そんなことを考えてもみなかった人たちだって、まわりには幾らでもいたのに。

 あのときルビーを見ていたのはたくさんの人たちだったから、ロクサムとナイフ投げだけが自分を責めて落ち込んでいることに、ルビーは違和感というか、妙な居心地の悪さを覚えてしまう。


「でも、あたしは──」

 口を開きかけて、ルビーは黙り込む。

 あの日ゾウのエサを運んでいるロクサムを呼び止めたときの、よそよそしいロクサムの態度が納得できなかった。だから、どうしてなのか聞きたかった。

 水槽の中からロクサムを見たとき、本当に、心底彼がルビーを心配してくれているのがわかった。少なくとも、嫌われているわけではないと思った。だからホッとしたし、嬉しかった。

 何をどう言えばいいんだろう。


「ロクサムは、もしあたしが死んじゃってたら、悲しかった?」

 黙々とゴミを火に放り込んでいたロクサムは振り向いた。

「……うん。人魚さんが……人魚が死んでしまったら、おいら悲しい」

「ありがと。多分そうかなあ、と水の中からロクサムを見てて思ってた。そう思ってくれてるんだってわかったから、あたしにはその気持ちだけでよかったの」


「けど、おいら、人魚がまたあんな目に遭っても、きっとおいらじゃ助けてあげられない。おいらじゃ何の役にもたたないよ」

 曲がった背中をますます丸め、がっくりと肩を落としながら、ロクサムは弱々しい声になる。


 火を眺めながらルビーは、つぶやくともなく小さな声で言った。

「あのね、ロクサム。あたしもそうなの。大切なお友達が死んでしまったの。あたし、何度も振り返って、そのお友達のことを助けられたかもしれない場面までさかのぼって思い返してしまうの。でも、何度思い返しても、そのとき、どうやったらあたしにそれができてたのかが、今でも全然わかんない」


 死んでしまったアシュレイを思いながら、ルビーは膝を抱えた。

 アシュレイのことは、ルビーが水槽の中に閉じ込められていたときのこととも事情が違う。

 あのときアシュレイを助ける鍵を握っているのは、自分だけだったのだから。アシュレイの行動に責任を負っていたのも。

 ルビーがあんな場所まで連れてきていなければ。海のあんな浅くで待っているように言わなければ。考えたって仕方ないと思いながらも、もしもあのとき違う判断をしていたら、もしも違う行動をしていたらと、ルビーは考えずにはいられない。


 アシュレイのことは、これから先もこうやって、何度も何度も思い出すのだろう。

 そして、船の上から海に飛び込んだルビーがアシュレイに最後に投げつけた、不用意で無神経なあの命令の言葉を、きっと何度も後悔するのだ。


「とっ、友だちが死んじゃったの?」

 顔を上げると、泣きそうな顔のロクサムの視線とぶつかった。

「助けたいのに、助けられなくて死んじゃったの?」

「うん……」

 何の説明もしていないのに、ロクサムが自分のことのように悲しんでくれているのが伝わってきて、なぜかしらルビーはそれにとても慰められた。


「ねえ、ロクサム。(おか)に連れて来られて、怪我をして心細かったときに、そばにいてくれたのはロクサムよ。でも、多分それだけじゃないの。そばにいてくれるならだれでもいいってわけじゃなかったと思う」

 しゃれた言葉の一つも言えない素朴なこぶ男の、不器用で一生懸命な態度の一つ一つに、ルビーはずいぶんと慰められてきたのだ。


 ほんの少し前、捕まえたトンボを秋の空に放つときのロクサムの手の動きを、ルビーは思い出す。繊細な羽根を傷つけないように細心の注意を払って、彼は持ち込んだトンボを指の間から解き放った。

 ここよりもさらに南の大きな大陸の向こうの常夏の国から連れて来られたというゾウが見世物小屋で元気なのも、きっとロクサムが一生懸命世話をしているからだろうと、ルビーは思う。


「あたし、ここに来て、ロクサムに会えてよかった」

 戸惑ったようにロクサムがルビーを見る。

 どうしよう。唐突過ぎただろうか。口に出したのは本当のことだけど、何かもっとほかの言い方があるような気がする。


「あなたがいて、あたしの話を聞いてくれて、静かにあたしの気持ちに寄り添ってくれるのをいつでも感じていたから、あたしはすごく助けられたのよ。世話をしてもらったからじゃないの。──もちろんすごく面倒をかけたのも本当だけど」

 どんなに疲れているときも、ロクサムは新鮮な水をルビーのもとに運び、ルビーの傷を労わった。仕事が増えたことに対しての文句もやつあたりも一切なかった。

 そのことを思い出して、ルビーは最後にちょっとそう言い加えた。


 4日間下働きの仕事を続けてみて、ルビーはロクサムの大変さが身にしみていた。身体を動かすのは新鮮だったし新しい仕事を覚えるのは面白くもあったけれども、これが何ヶ月も、何年も続くことを考えたら話は別だ。

 ましてロクサムには、食事につきあわせると称して体よく休みを取らせてくれる舞姫のような人もいない。


 ここではだれ一人として自分の本当の名前を呼ばない、こぶ男としか呼ばないのだと、ロクサムは言った。

 だれにも顧みられることなく暮らしていくことは悲しいことだ。

 海の底で、心配症の口うるさいお姉さま方に囲まれて暮らしていたときは、ルビーはそんなことは考えてみたこともなかった。そんな風に生きていくしかない人がいることなど、想像をしてみたことすらなかったのだ。

 たとえこれまでのロクサムの半生がそうだったとしても、それはロクサムに価値がないということではないとルビーは思う。

 でも、ずっとだれにも顧みられないで暮らしていて、どうやって自分の価値を知ることができるんだろう。

 こちらを見るロクサムの表情からは、ルビーがどうして自分に構うのかを全然理解できていない様子が見て取れた。


「あたし、ロクサムが大切なの。とてもとても大切なの。だから、あたしが歩けるようになったからって、もう要らなくなるみたいな、悲しいことは言わないで。あたし、ロクサムがいたからここでやっていけると思ったのよ。本当よ」


 何かを伝えるということは、なんて大変で難しいことなんだろう。

 ロクサムのやぶにらみ気味の小さな目がどこか悲しげにこちらを見ているのを見上げながら、どれだけ伝わるのかもよくわからないまま、ルビーは訴えた。

※こぶ男のこぶとは脊椎後湾、英語でいうところのhunchbackです。

日本語にも該当する単語がありますが、作品中では使っていません。

偏見を助長させる意味合いを含んでいると聞いたので、あえて避けました。

差し障りのない表現では、猫背男、という言い方もできるみたいです。

ただ、先入観かもしれませんが、猫背の人は高身長の人に多いイメージがあり、小柄なこぶ男のイメージにそぐわない気がして使いませんでした。(2012.12.28)

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