14 大天井の綱渡り
真夜中の大ホールはがらんとしていて、だだっ広かった。
明かり取りの窓から差し込む月光が天井に反射して広がり、ぼんやりと青くホールの床全体を照らし出している。
壁に取り付けてある梯子の1段目は、ルビーの背の高さよりも高く、つま先立ちでぎりぎり届くぐらいのところから始まっている。手を伸ばしてつかまってみたが、ルビーの腕の力では、その高さまで身体を持ち上げることができない。
ブランコ乗りが先に梯子に登ってから、手を下に伸ばしてルビーを引っぱり上げてくれた。その先は普通の梯子の間隔になっていたから、手足を使って自分一人で登っていけた。
ルビーのあとに、ナイフ投げと舞姫も続く。
ナイフ投げは逞しい腕で梯子に飛びついたあと、難なくするすると登ってくる。
一見ほっそりとした舞姫も、両手で身体を支えたあとさかさまになって、梯子の一番下の段に足をかけたかと思うと、その片足を起点にして、だれの力も借りずに器用に身体全体を持ち上げた。
天井のあたりは下から見たときも十分な高さに思えたが、上から見下ろすとそこは恐ろしいほどの高度だった。客席がおもちゃみたいに小さく見える。
この高さの崖の上に登るときは、ルビーは必ず蔓などを使って命綱をつくってから登っていた。木登りをするときもそうだ。
ルビーは木登りが好きだった。木の幹をぐるりと囲むことのできる大きさの輪っかを二つ用意して、それを命綱として交互に使って、少しずつ登っていくのだ。最初はきこりが大きな木の枝を整えるときに登っていくやり方を見て真似たものだったが、何度か試してみて、独学で上達した。
丸く削って磨いた木でできた梯子はつかまりやすかったから、簡単に手を滑らせたりはしなさそうだったけど、つるりとして垂直な壁に埋め込まれた人工物伝いに登っていくのは、大木や岩場をよじ登るのとはまた別の恐怖感を伴う。
生きている木と違って、または自然の大岩とも違っていて、人の手で切りだされた人工物は、ある日突然何の予告もなく割れてしまうかもしれない。
「意外と身軽なんだね、赤毛ちゃん」
天井の壁づたいに打ちつけてある梁の上に立ち、振り返ったブランコ乗りは感心したようにルビーを見た。
ブランコ乗りは、相変わらずルビーを赤毛ちゃんと呼んでいた。そう呼ばれることが不快だと重ねて告げるべきどうかをルビーは少々迷ったが、あえて黙殺することにした。
ナイフ投げも感心したように言った。
「初めて登ったにしては梯子を登るのも素早いし、足取りもしっかりしてて危なげないな」
「ナイフ投げや舞姫も、ここにはよく来るの?」
ナイフ投げは頷いた。
「しょっちゅうではなく、たまにだが。客もだれもいない真夜中とかに、気が向いたら」
「ねえハル、あれやって見せてよ」
後ろから続く舞姫の声が、少しはしゃいでいる。
「綱渡りしながらのナイフのジャグリング」
天井の梁と梁の間に、1本のロープがピンと張られている。ロープは太めで人の重みを支えられる程度には丈夫そうだったが、どう見ても安定した足場といえるようなしろものではない。どうやら舞姫は、そこを渡りながらナイフ投げの技をやって見せろと言っているらしかった。
ナイフ投げは舞姫の方を向いてうやうやしく一礼したかと思うと、ひょいとロープに片足を乗せ、どうということもないといった様子で渡り始めた。真ん中あたりで再び足を止め、片足を上げ片方の足だけをロープに乗せた状態で、腰の革袋から薄いナイフを取り出しカードのように広げて見せる。
そのまま彼は、ナイフを次々に宙に放った。ナイフは放物線を描いてくるくると、彼の手の中を回り始める。
くるくるとナイフを手で回しながら、再びナイフ投げはゆっくりとロープの上を歩き始めた。
驚きのあまりぽかんと口を開けて見とれるルビーに、舞姫は笑いかけた。
「すごいだろ。でもハルは客の前では絶対やらないんだ。客席にナイフが飛んでいったら悪くすると大惨事だからね」
ナイフは何度かくるくると宙を舞ったあと、次々とナイフ投げの手の中におさまった。ナイフを綺麗に重ねて革袋にしまうと、ナイフ投げは言った。
「座長にも見せたことはない。見せたらやれと言われるのは間違いないからな」
「ナイフが危険だと? ならナイフではなくリンゴでやればいいだろう……とか言いそうだよ、あの人」
半分座長の口真似を混ぜながら、ブランコ乗りも言った。
「そして途中で、やっぱりリンゴじゃ迫力出ないからナイフにしよう、とか言い出すんだ」
「言いそう、言いそう、ほんとそんな感じ」
そう賛同しつつ、舞姫はくすくす笑っていたが、ふと真顔になって、ルビーを振り返った。
「ねえ人魚。殺されそうになったばっかりのあんたにこんなこと言うのもどうかと思うけど、あれで座長はそんな最悪な主人ってわけじゃない。金の亡者だけど、それって、ある意味こういう施設を保っていくためには必要なことだとも思うし。第一、考えてることをわりとすぐに口に出すからわかりやすいし、腹黒くないっていうの? 時々威張るけど、威張るだけで、根に持つタイプじゃないし」
目を丸くして黙って聞いているルビーに、ブランコ乗りが説明を加える。
「座長がいい人だって話をしているわけじゃないんだよ。彼女が言っているのは、座長のすることには対策が立てやすいって意味だと思う」
「それもあるけど、やっぱ比較的マシな方だとあたしは思うよ。なんていうか、つまり人買いの顧客になるような連中の中では。ってやっぱり比較対象が悪いか」
「とっとと逃げ出す方が利口だと、ぼくは思うんだけどな」
ナイフ投げが綱渡りを終えたばかりのロープに両足を揃えて乗って、ロープをゆらゆらさせながら、ブランコ乗りは下を見おろした。
「もう一度聞くけど、赤毛ちゃん、本当に軽業を習いたいの?」
ルビーも梁の縁にしゃがんで、下を見おろした。
ルビーは12歳のときから時々人魚の海を抜け出して陸に上がり、海辺の町を探索してきたから、少しは人間のことを知っているつもりだった。
けれども外側から彼らの生活を眺めるだけなのと、こうやって人間の中に入って直接会話を交わしたり、その表情から細かい心の動きを読みとろうとすることは、全然違うことなのだと、今は思う。
うつろな空間の底に広がる暗がりの中に、四角い椅子がひな壇になって規則的に並んで、中央の舞台をぐるりと取り囲んでいる。今はだれもいないホールの客席が、出し物のときには熱気の渦に包まれる。半日前、確かにルビーもその中にいたのだ。
何を思ってあのお客さんたちは、危険極まりない見世物に熱狂するんだろう。
蓋をされた水槽の中に閉じ込められたとき、周囲に集まってこちらを見る人たちの表情の中に、ルビーは確かに暗い期待のようなものを感じていた。
天井の高さを見上げる人たちの眼差しにも、似たものが混じっているのかもしれない。それは確信めいた予感だった。
ルビーはそれを、天井に近いこの場所からもう一度確認したいのかもしれない。
「いいけど、一つ条件がある」
ブランコ乗りはロープの上でぐるっと身体を倒し、片足の甲だけをロープに引っかけた不安定極まりない宙ぶらりんの状態でさかさまになって、ルビーを見上げた。
「きみが自由の身になるまでは、興行として観客の前には立たないって約束してくれたら、教えてもいい」
「どうして?」
「どれだけ鍛錬を積んでも、好調なときもあれば不調なときもあるのが人間だから。いまのままだと、たとえば風邪を引いていたとしても、その日出演するしないを自分の都合で決められない」
「それだと、この先演目には絶対出られないってことにならない?」
さっきナイフ投げがルビーに説明したばかりだった。この見世物小屋では買われてきた人間には給料は出ない。だから、自分でお金を貯めて自由を買い取るなどというのは、夢の夢だと。
「その可能性もあるね」
「それは嫌」
「それは困った。ぼくもそれだけは譲れない」
「教えてくれるって言ったわ」
「ああ、言った。うかつにも。言ったから、どうしてもときみが言うなら指導するよ。でも、舞台に立つための許可を出す条件は、十分に上達するだけでなく、きみが自由になって独立すること。考えておいてくれ」
ルビーは不満だったが、どう言えばブランコ乗りを説得できるのかはわからなかった。
舞姫も、ナイフ投げも何も言わなかった。
さかさまの状態から振りをつけてくるりと半回転し、ブランコ乗りは再び片足をロープに乗せて立ち、皆を促した。
「暗くなる前に降りよう。もうじき月が沈む」