105 ロクサムが呼んだから
地下貯蔵室のドアの前だった。ルビーは急いで編み上げの靴にもう一方の足を通す。
廊下に、女将のヒステリックな怒鳴り声が響いてきた。
「あんたたち、あたしの空間をどこにやっちまったんだ? 竜頭は? あの方からあたしがお預かりしていた竜頭を、一体どこへ隠してしまったんだい?」
カナリーもこの場からいなくなっていたのだが、女将は金髪の少女についてははなっから問題にしていない様子で、囚われていた精霊のことばかりをひたすら口にする。
「畜生! 仲間が外に居やがったな。どうやってか連絡をとって外から壊しやがったな。そいつはどこにいる? 竜頭をどこへ連れていきやがった? 言え! 言うんだ! 言わないとただじゃおかないよ!」
鉄で出来たドアがぐにゃぐにゃ歪んで刃物のような形に突き出たかと思うと、ちぎれたそれがモリオンの方を目がけてまっしぐらに飛んできた。
モリオンはそれをこともなげによけると、静かな口調で返した。
「あなたが閉じ込めていた精霊は解放したわ。彼は世界の果ての大いなる根源のもとに還っていって、もうどこにもいない」
「なんだってえええぇぇぇぇ」
今度はものすごい形相になった鉄の塊とともに、こぶしのような形のものが飛んできた。
貯蔵庫と廊下を隔てていた扉は定位置から完全に外れ、ぐにゃぐにゃしながらルビーたちに襲い掛かる。
「殺してやる。おまえらなんか、生かしておくもんか。ぐちゃぐちゃに引き裂いて、見る影もない醜い形に変えてから、あの方への供物として届けてやる」
突然、床がひび割れ、その下から太く大きな植物のつるがしゅるんと伸びてきた。そのつるは鉄でできた憤怒の顔に巻きついて、突き出されたこぶしからモリオンとルビーを守る。
「あの方って?」
平然とした顔で、モリオンがそう問いかける。
鉄の扉と一体化した状態の女将は、「なんだこれは」とか「畜生離せ」とかじたばたもがきながらつぶやいていて、モリオンの問いに答えようとはしない。
「ねえ、あの方って?」
重ねてモリオンは聞いた。
「教えて。だれのことなの?」
「そんなのだれが言うもんか」
つるの束縛から逃れ出るのを諦めたのか、女将はじたばたをやめ、こんどはルビーにその鉄錆色の目を向けてきた。
「そっちのやつも人間じゃなかったんだな。畜生、あたしとしたことが気づくのが遅れたよ。逃がした竜頭の代わりに、おまえら2人ともつかまえて閉じ込めてやるよ。ゆっくり熟成させて、甘美な供物にしてやろう。そのきれいな顔から切り刻んでいって、剥がした顔の皮からあの方に食べてもらうんだ」
モリオンはルビーのことを手でそっと後ろに下がらせながら、扉に溶け込んだまま長いつるに巻きつかれた女将に一歩近寄った。
「あなたの本体は、いまどこにあるの? これ以上悪さしないように、あなたの力を封じさせてもらわないと」
「そんなの言うわけないだろう」
女将の形にぐにゃぐにゃ動く鉄の塊は、あざわらうように答えた。
「いいえ、答えてもらうわ。いまその鉄の塊の中にいるあなたは、どのみち本体とつながっているのだもの。ここから逃れようとするだけで、わたしを本体のところに案内してくれる」
モリオンがそう告げると同時に、鉄の扉に巻きついたつるが、さらに2本、3本と数を増やしながら、万力のように女将を締めつけ始めた。
「ぐえぇっ」
鉄の塊の女将は奇妙なうめき声を上げる。その一部が腕や足の形になり、束縛から逃れ出ようとして、つるの隙間から突き出てくる。そこにさらに新たなつるが巻きついていく。すべてを覆うようにびっしりと。
「ぐるじいぃぃぃぃぃぃ」
女将はヒィヒイ苦しむ声を漏らしながらも、すでにじたばた動くこともできなくなっている。モリオンはわずかに眉をひそめ、それを凝視している。
そのときだった。
どこからか、ルビーを呼ぶ声が聞こえたのは。
──ルビー……
『だれ?』
きょろきょろと周囲を見回しながらもルビーは気づく。
声はすごく遠くからだった。南都の町中ですらない。さらに、もっと遠くだ。
──ルビー。
今度はもっとはっきり聞こえた。
え? ロクサム?
ルビーは顔を上げ、足で床を蹴り、高く飛び上がった。
地下の天井を抜け、建物の壁も屋根もそのまま通り抜け、屋根の上に、そして空に浮き上がる。途中の部屋を通り過ぎるとき、宿泊客のぽかんとした顔に見送られたが、ルビーは全く気にせずぐんぐん高度を上げた。
風が吹いてルビーの赤毛を吹き上げる。
風の向こうの、少し南へ振った西の方角。その方向からロクサムの声が届く。
──さよならルビー、おいら、もうだめだ。最後にもう一度あんたに会いたかった。
『ロクサム!』
ロクサムの声は、何かしらただならぬ様子だ。一方ルビーは声が出せなかった。だからロクサムに返事を届けることができない。声が出ていたらルビーはきっとものすごく遠くまで響くような大声を上げていただろうに。
ロクサムはどこから呼んでいるんだろう。さよならって? どういう意味?
ルビーは空に大きく身体を広げた。
いまのルビーは魚の姿になっていた。
大きな大きな、途方もなく大きなカジキマグロの姿だ。
大きな尻尾を左右に振って、今まさに泳ぎだそうとしたとき、不意にモリオンが隣に現れた。黒いワンピースを風にはためかせながら宙に浮かんでいる。
「どうしちゃったの、ルビー」
「あたし、行かなきゃいけないの」
空気を操り声に似せ、モリオンにそう答える。もしも見えない遠くのロクサムのそばの空気を震わせることができるなら。ルビーにその力があったら。けれどもそんなやり方はルビーにはわからなくて、やっぱりロクサムにはどんな声も届けることができない。
「待って。どこへ行くの」
「呼ばれたの。ロクサムに」
ルビーの言葉でモリオンはすべてを理解したらしかった。
「あなたが名前を教えた人間が呼んでいるのね。だけど待って、ルビー。そんな風に人間のいうことにそのまま従うのは危険だわ」
「ロクサムはいい人よ。やさしい人なの。悪いことはしない。悪いことを考えたりもしないわ」
ルビーの言葉に、モリオンは悲しそうな顔になる。
「わたしのアルベルトだって、悪いことを考えたりする人じゃなかったわ。強い、まっすぐな目をした人だった。だけど、時間が彼を変えてしまった」
「モリオン?」
人間は変わる。いつだったかモリオンはそう言った。
わたしのアルベルト。モリオンが唇に乗せたその言葉の中に、彼女の深い悲しみが込められていることを、ルビーは感じ取る。
だけどルビーとロクサムの間には、変わるような時間も変わることのできるきっかけもなにもなく。大人になることも、強くなることも、ただ自分の身体ひとつをを支えて立ち上がることすら、たったそれだけのことすらできずにいて。
いまだけが、つかむことのできるわずかな時間で。その中で、ロクサムの言葉は切羽詰まった響きを帯びていて。自分はその声に応えることもできずにいて。
「ごめんね、モリオン。あたし、本当に行かなきゃならないの」
決意を乗せた声で、ルビーはそう言い切った。
「……わかったわ」
モリオンは小さく頷くと、両手を差し伸べた。
その両手の中に、小さな鞘に包まれた黒曜石のナイフがふっと現れる。
「少しの間また、これを借りるわね。あなたがこれを持って行ってしまうと、影であるわたしは南都にとどまることができないわ。わたしはここに残ってあの女将の魔力を封印するか、もしもそれができなくとも、少なくともあの分身は拘束したまま、この宿でこの依代とともに待つわ。あなたはなるべく早く戻ってきてちょうだい」
いまのモリオンは"影"だ。本当のモリオンは精霊界にいる。太陽の賢者たちと次の川の王を決めるために精霊界に残ったのだ。ここにいるのは影だから、依り代から遠く離れては存在できない。ルビーが遠い海の上にいるはずのロクサムのもとに黒曜石を持ったまま向かうなら、モリオンも南都を離れてついて行くほかなくなる。
「あなたが戻るよりもさきにわたしの本体がここに戻ってこれたら、あなたを待たずにロメオとジュリアを探しにいくわね。もしも行き違ったら、いつもの宿で落ち合いましょう」
ルビーは頷き、あとはもう何も言わずに泳ぎ始めた。
西へ、西へ、西へ。
ロクサムの声のした方角へ。
ぐんぐんスピードを上げ、風の中や小さな雨雲を横切り、ひとすら西へと泳ぎ続けた。