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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[七] 少年とエルミラーレン公爵城(仮題/執筆中)
104/110

104 空を飛ぶ魚

 なぜかロメオは再び雨のしのつく古城の路地にいた。

 エルミラーレンの城ではない。ブリュー侯爵城だ。

 いつの間にか夜が明けていたが、分厚い灰色の雲に空は覆われ、大量の雨粒が落ちてくる。

 身体の中をサアサアと雨粒が通り抜けるのが妙な感じだった。


 先ほどと感覚が違うのは、雨の音も感触も、湿った水の匂いも、時折吹く風も、妙にリアルに感じられることだ。

 身体ではないが、身体に近い何かの感覚をともなって、ロメオはそこにいた。

 術によって過去に飛ばされていたさっきまでの状態とは明らかに違っていたが、肉体を伴う感覚ともまた違う。やはり身体は置いてきてしまっているらしかった。

 街を徘徊しているものたちは、あいかわらずジゼルを探し出せずにいるらしい。灌木の茂みに引っかかったままのジゼルの首も雨に濡れていた。

 ぼんやりと光をまとうそれに、ロメオは近づいた。

 近づくと光は単調ではなく虹のようにいろいろな色を伴って、揺らめいたりはじけたりしているのがわかった。さらに近づくと、声が聞こえた。


 雨に濡れた髪の毛の間に、小さな小さな少女がいた。

 子供の小指ぐらいの大きさのロビンだった。ロビンは人魚の姿をしていた。

 燃えるような赤毛で、ほそっこい白い腕をむき出しにして、小さな両手でジゼルの髪の毛をつかんで自分の身体を支えていた。髪の毛の間から鮮やかな赤い魚のしっぽが見えた。

 見世物小屋からロビンが貴婦人に呼ばれてきた最初の日、非番だったロメオは街に出かけていたから、これまで一度もロビンの人魚の姿を見たことがなかった。初めてロメオが見たロビンの人魚の姿は確かに異形ではあったが、禍々しさはみじんもない。むしろ可憐だった。


 ロビンは歌を歌っていた。

 ロメオにはよく意味のわからない、おそらく北方三国の言葉と思われる歌を。

 哀切を帯びたメロディが、どこか幼さの残る柔らかなロビンの声に乗って、途切れることなく流れ続ける。

 かすかにかすかに響くその声は、ロメオの目には鮮やかな色を伴って、ジゼルの首の周辺を包み込んで見えた。


 きのうの夕刻からジゼルの首が置かれていた状況を、ここでロメオはやっと理解した。

 ロビンの歌が結界の役割をしていて、あの徘徊する化け物たちは、ジゼルの首を見つけることができないでいるのだ。


 小さな小さなロビンは、ロメオの気配に気づいたのか、歌いながら振り向いた。

 目をあげ、ぱっとうれしそうな顔になる。


──ああ、よかった!


 頭の中に直接声が響いた。


──よかった。悪しきものたちに見つかる前に、ロメオが来てくれた!


 声というよりも、少女の気持ちが直接響いてきたような感じだった。


「ロビンなのか? なんでここにいるんだ? なんだかやけにちんまくなったな?」


──だってあたしはロビンの一部だもの。全部じゃないからこの大きさなのは仕方がないわ。


 ひょっとして、ジゼルの言っていた声の元、とやらだろうか。こんな風に独立してロビンの姿をしているなどと、想像もしていなかった。


──ええ、あたしはロビンの声の部分よ。奥さまとともにブリュー侯爵城についてきたの。


「あんたの声をもとに戻してやってくれと、ジゼルに頼まれてる」


 その言葉には、少女はちょっと不思議そうな顔でロメオを見上げたが、歌うことはやめない。


──奥さまはいつロメオにそんなことをお願いされたの? 奥さまはこんな風に亡くなるつもりは全然なかったのよ。最後には殺されるかもとは思ってたかもしれないけど、もっとちゃんとたくさん闘うつもりでいらしたのよ。あたしだってもっと奥さまに力を貸すつもりだった。だから、まだしばらくは一緒に行動するつもりでいたはずなんだけど。


「さっき頼まれた」


──奥さまの一部がロメオに会いに行ったってこと?


「わからんが、そうかもしれん。いや、わからん。とにかく頼まれた」


──ふうん


 少女は少し首を傾げたが、それ以上何も返事をしないまま、ただ歌を続けた。

 ややあって、ロメオはもう一度話しかける。


「だが、いまのおれは身体をほかの場所においてきているらしいんだ。うまく帰り着けたら、改めてここにあんたを迎えに来る。それまであんたはここで待っていてくれるか?」


──あたしは平気。自分でロビンのもとに帰れるから


「そうなのか?」


──ええ


 小さな少女は頷いた。


──もうすぐこの空の上を大きな魚が通るわ。だからあたしだけだったら、そこに行けるの


「魚?」


 唐突な少女の言葉に、ロメオは首をかしげた。


「魚が空を飛ぶのか?」


──アシュレイよ。ロビンのお友達だった魚で、今はその魚もロビンの一部なの


「ん?」


──アシュレイは人魚の一部だから、いまは空を飛べるのよ。


「ん? 人魚は空を飛ぶのか?」


──人魚は普通は海にいるけど、いまは空を飛んでいて、もうじきこの上を通りかかるの。


 うまく説明できないらしく、少女は考えあぐねた顔になる。

 ロメオは少女の言葉の意味をいったん横に置いて、質問を切り替えた。


「あんたは、その空を飛ぶ魚とやらのところに行けるから、ロビン本体のところに自分で帰れるって言いてえのか?」


──ええ。あたしだけなら。


 少女は少し考えて、言い加えた。


──でもあたしは、奥さまを連れて行きたい。あたしがここから離れたら、奥さまの首はお城の怖いものたちに見つかってしまうわ。この町はいま、全体が黒い霧に覆われているから、アシュレイはこの空の上を通ることはできても、ここまで降りてくることはできないの。あたしでは奥さまの首を持ち上げることができないから、ロメオが来てくれてよかった。手伝ってくれたら嬉しい。


 一方ロメオは難しい顔になる。


「あんたは一人で空を飛んでその魚のところに行きつけるのかは知らねえが、おれは空なんか飛べねえぜ。奥さまの首を運ぶのなんて無理だ」


──無理じゃないと思う。


 ロビンはじっとロメオを見上げた。


──だってロメオにはいま、アントワーヌ・エルミラーレンがくっついてるでしょ?


「なんだって?」


──ほら、うしろにくっついてる。っていうか、必死の形相でしがみついてる。ロメオに魔力だけ持っていかれて引きはがされるのが嫌だって言ってる。


 ぞわりとしたロメオは思わず後ろを振り返ったが、そんなものは見えない。


──ロメオはいま、アントワーヌ・エルミラーレンの魔力が使えるでしょ? どういう理屈かわからないけどアントワーヌ・エルミラーレンはロメオに憑りついて、それで憑りついた相手の魂の方にくっついて一緒にここに飛ばされてきちゃったのね。ロメオは好き勝手に動き回ることができてるみたいだけど、アントワーヌ・エルミラーレンの方は、自分からは何もできない状態みたい。自由に動けないのをすっごい悔しがってるわ。


「……かんべんしてくれ」


 そんなおぞましいことになっているなどとは想像もしていなかった。


 ──あのね、ロメオ。だからロメオはいまは空に浮くことができるはずだし、奥様の首を空に浮かせてアシュレイのところに運ぶことだってできるはずなの。あなたは身体をどこかに置いてきたって言ってたけど、身体がなくともその魔力を使えば簡単だと思うわ。


「魔力というならロビン、あんたにもそういう力はあるんだろう?」


 少女はふるふると小さな首を振る。


──あたしはただの"声"だから、こうやって歌うことしかできないの。アシュレイが近くに来たら自然にそこに戻ることはできるけど、それだけなの。


 少女は真剣なまなざしで、再びロメオを見上げた。


──だけど奥様をこんなところに置いて行ってしまうのは嫌。奥様にはこの場所に飲み込まれないでいてほしい。ここから逃れ出てほしい。この悲しくて強くて優しい人を、ブリュー家の宿命から救い出したい。一緒に連れて行きたいの。


 少女の言っていることは何となくだがわかった。あの不気味な影と黒い塊はジゼル・ブリューの復活をもくろんでいたのだから。半日雨にさらされたままだった首を、黒い血が流れるというあの身体に繋げ直すのはもう無理かもしれないが、ほかにもやり方がないとは言い切れない。

 そもそも干からびた人間たちはまだ、ジゼル・ブリューの首を探し続けている。何らかの目的や意図があるのだと考えたほうがよい。

 だが、ロメオにとっての問題は別のところにある。


「悪いがやり方がわからねえ」


 さっき貴婦人に中空で答えたのと同じ言葉をロメオは繰り返すしかなかった。どこかにスイッチがあって押せばできるというものならよいが、目に見えないし特別な感覚があるわけでもない。


──でも、いまあたしが届けたい言葉をちゃんと受け取ってくれているのもロメオなのよ。ええと、やり方はね、ただ強くイメージするの。なるべく具体的に思い浮かべるといいと思う。奥様の首が上に上に上がっていくところを。


 ロビンはそれをさも簡単なことであるかのように、ただイメージすればよいのだという。だがそれは、そんなに簡単な問題だろうか?

 首だけがふわふわと宙に浮く。そんなものはものすごくイメージしづらい。


 ロメオはそれを念じる代わりに手を伸ばして、俯いたジゼルの首をそっと持ち上げた。意外なほど普通に、触れることも持ち上げることもできる。首は思ったよりも軽く、そして冷たかった。その冷たさと軽さに胸が痛む。枝に引っかかった栗色の髪をなるべく痛めないようにそっと外し、ぽっかりと開いたままだった口を顎に手を添えて閉じさせる。目はもとより閉じられていた。少し吊り上ったあの切れ長の目は、もう二度と見ることはできないのだ。


 さっきは意識せずともロメオは空中にいた。この首を持って、もう一度さっきのような場所に行くだけだ。

 そう思ったが、こちらは意外に難しい。

 自分は巨体で重量がある。それが宙に浮くのをイメージするのは簡単ではなかった。


──来るわ。


 ジゼルの髪の間から上半身を出して、赤毛の少女は空を見上げた。その間にも少女の口からは魔力を帯びた歌声がこぼれ続けている。

 ひどく大きな何かの影が、東北東の空からぐんぐんと迫ってきていた。

 それはとてつもなく巨大な魚だった。町は東の端から影になり、雨粒も遮られた。魚の影はどんどん広がって、次第に町を覆っていく。

 空いっぱいを覆う白銀の腹部が東の上空から近づいてくる。


 不意にロメオはひらめいた。浮かせるのは無理でも投げればよい。幸いロメオは人並み外れた馬鹿力だ。


「ロビン。荒っぽいが許せ。しっかりつかまっててくれ」


 声をかけざまロメオはジゼルの首を砲丸投げの要領で横に抱え、そのまま力を込めて投擲する。首が一直線に、魚に向かって届くよう、強く願いながら。

 目を丸くしたロビンがジゼルの髪をしっかりとつかみ直すのが視界の端に映る。

 ジゼルの首はまるで飛翔する鷹のように、すばらしいスピードでぐんぐん高度を上げていく。長い髪をまるでほうき星の尾のように真っ直ぐになびかせ、空の高みに向けてどこまでも上昇する。


 と、巨大な魚はそれに気づいたのか、やや身をひるがえして進路を変えた。あっという間に首に追いつき大きな口をあけて、首を──髪の毛につかまった小さなロビンごと──丸飲みしてしまった。

 一瞬の出来事だった。


 大きな魚はそのまま悠然と町の上を泳ぎ渡り、南西の空に──岬のある方角へと──猛スピードで消えていった。


 サアサアと雨が降り続く。

 くしゃくしゃに縮んだ亡者たちは探し物がもうここにはないことにも気づかず、雨に打たれながらうろうろと徘徊を続けている。

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