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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[七] 少年とエルミラーレン公爵城(仮題/執筆中)
106/110

106 ロクサムの願い

 先日貴婦人に持ち去られたはずの"声"がルビーのもとに届けられたのは、泳ぎつづける大きな魚が南部の都をあとにして、ブリュー侯爵領の上空を横切っているときだった。


 突如として空に現れたのは、小さな塊だった。

 どこからか飛んできたそれを追いかけるように、アシュレイは一瞬身をひるがえして泳ぎ、大きな口を開けて飲み込んだ。

 アシュレイが飲み込んだそれは、もう一人の自分だった。ジゼルさまといたはずの、"人魚の声"の魔力だ。不意にそれがルビーの元に戻ってきたのは、空を駆けるルビーがロクサムに声を届けたいと、強く強く願ったからかもしれない。


 そのときルビーの意識は前へ前へと進むことしか考えていなかった。だから戻ってきた声の魔力とともに、何ものかが自分の内側に入ってきたことには思い至らなかった。


 けれども、アシュレイがそれを飲み込んだ瞬間、ルビーは気づかずにはいられない。

 覚えのない何かの意識がルビーの内側にほどけて広がったからだ。


 夕焼けの古城。城の地下に閉じ込められた、禍々しい気配のする闇の塊。夕日の中を遠ざかる馬車。黄金の草の波打つ冬枯れの草原。陰鬱な顔の、町の人々。起伏する南側の土地に広がる乾いたぶどう畑、その向こうに遠く銀色に輝くのは、静かな静かな海。まあるい水平線。


 胸苦しいような悲しみとともに広がる見覚えのない景色は一瞬で途切れ、何かの気配だけが胸の奥で息づいているのをルビーは感じた。それはひっそりと息を殺しているような感覚だったから、ルビーはいまはそれに目を向けることはせず、そっと胸の奥にしまったままで、再び前方へだけに意識を向ける。


 早く。

 早く追いつきたい。

 あの海の上を行く一隻の船に。

 ロクサムや、アートや、舞姫や、大玉乗りや、見世物小屋のみんなを乗せて走る船。


「ロクサム!」


 自分の声が、空に響いた。

 声は魔力を持ってただ一つの方角へ向け、稲妻のように走る。


 それとともに、大きな波の打ち付ける看板に立ちすくむ少年の姿が、ルビーの目に映る。ぼさぼさの茶色い髪。丸く曲がった背中とうつむき気味の顔。短い腕を必死に伸ばして、船べりの柵につかまっている。

 まだ距離がある。

 ほんとうなら、姿を見ることなど叶わぬほどの遠くだ。

 ルビーの声が届いたのか、ロクサムは驚いた表情になって空を仰ぎ見た。


 海は時化の真っただ中だ。波にぐらぐら揺れている。灰色の波しぶきが甲板の手すりを超えて散る。


 なぜロクサムは1人で甲板に出てきているのだろう。


 直後にその謎が解けた。

 甲板に、ロクサムは追い詰められている。彼を追い詰めているのは猛獣使いと、檻から解き放たれたライオンだった。


 猛獣使いは、鼻にしわを寄せて笑った。


「なにをいまさらちょこちょこと逃げ回ってるんだ? おまえこいつを可愛がってただろ? こいつはいま飢えてるんだから、そんな風にお預けくらわせてないで、ちゃんと食われてやってくれよ」


 ライオンはいつもの様子ではなかった。目を不気味にぎらぎらさせて、恐ろしい形相でロクサムを狙っている。


「座長のお許しが出たんだよ。おまえをこいつに食わせることにしたんだ。船に乗ってからこっち、ごろごろ寝てばっかりで、ちっとも仕事をしない雑用係は要らないってよ」

「おっ…おいら、背中が痛かったから、お休みをもらってただけで……なっ、治ったら、また働くって、ちゃんと、やっ、やくそく……」


 ライオンが咆哮し、ロクサムは、うわあっと声を上げる。


「せっ、船医長っ! まっ、舞姫さんっ! だっ…だれかっ、助け……」

「知らんのか? おまえをかばっていた船医長はいま、船を降りちまっててな。舞姫もブランコ乗りも怪力男もいないぜ。みんな水と食料と日用品の補充を手伝いに行ってるのさ。幸いこの時化で、船は沖合に停泊することになったからな。嵐がやむまで連中は戻ってこない。おまえを助けるやつは、いまだれもいないってわけさ」


 ロクサム! ロクサム! ロクサム!!!

 間に合って! お願い!

 ルビーの祈りを乗せ、アシュレイがぐんぐんスピードを上げ、港に近づいていく。


 ライオンは恐ろしい咆哮を響かせたあと、ロクサムの目の前で、むくむくと膨れ上がってその姿を変えた。色は漆黒に。金色だったたてがみは、グロテスクなうろこのようなものに。牙が伸び、眼球が飛び出て、顔全体も大きく膨らみ、硬いぎざぎざのうろこに覆われる。身体は真っ黒な毛に覆われ、ごつごつの岩のようなシルエットになって巨大化し、手足が節くれだって曲がり、鋭い鉤爪が伸び、背中から真っ黒な翼が現れた。

 巨大な怪物を舳先に乗せた船は大きく傾き、打ちつける波が甲板を洗う。猛獣使いは甲板の手すりをつかんで怪物を見上げている。反対にロクサムの手は、つかんでいた手すりから離れてしまう。ロクサムの小さな体が中空に投げ出されていくのが見えた。

 

 アシュレイは海にたどり着き、荒れる波の下に潜る。揺らめく水の中、さらにスピードを上げ、まっしぐらに停泊中の船を目指す。


 その怪物は、漆黒の翼を大きく広げて滑空し、尖った歯ののびっしり生えた巨大な口を開け、ロクサムに襲いかかった。

 アシュレイは水中から大きくジャンプし、青く輝く尻尾で怪物を打つ。

 ライオンの化け物はまるで鉄の塊みたいに重くて堅くて強大で、アシュレイの攻撃がヒットしても、びくともしない。

 アシュレイはぶつかった反動で、もんどりうって水中に落ちた。


 怪物がロクサムを呑み込んでいく。ロクサムは頭からバリバリと噛み砕かれ、ちぎれてその口からはみ出した腕や足が宙を舞う。

 怪物はそのまま翼を広げ、さらにちぎれた手足を追って行って飲み込んだ。

 その口から、さらに指が一本噛み千切られて飛び、波にのまれて海に沈んでいく。


──ロクサム!


 アシュレイは海に潜って、ちぎれて沈んでいくロクサムの指を、追いかけてくる怪物からさらうようにして飲み込んだ。



***



 そこは暗い寂しい場所だった。

 ロクサムは曲がった背中をさらに曲げて、ぽつんと佇んでいた。

 途方に暮れた迷子のような顔で、ロクサムはルビーに言った。


「ルビー、さよならだ。おいら、あんたに会えてよかった」

「駄目っ! ロクサム! そっちへ行っては駄目!」


 暗がりの中の、さらに暗い場所へ向けて歩き始めようとするロクサムを、ルビーは懸命に呼び止めた。


「そっちへ行ったらロクサムは、あの怖い怪物の一部にされてしまうわ。だからあたしと来て。あたしと一緒に海に潜ったり、空を駆けたりしましょう」


 ルビーは手を伸ばすが、ロクサムはその手を取ろうとはせず、少し後ずさりながら首を振った。


「おいら、あんたとは行けないよ」

「どうして?」

「おいらは、あんたの中にはいられない。悲しい気持ちや苦しい気持ちが大きすぎて、そんなものをあんたに持たせたくないんだ」

「悲しい気持ちは一緒に持てば、きっと少しは軽くなるわ。それにあなたに悲しいだけでない記憶も分けてあげられる」


 ルビーの記憶だって、幾つもの悲しい思いに彩られている。

 友だちを心配して、心配して、ずっと待ってて、人間に捕まって殺されてしまった魚の記憶。

 空中ブランコの上から舞台に飛び降りて、大切な人を残したまま、たった1人で逝ってしまった少女の記憶。

 その中にロクサムの記憶がやってきて溶けても、きっとルビーはこれからも、こんな風にしてやっていける。


 ルビーの心の奥底には、やさしいやさしい海の風景が広がっている。生まれてははじけるたくさんの泡に囲まれて、たくさんの生き物とともに、ゆったりと海の中で過ごした記憶。

 凍える銀色の月の下、波しぶきを上げて海のおもてに跳ね上がり、遠く遠くへ泳ぎ続けた魚の記憶。

 歌うような波の音の記憶。

 空一面に広がる、またたく星の記憶。

 静謐な夜明けの光の記憶。


 一緒に行こう。ロクサム。

 あなたはあたしで、あたしたちの中に溶けて、ルビーの中の記憶の1つとして生き続ける。

 あなたの生まれた町へ、ふるさとの町へ、生まれたときのあなたを知っている人を探しに行こう。

 もしもそこで悲しみにくれる出来事があったとしても、あたしたちはそれを乗り越えて、生きていこう。

 笑いながら行こう。抱えきれないほどのたくさんの悲しみを抱えていても、それでもきっと歩き続けていたら、その向こうで新しい景色に出会えるから。


──ロクサム。


 ルビーの呼びかけに、しかしロクサムは再び首を横に振る。


「ルビー。おいらはあんたに、おいらではない別のあんたでいてほしいんだ」


 つっかえつっかえ、ロクサムは説明した。


「あんたはこの世界でおいらが出会った、たったひとつの希望で、宝物で、光で、命で、ぴかぴかの、輝くまぶしいもので、何があっても絶対失いたくない大切なものなんだ。だから……そんなあんたの中においらが溶けてしまったら、おいらにとってのあんたが、どこにもいなくなってしまう。そんなの嫌だ。そんなの絶対嫌なんだ。おいらには、そんなこと考えられない。おいらの外に、おいらじゃない別のあんたが、この世界のどこかに居続けていてほしいんだ。それだけで、おいらはどこにいっても、これから何を失ったとしても、全然かまわない。おいら、たとえ、もう2度とあんたに会えなくてもいい。ルビー、あんたにいてほしい。ただ、そこにいてほしいんだ。だから──」


 だから一緒には行けないと、ロクサムはそう繰り返した。


 ここがルビーの心の中だからなのか、それともロクサムの心の中でもあるからなのか、ロクサムの言葉とともに、深いところからその気持ちが伝わってきた。



 生まれたときからないがしろにされ、殴られ、踏みつけにされ、虐げられて育ってきたロクサム。

 物心ついたときにはもう見世物小屋にいて、舞姫をかあちゃんと呼んでいたら、いろんな人に怒られて。あのひとはあんたの親じゃないんだからそんな風に呼んじゃいけないと、叱られて、ののしられて。


 最初やさしかった舞姫も、体を壊して亡くなるちょっと前頃には、すっかり冷たくなってしまって。いつもそっけない態度で、そばに行こうとするロクサムを、そのたびに声を荒げて追い払って。


 舞姫が亡くなった後は、ずっと一人ぼっちで、けがをしても病気をしても、だれにも心配してもらえず、一人で寝て直して。どんなに具合が悪くても、怠けているといって叱られて。

 あっちでもこっちでも、仕事がのろいと、ぐずだと。怒られて、怒鳴られて。

 仲良くなったと思った厩番にも、なにが原因かはわからないけど、嫌われて。


 ルビーだけだったのだ。ルビーだけが、いつでも変わらない声で、あたたかな笑顔で、ロクサムをロクサムと呼んでくれた。笑ってくれたし、ロクサムのために怒ったり悲しんだりしてくれた。


 ロクサムは自分の運命を恨んだり呪ったりしないよう、頑張って頑張って懸命にただ生きてきたけれども、もしもルビーに会えないままに、だれにも望まれず、顧みられず、あげくにこんな風に食い殺されて終えるだけの生涯だったら、もしかしたら、最後の最後には、なにもかもを激しく呪い、恨み、呪詛にまみれてしまっていたかもしれない。


 けれどもただルビーがそこにいるだけで、ロクサムの声を呼んでくれて、ロクサムの危機に気づいてくれて、遠くから、うんと遠くから駆けつけてくれたことで、ロクサムはもうすべてが報われたような気がしたのだ。


 ルビーはロクサムの、大切な、大切な、たったひとつの大切な存在なのだ。

 こんな自分がルビーの中に混ざってしまうことなど、絶対にあってはならない。

 だからルビーの方には行けない。

 自分は、自分を食い殺したあの怪物の方に行って、あの怪物の中に混ざるのだ。


「……っ、駄目よ、そんなっ!」


 ロクサムを呼んで目を見開いたルビーの顔は、泣きそうに歪んでいる。


「駄目っ、ロクサム、行かないで!」


 ロクサムはルビーの声を振り切るように、向こう側の闇へ向かって飛び込んだ。



 ルビーの内側から、ロクサムの気配が消える。

 そうして、深い深い沈黙が降りてきた。

 呼んでも叫んでも、ルビーの中には、もうロクサムはいない。

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