12 ナイフ投げの相談
コンコン、とノックの音がした。
「レイラ、まだ起きているか? おれだ。開けてくれ」
ナイフ投げの声だった。
舞姫がドアを開けると、ナイフ投げの後ろにブランコ乗りもいた。
二人は静かにドアを閉めて部屋に入ってきた。それから片方は背もたれのない小さな木の椅子に、もう片方は直接石の床の上に、それぞれ腰を下ろした。
ブランコ乗りは一度外に出て来たらしく、幾品かの食料と飲み物、それに果物の入った袋を持参してきていた。
夜中にそんなもの持ち込んであたしを太らす気? と舞姫は最初は夜食を拒否していたが、ナイフ投げが小さなナイフを取り出してリンゴの皮をするする剥いて切り分けると、寄こしな、と言って皿をぶんどった。
ナイフ投げはルビーにも果物の皮を剥いてくれた。
「人魚。あんたは奴隷の識別番号を知っているか?」
果物の汁を布でぬぐったあと、ナイフをたたんで懐にしまうと、いきなりナイフ投げは、そう話を切り出した。
「奴隷?」
耳に慣れない言葉に、ルビーは戸惑って顔を上げた。
「ああ。ここでは直接表現を避けて、買い取り組とか、買い取り人材といった言い方をされているな。奴隷というのは金で買われた人間を表わす言葉だ。ここに来る前あんたがいたという北の国にはなかったか?」
聞かれてルビーは無言でかぶりを振った。
「識別番号は直接皮膚に彫られることが多いが、チョーカーやアームレットなどの装身具に刻まれてつけられることもある。この場合大抵は掛け金に鍵がかかるようになっていて、鍵を奴隷の持ち主が持つことになる。
だが、これは細工が面倒だから金がかかる。だから一部の貴族や金持ちなどが、どうしても奴隷の肌に傷をつけたくない場合ぐらいしかやらない。……それでだな、おれはあんたの足首の装身具に、識別番号が刻まれているかどうかが知りたいんだが」
ナイフ投げはどちらかというと普段から無口な男だった。こんなにまとめてたくさんの言葉を話すところを初めて見たから、ちょっとびっくりして聞いていたルビーだったが、そう尋ねられて、もう一度首を振る。
「鍵穴どころか留め金も何もないし、表面はつるつるしていて、文字や模様のようなものは何もないわ。それにあたしが尻尾から足に変化したせいで、それに合わせて大きさや形が前とは変わってしまってるの」
「形状が変化したことについては、ひとまずここでは置いてくれ。ではそれは登録のためにつけられたものじゃないってことだな。念のため、もうひとつ聞くが、身体のどこかに直接番号が彫られてるとかいうことはないよな?」
「直接彫るって、どうやって?」
「おもにタトゥーと焼印だね。どっちのやり方が取られるかは、半分半分ぐらいじゃないかな」
そう答えたのは舞姫だった。
ナイフ投げは頷き、説明を添える。
「タトゥーの場合は国の頭文字、市の頭文字、それに4ケタの数字の合わせて六文字が刻まれる。焼印の場合は省略されて、頭文字は登録する市のものだけで、数字は下2ケタだけになる。登記庁に登録に行くときに戸籍と照合するか、戸籍がない場合でも、身長や目や髪の色や年齢などの特徴を一緒に登録するから、省略されていても、これまで問題が起こったという話は聞かない」
少し困ってルビーは目の前の3人を見回した。
タトゥー。焼印。登記庁。戸籍。
ナイフ投げの説明は聞きなれない言葉のオンパレードで、何をどこからどう質問していいのかわからなくなってしまったからだ。
仕方がないので、少し考えてルビーはこう答えた。
「たぶん、ないと思う。知らないうちに、その番号?をどこかにつけられてるんじゃなかったら」
「知らないうちにってのは無理だよ」
舞姫は笑った。
「どっちもすごく痛いから」
「認識番号は通常右の肩につけられる」
言いながらナイフ投げは自分の服の、右肩部分をめくって見せた。
浅黒い皮膚の一部が、焼け焦げて変色した三つの文字の形に窪んでいるのが見て取れた。遠目にはわからないその小さな傷痕は、見事に鍛えられた背筋から肩にかけての筋肉の完璧な造形美を損なっているようにも思えた。
ナイフ投げは言い添えた。
「これは焼印によるものだが」
「で、こっちはタトゥー。あたしのはただの趣味で、認識番号じゃないけどね」
舞姫は自分の髪をかきあげて、左の耳の後ろ側に刻まれた彫りものの絵をルビーに見せた。小さな青い鳥が、耳の後ろで真っ青な羽根を広げていた。
「人魚はタトゥーも知らないのかい? 噂だけど北の国の人たちにもタトゥーを入れる習慣があるって聞いたことあるけどさ」
やっぱりルビーはかぶりを振ることしかできない。
「ここにもあるけど───」
と、舞姫は自分の下腹部のショートパンツで隠れた部分を親指でトンと叩き、目を丸くするルビーにいたずらっぽく笑いかけた。
「あとで男どもが帰ったら見せてあげるね。こっちは青いペガサスだよ。これも翼を広げてこれから飛ぶところなんだ。タトゥーっていうのは専用の塗料を使って皮膚の奥の方にまで色を刺し込んでいくんだよ。人気のある彫師は予約でいっぱいで、中には半年待ちなんてのもある」
「レイラ、あんたの趣味の話はあとにしてくれ。本題に戻るぞ」
ナイフ投げが、ややぶっきらぼうに、舞姫の話を遮った。
「人魚、あんたが人買いから買われてきたにもかかわらず、認識番号がどこにもない理由として、二つの可能性が考えられる。
その一つ目は、あんたの姿があまりにも特徴的だから、改めて印をつける必要がないと考えられていた可能性だ。この場合は、登記庁に行けば、番号自体は尻尾などのあんたの身体的特徴とともに届け出されているということになる。
もう一つの可能性だが、あんたが人間でない別の生き物とみなされて、登記そのものがなされていないということもあり得る。例えば犬や猫などの他の動物が登記できないのと同じ理由だ」
「二つのケースについて比較したら、どっちの場合だった方がやっかいなの?」
「どちらも同じくやっかいだ」
舞姫が投げかけた質問に、仏頂面でナイフ投げはそう答えた。
「もちろん座長がそのことに気づかなければ問題ないんだが、座長の性格からしてそれはない。つまり問題はだな、これから登録に行くのか、あらかじめ登録してあるかについてはわからんが、座長はこれからあんた自身にも番号をつける必要性について思いつくだろうってことだ」
そこでナイフ投げは言葉を切って、ブランコ乗りを振り返った。
「おい、アート。おまえもだんまりを決め込んでないで、なんか言え」
「あんたの話を聞いてるんだ」
さっきからずっと考え込む顔で黙り込んでいたブランコ乗りは、顔を上げて短くそう答えた。
ナイフ投げはため息をついた。
「しゃべりは苦手だ。うまくまとめられない」
「話を続けて、ハル」
舞姫が促した。
「わかんないことがあったら聞き返すよ。つまりさ、座長は早ければ明日の朝にでも彫師のところへ人魚を連れていくんじゃないかってことだね」
ナイフ投げは頷いた。
「彫師のところか焼印で済ますかわからんが、登記済みならその可能性がある。もし未登記なら登記してからになるから何日かは余裕があるが」
「確かに数日余裕があったところで、さほどマシだとも思えないね」
舞姫は難しい顔になって、腕組みをした。
「ていうか座長はケチだから、絶対焼印で済まそうとするよ。タトゥーだと費用が10倍以上違うだろう。市場に連れて行って人魚を売る気まんまんだったときだったらわからないけど、このまま見世物小屋で働かせる気なら、服で隠れる部分に焼きゴテのあとが残ろうが関係ないと思いそうだね。まあタトゥーだからマシだってもんでもないだろうけどさ。少なくとも見た目はだいぶマシなんだよね」
「その番号って、あたし以外の、買われてここにきた人たちは、みんな持ってるの?」
「鳥女などの特徴的な外見のものは、恐らくだが、登録だけだろう。だが、そういう特殊な場合を除けば、番号は皮膚に直接刻まれている場合がほとんどだ。昔からの習慣だったし、今じゃ逃亡や盗難を防ぐためのほかに、逆に自分で自分を買い取って自由の身になったときにそれを保障するための意味もあるんだ」
「自分で自分を買い取ることができるの?」
ナイフ投げは頷いた。
「できる。カルナーナの統治者が今の首相になってから、奴隷の自由化促進に関する法整備が進められたんだ。8年前に職種ごとの最低賃金が規定されたのに合わせて、自由民の被雇用者に支払われる給与から換算して、最低でもその10分の1は持ち主から奴隷に支払われることが義務づけられた。でもここではその法律は守られていない。あんたも知っていると思うが、ここでは買い取り組には給料は支払われない」
「どうして守られないの?」
そう疑問を口にしながらも、ルビーはカルナーナの統治者と呼ばれる男を思い出していた。
ルビーを捕えて船に乗せた、あの太った男だ。柔和にも見える満面の笑顔と、それにそぐわない鋭さを秘めた目つきを、ルビーは思い出した。風をあやつるルビーの術を、こともなげに封じたことも。
もう会うこともないだろうが、魔法に詳しい彼ならば、ルビーのアンクレットの意味を知っているのかもしれないという思いが、ふと頭をかすめる。
「見世物小屋で呼び込みや大道具など裏方の仕事をしているものたちは、住み込みで基本ただ働き同然だ。額面上の給料は存在しても宿代やら食事代やらと称して天引きされるから何も残らない。まして奴隷に支払う給料などないというわけだ。だからここにいる限り、何年働こうが大きな舞台で大トリを努めようが、自由の身になる日はいつまでたっても来ない」
「だから、簡単に言うとね」
今まで黙っていたブランコ乗りが、最後に短く話をまとめる。
「きみがここから逃げ出すなら、登録されてないか登録が不完全な今のうちだってことだよ」