103 ジゼルの信頼
西の地平線のあたりにだけ濃い群青の光を残して、空は暗く沈みこんでいる。さっきまで夕焼けの風景のただ中、静かなまなざしで中空に佇んで貴婦人の姿は、光の残滓とともに消えていた。
ぐるりと周囲を見回した後、ロメオは再び街の石畳の上に降り立った。
日没直後の薄闇の中、ミイラのようになった者たちが前かがみになってうろうろ歩き回っている。
ロメオは再び古びた石畳の上に降り立ち、街を歩き始めた。ミイラとなった人々の前に回り込み、その様子を、1人1人、確かめるように見て回る。ミイラといってもまとう服や髪型はそのままであったし、くしゃくしゃに干からびた顔にも生前の面影が全く残っていないというわけではなさそうだ。
ロメオの兄たちは無事に南都に送り届けられた。ジゼルはそう言っていたが、それでも確かめずにはいられなかった。
全部で50体ほどであろうか。探した中にはロメオの兄や兄嫁や甥などの親族も、そのほかの旧知の姿もおそらく見当たらない。
カルロ首相が起こした竜巻にさらわれた人数の方がはるかに多かったのだ。ほとんどの人が無事で逃げおおせているものと思われた。
知人がいるかどうかを確認して特に何をしようと思ったわけではなかったが、知人がいなかったからといって、うろついているものたちをこのまま捨て置くわけにもいくまい。
ロメオはどうにかして自らの身体を取り戻し、改めてブリュー侯爵領に足を運ばなければならない。もしも肉体を伴ってここに戻ってこられたら、できるならばこのものたちをきちんと眠らせてやりたい。
それらのものたちがしきりに探し回っているのにもかかわらず見つけ出せずにいる貴婦人の首は、街路のわきの灌木の植え込みの下にあった。
それは淡い何かの光に包まれていて、ロメオには遠目からでもすぐにわかった。
長い髪が小枝に絡まり、白い顔は少しうつむいた状態で引っかかっていた。
干からびた亡骸たちには、それは見えないものであるらしかった。灌木の茂みのわきを、彼らはうつろな目のまま行ったり来たりを繰り返すのみだ。
次にロメオは、城の中に引きずられていった貴婦人の身体の行方を追った。自分の身体が置き去りにされているエルミラーレン公爵城へ戻らなければとも思いつつも、どうにも気になって仕方がなかったからだ。
城の奥には、地下に続く古い石の階段がある。城の中に灯りはなく、地下へと続く階段はほぼ真の闇に近い暗さだったが、身体のない今のロメオにはなぜか夜目が利くらしい。
亡き人の血痕が、かすかに、かすかに魔力を帯び、青白く光りながら転々と続いていた。
入口以外はすべて石でできた地下の一室で、首のない貴婦人はひどく古びて黒ずんだ石の台の上に横たえられていた。
上から亡骸を覗き込むようにして、人の形に似た、黒い塊がその傍らに屈み込んでいた。
と、黒い塊が身を起こした。頭部のあたりに二つのひび割れが生まれ、その部分が裂けて、そこからぎょろりとした目玉が現れる。目玉が何かを探すようにぎょろぎょろと動いたため、入口付近にいたロメオは一瞬見つかるのではないかと身構えた。しかしその目はロメオを素通りし、ぐるりと周囲を見回すと、部屋の奥の壁の一部に目を留めた。
「侯爵さま」
今度は二つの目の下から、口の部分が裂けて現れる。その口が動いて、少ししゃがれた声が発せられた。
「いかがいたしましょう。首から上がなければお嬢さまの正しい復活はかないませぬ」
「いま探させているが。どうにも見つからぬようなのだ」
部屋の隅にくろい影のようなものが動いて、その中から声が返ってくる。問いかけた石の台の上の塊と違い、侯爵と呼ばれた方ははっきりとした形を成していない。形を成さないというよりも、地下室全体を覆う濁りのようなものが一部だけ凝って、ほかの部分よりもやや濃い闇となったような感じだった。
「見つからぬものはあとでよい」
ぼんやりとした方の影は、やや聞き取りづらいくぐもった声で答える。
「おまえには先に体の方の処置だけ進めてもらおう」
「こちらのお身体からはすでに腐敗しやすい赤い血は抜き去り我々の黒い血を流し込みました。ですが、すでに半刻ほども過ぎております。首から上は切り取られたそのままですので、新しき血を全身に巡らせる術を完成させるには、刻限が迫っておりますかと」
「仕方ないだろうな」
侯爵と思われる影は、溜息交じりにつぶやいた。
「わが子ながら、どうにも困った放蕩娘でな。死んでなおわたしに逆らうつもりらしい」
「では侯爵さまは、お嬢さまの首はご自分の意志でわれわれから隠れておいでだとお考えですか?」
「困ったことだがね、それぐらいはやりそうな子なのだよ。弱き民らの間に紛れたがる物好きだったからね。あの子はわたしの与える新しい生命を喜ばないだろう。欠点のない、新しく強い、よきものなのだがね」
「探しても見つからぬということは、あるいは政府軍の術師の手によって、持ち去られてしまったのでは? 最後の最後に、術師が1人逃れ去ったのを確認しております」
彼らは貴婦人の身体を前に、復活と言っている。では、あの灌木の植え込みに引っかかっている首をこちらに持って来れば、ジゼルの復活はかなうということなのだろうか? しかし黒い塊は、彼女の身体から赤い血を抜き黒い血を流し込んだと言っていた。それは本当に生命と言えるものなのだろうか?
ロメオはもう少し近くでジゼルを見ようと、部屋の中をずいと進んだ。
ロメオが動いても、壁際の侯爵とおぼしき影にも台の傍らの黒い塊にも、何の反応もない。どうやら彼らにロメオの存在は感知されていないらしい。
間近で見たジゼルの亡骸は、やはり亡骸で、どう見ても生きているようには見えない。魔力を帯びた血痕がわずかにその首もとの石の台を濡らしていたが、それ以外は血液のようなものはどこにも残っていない。覗き込むと首の切断面からじわりと闇が滲み出しているのが見て取れた。
それは見るからにおぞましく禍々しいもののように、ロメオの目に映る。
けれどもロメオにそういった超常現象についての判断力はない。全くの畑違いなのだ。だから彼らが今から行おうとしていることが本当にしてはいけないことなのかどうかが、正直なところ自分にはわからなかった。
今ここで、さっき植え込みに引っかかっていたジゼルの首を持ち込んでこの胴体とつなげれば、彼女は復活できるのだろうか? 自分はみすみすそれを見逃してしまってもよいのだろうか?
ここにいるのがアートならどうしていただろう。どのような形でも、体内を流れる血の色が変わってしまっても、ジゼルにこの世界にとどまっていてほしいと願うのではないだろうか。
ロビンだってなんだかんだで貴婦人を慕っていた。カルロ首相も彼女を実の娘のように気にかけていた。
そこまで考えて、ふとロメオは我に返る。
これは過去の出来事だとジゼルは言っていた。
これは"過去視"の力で見ている情景なのだと。
夕刻、貴婦人の命は奪われた。それが何日前のことなのか、昨晩のことかはわからないが、少なくとも半日は経過しているのだ。つまり今見ている風景も過去だということだ。見ることはできても干渉できない。
一瞬で頭が冷え、それとともに、さっきの不可思議な対話を思い出す。
ジゼルは"喰らうもの"として生き続けることに対して、深く深く倦んでいたのではなかったか。もしも仮にそれが間に合うことだったとしても、落ちた首と身体をつなげて生き延びさせることは、ジゼルをさらに苦しめることになってしまう。
新しく強い、よきもの。ジゼルの父親のなれの果てであると思われる影は、復活によって得られる命をそう表現したが、それが贄を必要としないものであるようにはロメオには思えない。
先ほどの中空で対峙した貴婦人は、明るく穏やかな表情をしていた。もとから覚悟していて運命を受け入れたものの顔だった。もしもロメオにその手立てがあったとしても、黒い血とやらを使って彼女を復活させることは、決してしてはならないことだ。それは、死して後なおロメオに対して変わらぬ信頼を寄せてくれているジゼルに対する、本当の意味でのひどい裏切りに他ならない。
ロメオは多分、ジゼルにとってあまりよい使用人ではなかった。もとより忠誠心のようなものはなかったし、ハマースタインの護衛の職にありながらも奴隷解放同盟に所属し、場合によってはハマースタイン邸の抜け穴をその活動に利用したこともあった。ジゼルはもしかしたらそのことにすら気づいていたのかもしれない。気づいていて、彼を解雇するでなく、何のとがめだてをするわけでもなく、ロメオの好きなように自由にさせてくれていた。
さっきジゼル自身が言ったように、彼女は本当にロメオを信じてくれていたのだと思う。ジゼルの命令にちっとも従わなくても、すべてを自分の判断で決めて自分勝手に動いていても。
その信頼を決して裏切ってはならない。ロメオは改めて、強く強くそう思う。
さっきまでの自分は、ちょっと冷静になればわかるはずのことが判断できなくなっていた。どうやら自分はまだ、平常心ではないらしい。それは、ジゼルの死を心のどこかで受け入れられないでいるためかもしれなかった。
ロメオは心を落ち着け気を引き締めて、地下室の黒い塊と黒い影に再び目を向ける。
「うむ……」
傍でロメオが聞いていることなどまるで気づかぬ様子で、侯爵はゆっくりと口を開く。
「死んだものの首を、新政府のやつらがほしがるとは思えぬのだがね。しかし、もしそうであるならそれはそれで、手立てはあるから心配はいらない。そうだね、代わりにこの身体にふさわしい魔力を持った娘を探し出して、その首を据えることとしよう。おまえはその身体の延命だけを考えていてくれればよいだろう」
「代わりの首ですか?」
台の傍らの塊は不満そうな、何か言いたげな声になる。
「そうはおっしゃいますが、侯爵さま、あなたさまのお嬢さまにふさわしい魔力を持った娘など、そうそう見つかりますかな」
首から上が他人でもいいのかと聞き返すのかとでも思ったが、ロメオの予想は外れた。彼らにとっての問題はそこではないらしい。
それにしても、こともなげに話しているのは、身の毛もよだつようなおぞましい計画だ。生きた人間を捕えてきてその首を切り、貴婦人の身体につなげようなどとは。
「おまえの言うとおり、合うものなどそうそうすぐには見つからんだろうな。とりあえずつなぎとして、娘に見目かたちの似た若い女を捕えてきて、その首を使えばよいだろう」
貴婦人は生前、父親のブリュー侯爵との間には、肉親の情のようなものはないという意味のことを言っていたかと思うが、本当にその通りであったらしい。少なくとも、父親の側は。かけらでも娘に対して愛情を持った親の言葉ではない。
「そうですね」
台の傍らの塊は、そう相槌を打つ。彼は少し考え込むように言葉を切り、ややあって言った。
「……ですが、お嬢さまによく似た見目かたちのものでしたら、このすぐ下にいるのでは?」
「人魚のことか。ではおまえは、さらにこの下の階に続く隠し階段を知っていたのだな」
「侯爵さまがわたくしに新しい生命を与えてくださったゆえ。あれから視界が大きく広がりました。この城の建物の中ぐらいでしたらどこにいても見通せます」
そう答える声はどこか誇らしそうな響きだった。対し侯爵の声はどこか冷たく、感情のようなものが乏しい。
「あれはもう何百年もあの姿のままだと伝えられているが、おまえはあれがまだ生きていると思うのか?」
「生きているのではないですか?その胎の中の赤子とともに」
「呼吸もしていなければ脈も打たないものであるのにか?」
「どこも腐敗しておらず、新鮮なままです。首をお持ちくださればお嬢さまの身体とつなげられましょう」
「しかしあれは人ではなく精霊だ。おまえには精霊というものがわかるか? 見た目は人によく似ているが、その魔力は大きすぎるのだ」
「そうなのですか? あれにそのような魔力があるようにはわたしには見えませんでしたが。それに仮に魔力が少々大きくとも、お嬢さまにならば調和するのではないでしょうか」
「いや」
影がざわざわと揺れる。首を振ったのかもしれない。
「確かにわたしの娘の身体と釣り合うためにはある程度の魔力は持っていたほうがよいのだが、大きすぎると弊害も出てくる。子を孕むことがより難しくなってしまうのでな。娘はエルミラーレン殿下のもとに嫁ぐことになる。お世継ぎを生むという大切な役目があるのだから、人のままでなくてはならぬのだよ」
「孕むことが難しいと? あの人魚自体が子を孕んでいるのにですか?」
「人魚が孕んだいきさつは知らぬ。だが、娘の場合、お相手の方の魔力もより大きいものであるからね」
ここでもアントワーヌ・エルミラーレンの名前が出てきた。
しかしそれは不思議ではないとロメオは思い直す。ハマースタインの屋敷に現れた不気味な男は、ジゼルに対してブリュー侯爵の許しを得た正式な婚約者だと主張していた。
それにしても……と、再びさきほどと同じ疑問がロメオの頭に浮かぶ。
アントワーヌ・エルミラーレン殿下は、婚約者の首から上がジゼルと全く関係ない他人にすげ変わっても気にしないというのだろうか?
もし本当にそうならみな揃って頭がおかしすぎる。
「ではさきほど捕えたあの術師の首はいかがでしょう? さほど若くもなく、かつ男ではありますが。なかなかよい魔力を持つものであるようです。もちろんほどよい娘の首が見つかるまでのつなぎとしてではありますが」
影はざわざわと、再び首を振った。
「娘の首と太さが合わないことはさておき、あれはあれで別の利用法があるのだ。ほどよい魔力の持ち主であるとともに、よい剣士でもあるようだからね。あれは殿下のもとに送ろうと考えている。先日も1人、捕えた術師を送ったら、殿下はことのほかお喜びだったからね。今回も、殿下のしもべとしてよい働きをしてくれるものとなろう」
ジゼルを切りつけた専任護衛官は、やはり生かされたまま捕えられているらしい。また、いまの会話を聞いている限りでは、彼に関してはすぐに殺されるということはなさそうだった。
城の地下にいるという人魚の死体だか何だかも多少気になりはしたが、何百年も眠ったままのもののことはあとまわしでいい。とにかく何とかしてジュリアのもとに戻らなければ。
そう意識した途端、陰気な地下室が不意に遠ざかる。
気が付けばロメオは再び室内にいた。目の前には天蓋つきのベッドがあり、青白い顔をした病床の男が横たわる。
戻ってきたのだろうか? アントワーヌ・エルミラーレンの王城に。
急いで周りを見回したが、ここを後にする直前までそこにいたはずのジュリアがいない。身を起こすのも億劫そうだった病人のすぐそばにつき従っていたはずの医官もいない。
と、目の前の男が半身を起こした。
それを見るロメオは、目をしばたたかせる。
男の映像が、ロメオの前で大きく2つにぶれて分かれたのだ。
まるで割れた鏡に同じ人物の姿が2つ映っているかのように。
2つに分かれたその人物は、天蓋つきの豪奢なベッドのふちに寄りかかり、けだるげにこちらを見ている。
だが、同じベッドで同じ姿勢でいるはずの2つの姿は、同じではなかった。
1つはハマースタインの屋敷に現れた淡い金髪の色素の薄い冷酷そうな男のままだった。もう1つの姿はもっと濃い金髪──はちみつ色の髪をした、見たこともない若い男になっていた。
「じい」
見たことのない方の男が、聞いたことのない声でロメオに向かって口を開いた。
「兄上はやはり、デュメニアの爵位を返上してしまわれたのだな」
ひどく落胆した声だった。
「兄上は弟であるわたしのことは、ちっとも考えてくださらない。今度ばかりはわたしはすっかり絶望したよ。兄上はご自身が術師としての才覚も持たれているし、武人もかくやというぐらいの剣士でもある。なぜかしもじものものたちとも気が合うようだから、新政府の猿どもともうまく折り合いをつけてやっていけるのだろう。だが私は違う。根っからの貴族の血筋だから武人のような体力もない。といって、何か特別な才能があるわけでもない。兄上が爵位を返上してしまわれたら、この先わたしはどうしたらいいのだ?」
ロメオには聞こえなかったが、"じい"と呼ばれた人物が男に何か言い返した気配がした。
「だが、じい。とてもではないがいままでと同じ生活というわけにはいかないじゃないか。これまでは領地内で器量のよい気に入った娘を見かけたら、好きなときにだれでも何人でも呼び出して好きにはべらせることができたのに。兄上は領土も領民もこれからは国のものだから、もう好きにしてはいけないというんだ。これからは気に食わない生意気な領民を剣闘で闘わせて、それを見て楽しむことだってできなくなる。
兄上がそんなに爵位が継ぎたくないのだったら、代わりにわたしが喜んで継いだのに。そんなことを決めてしまわれる前に、一度領土に帰ってわたしに相談してくださればよかったのに。普段から意見が合わないからといって、なんの断りもなく勝手にそんな暴挙に走るなんて、ひどいと思わないかい? それに──」
男はやや声をひそめた。
「兄上もわたしも本当はただの貴族ではないのに。すべての公爵家の血筋が根絶やしにされたのだとしたら、いまとなってはわたしたちが唯一の正当な王家の血を引くものであるのだよ。わたしたちのひいお爺さまが王家から婿入りしてきた者であったのは公然の秘密なのに。王家の血を引くこのわたしが、これからは爵位も何もない、ただの平民の地位に甘んじよというのだろうか? なんとむごいことだろう」
それとともに、2つの姿のうちのもう一方の片割れ、アントワーヌ・エルミラーレンの姿をした方もロメオの方を向いて口を開く。
「じい、新しい薬を持ってきておくれ。精霊の肉を煎じたものが早急に必要だ」
彼は"じい"と呼ばれる人物に向かって、そう声をかける。
「この身体はあまり新しくなかったからね。このままでは腐敗が進行してしまう。これ以上腐敗が進むと、わたしの意識を──王家の末裔としての意識を──この身体にとどめ置くことができなくなる。それを食い止めるためには十分な量の精霊の血肉が必要なのだ。
それに、この身体は右足が折れて回復しないまま動かなくなったからね。折れた骨を修復しなければ、わたしは自由に動き回ることもできないのだよ。あの宿の女将に託した精霊の熟成は、まだあまり進んでいないのだね。名うての女術師と聞いて召し抱えたが、評判ほどではないのだね。あの竜頭の精霊の熟成が進まなければ──あのように固いままでは、煎じたものを薬として飲むことしかできない。精霊の肉を、私の血肉の一部として完全に取り込むことができないのだよ」
やはりじいと呼ばれた人物は、エルミラーレンに何か言葉を返したらしい。
彼は鷹揚に首を振った。
「違うよ。わたしはデュメニアではない。かわいそうに。まだ記憶が混乱しているんだね。かつてじいが仕えていた若者のことはもう忘れなさい。彼はもういないんだ。馬から落ちて亡くなったんだよ。ここはエルミラーレン公爵城だよ。わたしはカルナーナ王家の正当な末裔のアントワーヌ・エルミラーレン。じいの唯一にして絶対のあるじなのだからね」
ロメオはもう気づいていた。
これら2つはともに過去の映像だ。
自分はまだ現在に帰り着くことができずにいるらしい。
デュメニアの名前はロメオも知っている。カルナーナ政府の要人で、ブランコ乗りアートの兄とともに、新しく見世物小屋の後援者となった男だ。そしてロメオと同じく奴隷解放同盟の後方支援者でもある。
はちみついろの髪をしたこの若者は、あのジグムント・デュメニアの弟ということだろうか。どうやら兄と違って典型的な貴族であったらしい。領民を人とも思わぬタイプの。
一方、薄い金髪の不気味な男の方は、ジグムント・デュメニアの弟のことを、落馬して命を落としたのだと言った。ではロメオとジュリアが相対した病床の男は、アントワーヌ・エルミラーレン公爵が、デュメニア伯爵の弟の死体に憑依した状態であったということか。
ロメオは再び周囲を見回した。古い調度に囲まれた部屋は、確かに先ほどジュリアとともに案内された部屋に他ならない。場所は同じなのだ。
どうやったら過去から現在に戻れるのだろう。戻りたいのだが、やり方がわからない。
そう考えた途端、再びロミオの周囲の景色が転換した。