107 ワルシュティン卿
気づくとルビーは人魚の姿で波の間に浮かんでいた。
さっきアシュレイが飲み込んだはずのロクサムの指が、波にさらわれゆっくりと運ばれて目の前から遠ざかる。
船の舳先に怪物が座っていた。
怪物はもう、遠ざかっていくロクサムの指を追おうとはせず、彫像のようにじっとしたままこちらを見ている。
と、不意に低く身をかがめ、そろりと一歩、前足を伸ばす。そのまま中空に躍り出たかと思うと、バサリ、と漆黒の翼を大きく広げて滑空し、ルビーに襲い掛かってきた。
大きな鉤爪でルビーをつかもうと、両足を広げながら急降下してくる。
ルビーはとっさに海に潜る。しばらく泳いで水の中から上を見上げると、波の向こうの薄暗い空を、怪物がばたばたと暴れまわっているのが見えた。
海の中まで追ってくる気はないらしい。
ぐおおおおおおおう。
怪物の咆哮が、水のせいですこしぐくもってルビーの耳に届いた。
ルビーは少しだけ、波の間から顔を出してみた。
怪物が飛び回っているのはルビーを探してというわけではなく、なぜか無意味に上がったり下がったりしていたように見えたからだ。
ぐあおおおおおおおおうっ。
怪物の咆哮はライオンに似ていたが、もっと低くてまるで地の底から響いてくるような恐ろしい声だ。
だが、ルビーが波の間から頭をのぞかせても、怪物はまるでそれどころではないように空中を乱高下しながら暴れまわっている。
ルビーの真上から、再び怪物の声が降ってきた。
「うわああああああああああ」
くぐもっていたが、先ほどの咆哮とは違う。なにか人の叫び声のようにも聞こえる。
ルビーは耳をすませた。
うなる風の音にまぎれて、意味を持った言葉がルビーの耳に届いた。
「駄目だ。駄目だっ。おいらが人魚を傷つけるなんて、絶対に駄目なんだぁ……」
怪物はバタバタとせわしなく翼をはためかせ、ぐるぐるとまわりながら空を動き回っている。
「ロクサム?」
ルビーは荒れる波から身を乗り出す。
「ロクサムなの?」
再び咆哮とも叫び声ともつかない声が響き渡ったが、ルビーはもうそれどころではなかった。
「そこにいるの? ロクサム? 返事をして!」
「逃げてっ、人魚っ、早く逃げてえええっ」
怪物はそう叫んだかと思うと、次にはもう獣の咆哮を響かせる。
暴れまわるのをやめたかとおもうと、突き出した目がぎょろりと目が動いた。
怪物は、波の間に浮かぶルビーの姿をとらえると、再び急降下した。
が、今回もルビーをつかむことなく横に逸れて波にぶつかり、そのまま体を反転させて急上昇する。
そして広げた翼を動かしながらホバリングを始めた。
「ロクサム!」
ルビーはもう一度呼んだ。
「ロクサムなのね」
「人魚」
ライオンの姿が変化した巨大な姿の真っ黒な怪物は、恐ろしげなぎょろぎょろの目でルビーを見下ろした。
「今度こそ、ほんとうにお別れだ」
悲しげな声で、怪物の姿のロクサムは言った。
「おいら、あんたが襲われるのは嫌だから、絶対それだけは嫌だから、それだけは絶対に、絶対にそんなことさせない。でも、おいら、そんなに力がないから、このままだときっと、おいらを食った、この変な魔物の力に負けて、いなくなってしまう。そうなる前に、おいら、遠くに行くから。あんたのいない、遠い遠いところに行くから。この怪物が悪いことをできないように、ひたすら遠くへいくから」
「待ってよ、ロクサム。遠くって、一体どこへ行くつもりなのよ」
「だから、人魚はその間に逃げて。おいらがこの身体を動かすことができるうちに。この魔物を倒すことのできる人を、探してきて」
広げた翼がバサリと大きな音を立てる。
ルビーは大きな声でもう一度ロクサムの名前を呼んだが、怪物はもう振り返ることもなく、雨の中を羽ばたいて飛び去った。
「ロクサムのばかっ!」
荒れ狂う海に揺られながらルビーは、悲しい悲しい悲しい思いが溢れてきて、どうしようもなかった。
一緒に行こうと言ったのに。
ロクサムの心はルビーの申し出を拒絶して、ロクサムを食べてしまったあの怪物の中に入ってしまった。
だけど姿が怪物でも、あれがロクサムならば、ルビーと一緒にいられるではないか。
なのにロクサムは、やがて自分はいなくなってしまうだろうと、それはもう決まってしまったことのように言うのだ。あの怪物の中の、大きな力に呑まれて消えてしまうだろうと。
怪物と一体化してしまったロクサムは、ルビーの名前を呼ばず、人魚とだけ言っていた。彼はこんなときでさえ、ルビーと交わした約束を守って、ほかの人に聞こえるかもしれない場所ではその名前を口にしないでいてくれた。
そんな風にロクサムがルビーを大切に思ってくれていることが、かえって悲しくどうしようもなく腹立たしい。
甲板には猛獣使いが出てきている。だけど彼はいまぼんやりと立っているだけのように見えたし、激しい雨と打ちつける波の音にかき消されて、ルビーやロクサムの声は届かないのではないかとルビーは思う。
灰色の波がざぶざぶと揺れている。風はごうごうと吹き荒れ、幾層にも空を覆う濃い灰色の雲はめまぐるしく形を変えながら流れていく。
ただ波間に浮かんだまま、ロクサムが消えていった虚空を見上げていたルビーは、ふと顔を上げた。
「おうい。おまえ、人魚じゃないかあ」
甲板の上から呼ぶ声がした。猛獣使いだ。
まるで荒れ狂う空と同じような気持ちでロクサムの消えた虚空を見上げていたルビーは、口を堅く引き結んだまま振り返った。
「なんでこんなところにいるんだあ。いま縄梯子を降ろすから、待ってろよお」
さっきまでぼんやりしていたはずの猛獣使いは意識を取り戻し、波間に浮かぶルビーの姿に気づいたらしかった。
ルビーは波の中で、赤い尻尾を持つ人魚の姿から、すんなりとした2本の足を持つ人間の娘の姿に変わる。
一度人魚の姿になってしまうと靴や下履きがどこかになくなってしまうから、いまのルビーはまた裸足になってしまっていた。
アシュレイの姿に変わっているときは、ルビーの身に着けているものには影響なかったみたいなのに。
ルビーの中にいても、ルビーと混ざってしまっていても、アシュレイはアシュレイだからだろうか?
アシュレイのこと、ロクサムのこと。憂鬱な物思いに囚われながらもルビーは縄梯子をよじのぼった。
人間の姿に戻ったルビーを船の上に引き上げてくれたあと、猛獣使いは溜息をついた。
「なんだっておれはこんな豪雨の中、甲板に出てくる気になったんだろう。気づいたらこんなところにまで出てきてずぶぬれになっちまった。ひょっとしておまえ、人ならぬ声で、海の中から呼んだんじゃないのか?」
見世物小屋の連中は、ルビーの人魚としての姿を知っている。だからルビーが海を泳いでやってきても不思議ではなく、怪しげな術で呼びかけることがあるかもしれないと思っているようだった。
ルビーは猛獣使いが好きではない。いつもロクサムを苛めたり、馬鹿にしたりして、偉そうにしていたからだ。ルビーは顎をつんとあげた。
「猛獣使いは覚えてないのね。さっきライオンを檻から出してきて、ロクサムにけしかけていたのに」
「馬鹿を言っちゃいけない」
猛獣使いはあきれた顔になる。
「なんでおれがそんなことをせにゃならん」
「嘘だと思うなら、ライオンがまだ檻にいるかどうか確かめてみたら?」
「あのな、人魚。そんなこと、おれがするわけがないだろうが。そりゃ、こぶ男は船に乗ってからこっち、寝てばかりで全く仕事をしてねえから、いっそ食われちまえばせいせいするとは思うぜ。だが、そんなことしちまうと、おれは自分の首を絞めることになっちまうんだ。こぶ男には早くよくなってもらって動物のえさやりに戻ってもらわないと、おれが面倒くさくてかなわん」
こぶ男はロクサムの通称だ。ルビーはロクサムをちゃんと名前で呼ぶことにしていたが、猛獣使いはほかのみんなと同じで、ロクサムのことをこぶ男としか呼ばない。
けれどもルビーはいまはそのことには触れず、猛獣使いの目をじっと覗き込んだ。嘘を言っている感じではない。やはり猛獣使いは、さっきまでの出来事を何も覚えていないのだ。
「だけど、本当のことだもの。ライオンが恐ろしい化け物に姿を変えて、ロクサムを襲ったのよ。ロクサムは頭からバリバリと食べられてしまったわ」
さっきの出来事を思い出して、ルビーの胸はひどく痛んだ。
あの真っ黒な怪物の大きなギザギザの歯がロクサムを噛み砕いたのだ。噛み千切られて飲み込まれるのはきっと、痛かっただろう。苦しかっただろう。悔しかっただろう。
なのにロクサムは、すべての運命を受け入れた顔をして、ルビーと会えたことで全部報われたとまで考えて、自分からその化け物の中に行ってしまって、ルビーが心配だからといってその化け物の身体ごと遠くへ飛び去ってしまった。
猛獣使いは、いわれのない言いがかりをつけられたという顔で腕組みをして、睨むようにルビーを見下ろした。
「いいだろう。そこまで言うなら、一緒にライオンの檻に行こうじゃないか」
「ええ、わかったわ」
頷いたルビーは、自分から船室に続くドアに向けて歩き出そうとして、ふと足を止めた。
ルビーの横にいる猛獣使いの頭の位置が、いきなりぐんと高くなったような気がしたからだ。
振り向くルビーの目の前で、猛獣使いの姿は驚くべき変化を遂げていた。
暗い茶色の髪はきららかな金茶色に、茶色かった瞳は淡いブルーに変わり、鼻の下だけに生やしていた髭もいつのまにか色を変えて口全体を覆っている。身長が高くなるとともに、顎の張った四角い顔だったものが細面になり、ムキムキだった手足もすらりと形よく伸びていく。
年齢も、猛獣使いよりも10ばかり老けて見えた。カルロ首相ぐらいだろうか?
目の前で姿を変えた男は、怖い顔をしてルビーに言った。
「人魚、おまえのせいで、わたしは術を完成することができなかった。だから、おまえはあの贄の代わりにわたしと一緒に来るのだ」
ルビーは肩をそびやかし、怖い顔の男を睨み返した。
「あなたがなにを言っているのか、あたしにはわからない」
「さっきの背中の曲がった男のことだ。あれはわたしが見つけ、ずっと丁寧に育てていたのだ。あの男の中に静かに静かに絶望が巣食うように。この世界に対して何一つ希望を持てぬように。あの男は孤独の底でもがきつづけてそのまま力尽きるはずだったのだよ。おまえさえ邪魔をしなければわたしの計画は完璧だった。おまえが見世物小屋にのこのこ現れなければ、あれはおとなしく絶望の淵に沈んで息絶えていたのだ。周囲のすべてから疎まれ踏みつけられて、呪詛と憎悪にまみれてその生涯を終えていたはずだった。そうして、精霊に食べさせるための極上の贄となっていたはずだったのだ。おまえさえ、おまえさえ現れなければすべてうまく行っていたのに」
ぎりっと男は歯ぎしりをした。なおもルビーは男の顔を睨み返す。
「精霊? さっきのギザギザの歯の真っ黒な怪物は、精霊なの?」
「いかにも。わたしがライオンの中に隠して贄を与え続けていた精霊だ。だいぶ熟成が進んでいたがまだ固かった。腐敗を始めるぐらいが柔らかくなってちょうどいいのだ。精霊を腐敗させるためにはより強い恨みや絶望が必要だ。あの男はちょうどよい贄だったのだ。あの男の内側に負の感情がなるべくたくさん溜まるように、時間をかけて周到に周到に追い込んでいっていた。そうしてあの男を内側に取り込んだ精霊は、魂の内側から腐敗が進み、わたしの復活のための糧となるはずだったのだ」
「ロクサムはあなたの計画とやらのために生まれてきたわけでも生きてきたわけでもないわ」
わかりきっていることを口にして、ルビーは男に反論した。
「それに、もしもあたしがいなくても、ロクサムはそんな風にならなかったでしょう。あの人の心は哀しみでいっぱいだったけれども、それでもだれかを恨んだり憎んだりしていなかったのだもの」
目の前のこの不気味な男にそれを言い募ってもしかたのないことかもしれない。それでもルビーはロクサムのことをそんな風に悪いもののように言われることが我慢できなかった。
「あのライオンの怪物にロクサムを襲わせたのはあなたなのね。あたしはあなたを絶対にゆるさない」
「ほう。無力な人魚が、ゆるさないからといってなにができるのだ?」
男は笑った。そしてぐいと手を伸ばしてきて、ルビーの両腕をつかんだ。
「ライオンの中に隠していた精霊に取って代わるほどの魔力を人魚が身の内に溜めることができるかどうかはわからんが、少なくとも試してみることならできるだろう」
ルビーは腕をつかまれながら、考えをめぐらせた。
男はルビーのことを無力な人魚といった。
ルビーはこの男のことを知らなかったが、男のほうは見世物小屋にいたルビーのことを知っているのかもしれない。いや、もしかしたら、さっきの猛獣使いとのやりとりをそばで聞いていただけかもしれないけれども。
男はルビーに反撃する力はないと思っているみたいだけど、ルビーは空気を自在に動かしてかまいたちをつくり、ルビーをつかんでいるその手を切り裂くことならできる。無力かどうかはやってみなければわからない。
一瞬そんなことを考えて、ルビーは思い直した。この男は一時的に猛獣使いを乗っ取っているだけだ。そんなことをしたって、猛獣使いの腕が切られてしまうだけで、肝心の目の前の男はどこかへ逃げ出してしまうかもしれない。
「あなたはだれ? ほんとうはいま、どこにいるの?」
男の目を覗き込むと、ルビーはそう尋ねた。
男が一瞬かすかにたじろぐのをルビーは感じた。そののちぎらりと目を光らせて、向こうからもこちらを見返してくる。
「おまえはなぜ、わたしに名を尋ねるのだ? おまえこそ、名はなんという?」
ざらざらとした、頭の中に直接響いてくるような不思議な韻律を持った声。
かつてハマースタインの奥さまの屋敷を襲撃した王族の末裔の声を、ルビーは思い出す。
金茶の髪の見覚えのない男は、アントワーヌ・エルミラーレンと同じく強い魔力を持った貴族なのだ。
見覚えがない?
本当に?
ぶわりと髪が逆立つような感覚とともに、ルビーは理解する。
「あなた、ワルシュティン卿ね? 領地で暴徒に襲われて命を落としたはずの」
ワルシュティン卿。
昔ロゼッタを奴隷市場から買い取った貴族の名前だ。ジゼルさまの若いころの求婚者の1人で、ジゼルさまを伴って見世物小屋にあらわれ、ロゼッタが空中ブランコから転落して命を落とす原因となった男だった。
自分の口がその名を紡ぐのを聞きながら、ルビーの周りで幾度か話題になっていた当の人物はこんな姿をしていたのかと軽い驚きをもって、ルビーは目の前の相手を見上げた。
理解はしていても、やはりルビーにとっては見覚えのない顔だ。